プロローグ
ほのかに残った血臭を吸い込み、真中誠は口をひらいた。
「犯人はあなたなんじゃないですか?」
蛍光灯が一本切れている部屋は、昼の太陽に照らされている外より薄暗い。
棚にファイルやら工具やら段ボールやらが雑多にしまわれている部屋は、中に三人も入れば身動きできなくなる狭さだ。
もしも男が犯人であるのなら、出口から一番遠くにいる誠には逃げ場がない。
部屋からあぶれた誠の友人が開け放した扉の外から様子を伺ってはいるが、彼女に物理的な助力を乞うのは無茶だ。
緊張で流れた汗ですべり落ちた眼鏡の位置を直して誠は男に視線を向けた。
長田工務店と胸に刺繍されているジャケットを着た四十代の男からはまだ名乗られてもいないが、言動からして責任者であることが伺えた。ならば、密室のように思われたこの状況もどうとでもできてしまう可能性がある。
もともとこの工務店にいたのは男と被害者。そして、彼の後ろに立っている女性だけだそうだ。
女性もまた長田工務店と胸に刺繍されているジャケットを着ている。
ぱっと見だけでも若いことが分かる彼女は、きっと誠たちと年齢はそう変わらないだろう。
現場となった店の事務所奥にある倉庫だというこの小部屋は、事務所を通らないと絶対に出入りができない構造になっている。
部屋には窓もないため、外部からの犯行は不可能だ。
先程救急車で搬送されていった被害者男性は、一人内鍵の閉められた小部屋で頭から血を流して倒れていた。ここには簡易な密室がうまれていたのだ。
選択肢として加害者は二人いる。
だが女性の細腕で意識を失うほどの強さで男を殴り、あまつさえ密室をつくりだすのは難しいだろう。
ならば、犯人は彼しかいない。
覚悟を決めた誠の発言に驚愕の表情を浮かべた男は、口を大きく開ける。
「は?」
まぬけな声を一音だけ発したあと、男の顔はみるみる不快そうに歪められていった。
「あ、あれ? 違います、か?」
自信を失った誠が目を泳がせていると、男は呆れかえった様子で振り返り、後ろに立っている女性に声をかけた。
「鹿野ちゃん、こいつら本当に探偵なの?」
「え、えっと、そう言ってました」
ふわふわした返答に男の表情はますます険しくなる。
「電話したんだよね?」
「いや、なんか呼ぶ前に来ましたね」
「……君らどこの探偵会社の人?」
詰問口調で距離を縮めてくる圧力に負け後ろに下がると、どんっと背中が壁にぶつかった。追いつめられ焦った誠は余計に不審な言動をしてしまう。
「会社、会社はですね、そうですね、今時の探偵は会社ですもんね。会社、はい会社は大事です。なんと言いますか、あの、」
「二人とも若く見えるけど、バイトだったりするの? よく知らないけど、傷害事件にバイト寄こすってちょっとどうかと思うよ。で、どこの人? 阿田川? 柳井津?」
男が口にしたのは一般人でも当たり前に知っているような有名所の社名だった。
「どちらも有名ですよねえ、二大巨頭っていうか……」
もう下がりようがないのに誠は男から一ミリでも遠ざかろうと壁にへばりついた。左頬が壁につくほど顔をそむけると距離も取れるし視線もそらせるので一石二鳥だ。
「あ! もしかしてお前ら無認可ってやつか!」
急な大声に肩がびくりと震える。
想像していたのとは違う意味で逃げ場を失い窮地に陥ったが、場を切り抜ける秘策などちっとも思いつかない。
情けないが助けを求めようと、誠は部屋の外からこちらの様子を眺めている友人にそろりと視線を向けた。
「無認可か無認可じゃないかといえばどちらかというと無認可というか、み、ミソラさん」
目の前の男に遮られながらも視界の端でとらえた友人――薬師寺ミソラは、とてもにこやかに微笑んでいた。
「どうしましたマコトくん」
肩先より少し長さのあるふわふわした茶髪を揺らして、ミソラは首を傾げた。
白いブラウスにハイウェストのデニム姿という春らしい爽やかな格好をした彼女は、場にそぐわない和やかな雰囲気を漂わせている。
「楽しそうにしないでよ」
彼女のまったりした返答によってぴりぴりしていたはずの空気は一気に弛緩した。
「もともと笑顔が地顔ですよお」
のんびりとした口調に男も勢いを削がれたようだった。
「なんか……この子大丈夫?」
「え? いやちょっとそれは僕にも分からないですね」
ミソラと初めて出会ってからもう三年たつが、今でも彼女については分からないことだらけだ。
「君の仲間なんじゃないの?」
「それはそうなんですけど」
「ああそう、やっぱり君の仲間なわけね。鹿野ちゃん、一応その子逃げないように捕まえておいて」
ひっかけられた、と目を白黒させている内に鹿野は動き出していた。
このままではミソラが捕まってしまう。どうにかしなくてはならない。
絶対に勝ち目はないが、自分が戦わねばと一歩踏み出す――が、その心意気は一歩目でもう意味がなくなった。
「ちょ、ちょっと、驚かせないでくださいよ……え?」
鹿野の鼻先にかすりながら、大きな音をたてて思い切りよく小部屋の扉は閉められた。
扉に激突しかけた恐怖による動揺で、鹿野の声は不自然に明るく張られている。
急な出来事に部屋の中にいた全員が驚愕していた。だが落ち付いてみれば都合がいい状況だ。この数分の時間でミソラは逃げることができただろう。
