狂言誘拐 4
時間にして冬吾が帰宅する一時間ほど前。峯地が持ってきた情報を聞いたあとのことだ。
誠からの連絡を受け取ったミソラは、自宅のリビングであまねたちと対峙していた。
「速水浩大」
ミソラが口にした名前を聞いて藤木の顔色が一瞬にして変わる。
「……誰の名前ですか?」
「マコトくんから連絡がありました。九条グループでは近年とくに問題は起きていない。けれど、十二年前に一度横領が発覚したそうです。示談ですんだようで刑事事件にはならなかったようですけど、金額は相当なものだったんじゃないですかね。その時に退職された方の名前が速水浩大。順当に考えれば彼が横領の犯人だと思いますよね」
「違う!」
学食での影の薄さが嘘のように彼はとても強い感情をみせた。
「マコトくんからのメッセージはまだ続きがあります。速水浩大氏には息子がおり、彼が縊死した際に発見したのは当時十二歳だったその息子さんだそうです。家長をうしなった妻子は二人で肩を寄せ合い暮らしていたようですが、数年前にお母様が再婚したみたいですね。喜ばしいことです」
ねえ、藤木孝成さん。と言ってミソラは笑った。
「薬師寺さんは一体なんの話をしているんですか。速水? 聞いたこともない」
藤木は懸命にミソラの遠回しの確認を否定する。
「あらあらあらそんなそんな。ちょっと探れば判明するようなことを否定してどうするんです? ねえ、あまねさんもそう思いますよね」
血の気の失せた顔で藤木はあまねに視線を向ける。
彼女は、それまでの騒がしさが消え不思議と穏やかだった。
「知ってたよ」
彼の隣に座っていた彼女は、とてもとても静かな目で彼を見つめた。
「……え?」
「孝成くんが私のお父さんのこと恨んでるって、私知ってた」
藤木の表情がひきつる。それでも彼はどうにか取り繕おうとした。
「部屋の机の一番上の引き出し」
しかし彼女の言葉に何か心当たりがあったようだ。
あ、と言葉にならない言葉が驚きで飛び出た飴玉みたいに口からこぼれ落ちる。
「遺書って書いてあったからびっくりして、読んじゃったよ」
あまねは深く頭を下げた。
「孝成くんのお父さんがお母さんと孝成くんに向けた言葉を勝手に読んでごめんなさい」
彼女が見つけてしまったのは、十年前に速水が妻子に向けて残した遺書だった。
全ての経緯と謝罪と恨みと罪の意識、妻と孝成への感謝がそこには綴られていた。
「あんなもの……取っておかなければよかった……」
髪の毛をぐしゃぐしゃにかきまぜながら彼は頭をかかえた。
忌まわしい記憶そのものの手紙だ。本当は捨てたかったに違いない。けれど、捨てられなかったのだろう。
再婚した母の手元に残すわけにもいかない。自分が持っているしかなかったのだ。
「捨てちゃ駄目だよ」
髪をひっぱる彼の手をあまねはそっと握る。
「孝成くんが本当に捨てたいって思うなら捨ててもいいと思うけど、少しでも後悔するなら取っておいたことが正解なんだと思う。それに、私は知らないまま一緒にいる方が嫌だよ。孝成くんがどっかにいっちゃう前に知れてよかった」
あまねが速水浩大の残した遺書を発見したのは一年も前のことだった。
「最初はね、やっぱりショックだった。孝成くんが私に言った一目惚れしましたって言葉は嘘だったんでしょう。そのあとの孝成くんが私にくれた言葉も、一緒に過ごした時間も、全部全部嘘でできてたんだって思ったら悲しかった」
けどね。と続けて、あまねは目元に浮かんだ涙をひっこめるために上を向く。
「私、それでも孝成くんが好きだった」
馬鹿だと思った。裏切られて、それでもなんて。悲劇に酔っているのかもしれないとも思った。
あまねは他人から思われているほどロマンチストではない。むしろ可愛げのないくらい現実主義な自覚がある。それなのに孝成が好きなままだったのだ。
だって、例えそれが嘘だったのだとしても、本当にあまねの意思を尊重してくれる男の子と出会ったのは彼が始めてだったのだ。彼に出会うことでやっとあまねは自分の意思を蔑ろにされる悲しさを知った。だから――。
「だから、いいやって思ったの。孝成くんが私のことも恨んでいたって構わない。私のこと本当は好きでもなんでもないんだとしても構わない。だってそれ以上に、私は、」
言葉が喉につまったのをごまかすようにあまねは深く息を吸う。
次に吐き出したのはつまったものとは別の言葉だった。
「けど、ずっと一緒にはいられないんだってことにはすぐ気づいてたよ」
