小さな部屋
愛する人のために君はどこまでできるか。
俺の場合愛が分からないけれども、大切な人のためならばわりと命をかけられるタイプだ。そもそも自分の命の重みを理解しておらず、痛みこそが生きているあかしだと考え生きているために死への意識が薄いのがその主たるところだ。しかしこの客人は他人のために自ら危険に飛び込んで来たのだった。
目の前にいる女は酷く緊張して足が震えていた。薔薇の香水では隠せないほど汗をかき、エメラルドグリーンの目はチラチラとこちらに向けてくるだけで定まっていない。
女は舞踏会で見た女だった。一緒に踊った人。名前は覚えていない。
「あ、あんた馬車置いて行ったから」
チラリと後ろを見ると確かに我が家の黒い馬車があった。愛馬のミースとメイシャは機嫌よさそうに頭を振っている。馬は良いね。人間と違って相手が何を考えているか考えなくて済む。届けてくれたのか。
その点目の前のお嬢様は俺にとって難解そのものだった。何考えているのか分からない。俺は人殺しだぞ。今君の喉を掻き切って血濡れになっても心は痛まない化け物ぞ。
「乗って来てくれてありがとう。こんな夜更けに一人で返すのも気が引けるから、今晩泊まっていくかい?」
「え、ええ。そうしてくれると助からるわ」
困った。断られると思っていた。うんと言われた時の言葉を用意していない。
俺の後ろに控えていた吸血鬼が俺のわき腹に指を突っ込んでくるがやめて欲しい。俺は脇が弱いんだ。野生動物は皆お腹が敏感で気を許した者にしか触らせないのだ。俺は人間よりも動物に近い。
他の人の部屋に上げるのもどうかと思ったし、客間はあるが、夜はまだ寒いので暖房が欠かせない。その暖房を動かすのにメイドさんの手がいるが、本日はもう早朝近く。もっとも黒が黒らしい夜であるので寝かしてやりたい。
女はドレスのまま来ていた。高いハイヒールがカツカツとなって異物が入り込んだ何とも言えない心地を呼び起こされる。
「俺の部屋だけど、ちょっと荒れてて何もないんだ」
先に言っておかないといけない。俺は家具や服装にそれほどこだわりは無い。誰かのお古でも全然気にしないし、寧ろタダならそれに越したことはないと思う性格で、部屋が粗末なのだった。
いや、この家でと言えばそうなのだが6畳一間でベッドがあって机があればそれ以上何もいらないというのが俺の考えであってだね。けっして決してこのような部屋に女性を入れる事が正しいと思っているわけではなくてですね。本当に申し訳ない。
彼女だって俺の部屋に案内すると言われてほんの少し顔の表情が動いたのだった。それは期待である。俺はこの国随一の財閥の党首であるのだった。誰が?俺が。ほとんど仕事をしていないのに売り上げだけは天井知らずである。
それがこんな部屋に住んでいる。
「ここは使用人の部屋ですか?」
「いいえちがいます。僕の部屋です」
「まあ」
「くつろいでいただいて結構。僕は床で寝ますから布団を使用していただいて朝になったら帰ってください」
ちょっと言葉が足りなかったかな。おれはこれでも感謝しているのだった。一つしかない布団を明け渡すのだし、その点理解を頂ければと思う。言葉は苦手だ。とくに商売んなじゃない女を相手にしたときは言葉に詰まる。男に比べて女性は俺の嘘を見破るのが上手かった。
見破った所でどうという事は無いのだが、関係は長続きしない。
女はいきなりドレスを脱ぎだして、さっさと椅子の背もたれにかけてしまった。これでコルセットと下に着る名称不明のゴワゴワとしたふくだけになる。
「なに? 女にこんな重い物を着て寝ろっていうんですの?」
「いや、怖くないのかなって。僕、狼に変身できるんですけど」
性的な意味ではなく、言葉のままの意味だ。そんでもって牛や豚で飼育されるのは雌が多い。子供を産めるからという意味もあるが、本当のところは肉が柔らかくて美味しいからだった。
それを分かっているのかとそつなく聞いて見たかったが、本日は大変忙しい日であったために瞼が勝手に閉じた。