驚きから我に返った鹿野は扉を開こうとしたが、どうも様子がおかしかった。
がちゃがちゃドアノブを押したり引いたりしているのに、扉は一向に開く気配がない。
「鍵、閉まってる」
ぽつりとそうこぼすと、鹿野は内鍵を回し軋む音がする扉を開いた。
開いた扉の向こうには、まるで何事もなかったかのように微笑むミソラがいた。誠を置いてけぼりにはしなかったようだ。
彼女の性格からして誠のために留まっていたはずはないので、正直なところ逃げていてほしかった。
「あの、えっと、え? これどういうことですか?」
混乱した鹿野が振り返りこちらに訪ねると、男は無言でつかつかと扉に近づいていった。男に場所を譲った鹿野は部屋の外に移動する。
男は先程のミソラを真似るように勢いをつけて扉を力強く閉めた。
ばん、と耳に痛い音が響く。余波が消え去るより前にがちゃがちゃとドアノブを回す音がした。
「おい」
ドアノブをつかんだまま、ゆっくり男は誠に顔を向けてくる。
「……はい」
なんだか怒られるような予感がするなと思いながらも律義に返事をする誠だ。
「鍵壊れてんじゃねえかこれ」
「そう、かも、しれないですね?」
確実に間違いなく小部屋の鍵が壊れていたのは誠のせいではないのだが「それ僕のせいじゃないですよね」なんて言ったら怒鳴られそうな雰囲気だ。
「探偵だったらそれくらいすぐに気づけよ!」
言わなくても怒鳴られた。
「すみません!」
八つ当たりだと分かっていても反射でつい頭を下げてしまう。
「だいたい君ら、」
男は先程までのやり取りを思い出したように引き続き誠を問いただそうとした。しかし、てぃろろろろ、と扉の向こうから電話の音が鳴り響いたことで飛び出しかけた言葉が中断される。
「鹿野ちゃん電話出てもらってもいい?」
内鍵を開けると毒気の抜けた顔で男は言い、部屋の外に出ていった。
男に遮られている限り小部屋から出られなかった誠も、やっと小部屋からの脱出に成功する。
「お疲れさまでした」
「ミソラさん……」
部屋を出た瞬間にそれまでの緊張を全て込めた重いため息を吐いていると、のんきな調子でミソラが声をかけてきた。
「分かってたでしょ」
「何がですか?」
きょとん、とまるで理解していないような顔をしているが、知っているのだ。出会ってからこれまで散々巻き込まれてきたのだから。
「長田さーん!」
電話を終えた鹿野が焦った様子で男を呼んだ。
態度から察してはいたが、名字からして男はここ長田工務店の社長らしい。
「電話、病院からだったんですけど」
運ばれていった男性が亡くなってしまったのだろうか、と背筋が冷やりとした。
「鈴木さん、目を覚ましたそうです」
「本当? ……良かったよ、無事で」
安堵からだろう、長田は深く重い息をもらした。彼もこの事態に相当動揺していたのかもしれない。
見知らぬ他人であっても、命が失われていなかったことに誠も安心で胸を撫で下ろした。
人が死んでしまうのは、とても悲しいことだから。
「それで、鈴木は何か言ってた? 誰かに殴られたとか、何があったか話せるくらい意識は戻ってるのかな?」
「いや……それが……」
始めは言葉を濁していたが、鹿野は聞いた内容をそのまま正直に口にした。
「看護師さんが「転んだだけなのに大事になってしまってすみません」って鈴木さんが言ってたって……」
なんとも言い難い空気が流れた。平然としているのはミソラくらいだ。
どうにかさり気なく立ち去りたいと思考をめぐらせながら事務所の片隅で存在感を消すのに腐心していると、長田がこちらに意識を向ける気配がした。
嫌な予感がしたので己の直感にしたがう。ミソラの手をつかんで誠はダッシュで工務店から飛び出した。
「おい! ちょっと待て!」
この状況で待てと言われて止まるわけがない。
平日の昼間なこともあって人通りの少ない工務店前の歩道を、全速力で走る。
しばらくして、喉をぜいぜい鳴らしながら後ろを確認すると、追いかけてくる人影は見当たらなかった。
向こうが誠たちのことで知っていることなんて、顔と自分たちが呼び合っていた名前くらいだ。このままならなんの問題にもならないだろう。
ほっとし足を止めようとしたが、自転車や自動車を使われる可能性もある。念には念を入れて、ある程度距離はかせいだ方がいい。
逃げ出してすぐにミソラと繋いだ手は離した。
各々全力で逃げているのだが、彼女の方が足が速く、今では誠がミソラを追いかける状況になっている。
「ミソラさん! ほんとうに、いい加減に、して」
全力疾走しているせいで言葉が途切れ途切れになった。
こちらの話が聞こえているのかいないのか、彼女は走っているくせに涼しい顔でにこにこしている。
そもそもがトラブルに巻き込まれるのはいつだって徹頭徹尾彼女が原因だ。
なのにどんな時だってのらりくらりとどこ吹く風で、誠の言うことを聞いてくれた試しがない。
「ミソラさん!」
それでも百回に一回くらいは話を聞いてくれるのではないかと望みを託して、今日も誠は諦めずに抗議した。
「でも、あなたの人生いま面白いでしょう?」
足をぴたっと止めた勢いをころすようにくるっとターンしたミソラは、満面の笑みを浮かべた。
「限度があるよ!」
不覚にも可愛いなと思ってしまった自分の心をごまかすためにも、誠は叫んだ。