私、馬鹿じゃないもん。と自嘲気味に彼女は笑った。
「私と一緒にいる限り孝成くんは自分のお父さんのことを忘れられない。私を通してずっと過去の出来事を見続けなきゃいけなくなるし、もしも孝成くんが私のことを好きになってくれていたって、騙したって負い目を持ち続けて生きることになる。そんなの二人とも幸せになれない。駄目だよ、それじゃ」
だって、あまねは、一緒にいるなら二人で幸せになりたい。
自分とではどうしても幸せになれないなら、手放すしかない。
「不幸になるのが分かっているなら一緒にいられない。私はどうせ生きるならなるべく幸せになりたいし、孝成くんにも幸せでいてほしい」
屈託なく笑えることが幸せなのだと、あまねは孝成から教えてもらった。だからあまねは、それだけは手放したくないし、彼の手のなかにだってその幸福が存在していてほしい。
「今年になってお見合いの話が現実味をおびてきてとうとうリミットがきたんだって思った。自分で決めたことだけど、嫌だなって思った。なんで好きなのに離れなきゃいけないのって、一人の時にたくさん泣いた。でも何度考えても気持ちは変わらなかった。私は幸せになりたい。後ろめたさを感じながらずるずる二人で不幸になることはできない。だって人生そうそう簡単に終わってくれないでしょう? 今はよくてもきっといつか後悔する。私は、自分で決めたことを誰かのせいにはしたくない。だから……」
離れる。
幸せを願う気持ちだってきっとエゴだ。
あまねはあまねのために孝成に幸せになってもらいたかった。
ぱっと花が開くように笑って、彼女は明るい声を出す。
「私ね、別れる前に何かできることがあるんじゃないかなっていっぱい考えたの。私ができること、九条冬吾の娘の私にしかできないことがあるはずだって思った。復讐を手伝うとかじゃない。会社が潰れたら困る人がたくさんいるし、私は孝成くんに幸せになってほしいんだよ? 犯罪者にはさせない。そんなんじゃなくて、私はこれから先の未来、普通の人生を孝成くんにあげたかった。お父さんがめちゃくちゃにしてしまった普通を孝成くんに返したかった」
幸せそうな家族連れを見てふいに表情が暗くなった藤木の顔をあまねは今でも覚えている。
その時はまだ知らなかったから分からなかったけれど、今なら合点がいく。
誰かの幸福で傷ついてしまうことは、二重に悲しく苦しいだろう。
もう背負わなくていい重荷を、あまねは藤木の肩からおろさせたかった。
「狂言誘拐なんて馬鹿馬鹿しいことを私は本気でやろうと思った」
なんのために?
藤木が忘れる代わりに、父親に生涯、速水浩大のことを覚えていてもらうために。
「自己満足だよ。分かってる。こんなことをしたって、本当はきっと何の意味もない。けど、何もしないよりはいい」
あまねのことを意思のない人形とでも思っている父親のことだ。きっとひどく激昂するだろう。それによってあまねの自由はきっと今よりなくなるだろう。
父親から疎まれ、本当だったら与えられていたはずのものだって失われるのかもしれない。
「お父さんはきっともう速水さんのことを忘れてる。罪悪感だってきっとない。今から反省させることも私にはできない。お父さんは私の意見なんて重要視しないからまともに話を聞いてくれるとは思えないもん。ならせめて思い出させるくらいのことはしたかった」
誠とミソラにだって迷惑をかける。でも他に頼れる相手もいなかった。
自分一人でやったところでまともに取り合ってはもらえない。誰か他人を巻き込まなければいけなかった。そんな時に友人から誠たちのことを教えてもらった。相談にのるのが趣味で、面倒事にもつきあってくれる人たちがいると。
「私の我儘に巻き込んでごめんなさい」
全部分かっていてそれでもあまねは行動にうつしたのだ。
謝罪されたミソラはいつも通りの薄い笑みを浮かべながらゆるく首を横にふる。
「狂言誘拐という貴重な経験をさせてもらえたので構わないですよ」
気持ちを軽くさせるための冗談だと思ったのだろう。あまねは苦笑した。
彼女の隣に座る藤木は、蒼白な顔色でありながらも彼女の言葉を一言ももらさないように話を聞いている。
ありがとう。と言うと藤木に視線を戻したあまねはぎゅっと顔に力を入れた。彼女の視線に気づいた藤木とあまねの目が合う。
彼の顔はみるみる罪悪感で満たされていった。あまねの薄く涙の膜が覆っている目に彼の顔が映る。
「一つだけ教えて」
とても優しくあまねは問いかける――私のことも今でも恨んでる?
「九条冬吾に自分と同い年の娘がいるってことは前から知ってた」
真っ向から彼は答えた。
夜の海のような目のなかには、切実な表情をしたあまねがいる。
「大学で君の姿を見つけた時、運命なんじゃないかって思ったんだ」
孝成、忘れるなって耳元で囁かれた気がした。
あまねと大学が同じだったのは偶然だった。けれど偶然だったからこそ必然性を感じた。過去からずるりとのびた糸が今を縛って、忘れるなと訴えかけてくるように思えた。
「あの男の娘はどんな人間なんだろうって知りたくなった。だから嘘をついてあまねちゃんのいたサークルに後から入って近づいた。……最初は、あまねちゃんのこと嫌いだったよ。何不自由なく暮らしてて、顔可愛いし、幼稚舎から大学までエスカレーターだろ。典型的なお嬢様じゃん。父さんの人生を踏みにじった男の娘のくせに、へらへら笑って生きてんじゃねえよってむかついた」
嫌い。と藤木が口にした瞬間あまねはまたぎゅっと顔に力を入れた。
「あまねちゃんは何も悪くないのにね」
頭で分かっていてもどうしようもなく動くのが心というものだ。藤木だって最初からあまねが悪いとは思っていなかっただろう。親のしたことに子どもが責任を取る必要はない。
けれど、どうして自分はこうも苦しい。どうしてあいつは何も知らないで笑ってる。どうして自分だけこんな思いをしながら生きていかなければならない。速水孝成は、何の罪も犯していないのに。
あの時、藤木は復讐の後押しを誰かにされているような気がした。
懺悔するように彼は過去の思いを告白する。
「自分の娘が自分が殺した男の息子と付き合ってると知ったら、あの男はどんな顔をするだろうと思った。だからあまねちゃんに告白した。付き合えた時、ざまあみろって嫌な優越感があった。あいつに知らせないままにあまねちゃんと結婚してしまうのもいいと思った。知らずに父さんの血も継いでいる孫を可愛がる姿を見てやりたいとも思った」
だが、ほの暗い喜びはすぐに罪悪感へと変化していった。
「あまねちゃんが、孝成くんは私の話をちゃんと聞いてくれるから嬉しいって泣いた時、俺は自分の馬鹿さ加減に気づいた」
九条あまねは恵まれている。それは間違いではない。
金銭に不自由したことはないだろうし、多くのものを与えられて生きてきただろう。けれど、彼女自身が望んでそう生まれたわけではない。速水孝成もまたそうであったように。
「どうしていいか分からなくなった」
あまねと付き合って時間がたてばたつほど、真実を打ち明けることもできなければ、別れることもできなくなっていった。その頃には藤木も嘘だったはずの好意を彼女にいだいていたからだ。
「このまま何もかもなかったことにして、父さんのことも忘れて、あまねちゃんと付き合い続けてもいいんじゃないかって思った時もあった。でも、そう思うたびに強烈な臭いとだらりと天井から垂れさがる父さんの姿を思い出す。あの日見た姿が脳裏にこびりついて、何年たっても消えない」
十二歳の、冬。指先が痛いくらいに寒い朝のことだった。
まだ外が薄暗い時間にどうしてか目覚めて、そのまま寝付けなかったから水でも飲もうと思い孝成は台所に向かった。
虫の知らせというやつだったのかもしれないが、そのせいで孝成は母親よりも先に父の無残な姿を見つけてしまった。
「あまねちゃんがお見合い結婚させられるって聞いた時、俺はほっとした。安心したんだ。馬鹿な考えを何かが止めてくれたと思って、安心した」
自分ではもう何も決められなくなっていた。何を選んでも救われない。
遺書に書かれていた事実を全てネットに書き込んで告発しようかと思った時もあったが、そのせいでなんの関係もないはずの人まで巻き込み、誰かが自分と同じ目にあうかもしれないと思うとできなかった。
選ぶことで後悔がうまれる。それならいっそ何かに決めてもらいたかった。
「情けない。かっこ悪いよ、俺。自分で何も決められなかった。あまねちゃんのが俺よりずっとかっこよくて潔い。……軽蔑していいよ。俺に、あまねちゃんに好きでいてもらえるような価値はない」
力なく笑う藤木を、あまねは最大限の力を両腕に込めて抱きしめた。
どれだけの言葉を尽くすよりも雄弁な答えだった。
十二歳の冬の朝から泣くのを止めた藤木の目から涙がぽろりとこぼれ落ちる。
「お二人のことはお二人で話し合ってもらうとして、一先ず誘拐騒動を解決しましょうか」
二人が落ち着くのを待って、ミソラは提案した。
「九条さん、父親と言い争えますか?」
「何をするの?」
鼻をすんと鳴らして赤い目をしたあまねは首を傾げる。
「あなたが始めたことです。あなたが全部ちゃんと背負って自分の望みを果たすのが一番いい方法ですよ。それに一度くらい父親に言いたいことを全部言ってみるのもありなんじゃないでしょうか。頑張ってください。あなたは強い女です。それくらいできますよ。今回の件をまず解決して、今度こそ二人でゆっくりこれから先のことを考えればいいんです」
そして彼女は自分の手で今回の騒動の幕をひいた。
堂々とした語り口で父親と渡り合う姿に誠は関心していたが、実際はとても怖かったそうだ。けれど、あまねの震える手は藤木が握りしめていた。だから最後まで自分の意思を貫いて話すことができたんだと彼女は教えてくれた。
あまねの隣で彼女に優しい目を向けている藤木の様子にはあてられた。精々幸せになればいいのだ。
彼女たちがこれから先も一緒にいたいなら、問題は山積みのままだ。今回解決できたのはほんの些細な気持ちの部分だけで、事態は何も変わっていない。だが悲観しなくともいいだろう。
九条家から誠が戻り諸々の話と片付けを終わらせ、彼女たちとの別れ際に、どうするの? と聞くと、どうしようもなくなったらロマンチックに駆け落ちでもしようかな。と言ってあまねは笑ったのだから。
「ミソラさん、静かだね。いつもみたいに喜ばないの?」
いつもだったら楽しそうに感想を述べるのに、今日のミソラはあまねたちが帰った後も、ゆったりとソファに座ったままじっと黙りこんでいた。
「九条さんたちも大変興味深かったですが、私は今どちらかというとあなたの方に興味があります」
「ふうん。そう。好きなだけ観察しなよ」
不愉快には思わない。最初からそういう約束だからだ。
「そういえば最後に峯地さんに卒業したらどこの探偵会社に就職するのか聞かれたよ」
「なんと答えたんですか?」
「僕は一般企業狙いなのでサラリーマンになりますって答えた」
「それはそれは、峯地さんの反応は見物だったでしょうね。残念です」
「ツチノコでも発見したような顔をしていたね。面白かったよ」
じゃあなんでお前はこんなことしてんだよ。と心底不可解そうに言われたが、理由なんて単純だ。
ミソラがそれを望んでいるからだ。
伝えれば更に理解不能だと言いたげな目で見られるだろうから、彼に対しては適当にはぐらかしておいた。
傍から見ればどう思われるか想像はつくが、誠は別にミソラに弱みを握られて言いなりになっているわけではない。彼女と行動をともにすることは自分の意思で決めた。
「彼は、幸せになれるのかな」
本人たちはすっきりした顔をしていたが、恨みが本当に消えて無くなったわけではないだろう。それでも彼はあまねと生きると決めたらしい。
その姿を少し羨ましく思う。
「藤木孝成にシンパシーでも感じたんですか?」
「……さあね」
だらりとソファに寄りかかる。
忘れようのない記憶にむしばまれながらも、梅雨でも高層マンションは雨音が聞こえないなあ、などとどうでもいい考えが浮かんだ。




