血筋
家に帰ったらまずやらなければいけないことがある。
手洗いうがいではなく、人間に戻ることだ。
世の中の厳しさゆえに人間性を失っているのではなく、見た目が狼になっているために日常生活が限りなく不可能になるためだ。
抱き上げて帰って来たメイドさんを下ろして自分の部屋に向かう途中、人間のメイドさんとばったり会った。たたみ終わったシーツを運んでいた彼女は金切り声の悲鳴をあげられたのち、ぴっちりと角の立った畳まれたシーツを投げ出して尻もちを付いた。
俺は長い鼻先を廊下にかけられた蝋燭の火に近づけてフーッと息を吐き消した。すっかり廊下は薄暗くなって黒い体毛に包まれた俺は闇に溶けるようにして自分の部屋に帰ったのだった。
人間に戻るのは実は簡単ではない。変身時、ほとんど服は裂けるため人間に戻った瞬間には全裸となってしまうし、何より自分の内側から他の肉が浮き上がってくるという言いようのない違和感に絶えなければいけないのだ。その悪寒にいかけがさして壁を殴ろうものならば、ぽっかりと開いた穴が隣の部屋までつながる事だろう。だから慎重に行わなければいけない。
指先から集中して変身を解くのは手が一番後遺症が残るためだ。俺は人間の姿でも手が獣のような有様で、それを隠すこともできたが恐ろしく体調が悪くなるのだった。きっと神様が人として生きることを禁じたに違いないと思った。
特に変身を解く姿は人に見せられた物ではない。急に人の姿に戻れ訳ではなく。体の半身だけが人に戻ったり、頭だけがしぼんだ風船のように縮んで人間の姿に戻ろうとして実に不気味なのだった。途中で止めたら人は誰一人として近づかなくなるだろうなと思った。
ふと誰かが部屋のドアの前に立っているのを感じた。この部屋には鍵が無くだれでも自由に出入りできる。耳をすませば廊下の板材がきしむ音でそこに何人いるのか分かった。
「少し待ってください。まだ服を着ていません」
「入るぞ」
男のしわがれた声は僅かにうわぞっていて、酒に濡れた青っぽい色をしていた。我が父君は、随分出来上がっている様子で顔を真っ赤に酒で染めていた。
随分珍しいこともあると思った。父が酒好きなのを知っていたが飲んでいる姿はあまり見たことが無い。それも泥酔状態というのは稀であった。俺はあまり酒は飲まないが、酔ってもきちんと記憶が残っているタイプなので、泥酔してもみんな自分の意思で悪いことをしていると思っている。
今晩の父は、そんな雰囲気がした。
父は駆け寄って来て俺の顎を掴んで顔を舐めるように見渡した。
「お前いくつになった?」
「8」
「その年でもう女遊びを覚えたか」
「言っている意味が分かりません」
「分からないわけがない。お前舞踏会で何人の女と仲良くなった?」
「1人とはうまくいきそうでしたが、もうだめでしょう。あの姿を見られましたから」
「フン。女は怖いぞ」
父は機嫌が悪そうだった。悪酔いである。普段は寡黙で言葉よりも行動で示す父が実に薄っぺらく見えた。
ふらふらとした足取りで部屋の隅に行った父はおもむろに自分の物を取り出して、あれをしようとしたのだ。
「お父様!!ここはトイレではありません!!」
「おお。わかっとるわ!!」
怒鳴って部屋を後にするその後ろ姿に危うさを感じてしっかり後を追ったが、ちゃんとトイレに消えたのでふうと息を吐く。たまの酒で当たったのだ。悪いことは言うまい。
お腹が空いたので何かあさろうと台所を目指すと、大きな翼と大きなお胸を持ったメイドさんと目が合った。手に持った燭台の上の蝋燭の火でわずかに見え隠れする顔は極上の美女である。しまった。好きな人の前なのに服を着忘れた!
顔が赤く染まるのを感じる。俺は線が細い人間の手で彼女の手を取って隠れるように台所に滑り込んだ。
「露出する趣味は無いんだ。ただ父がいきなり入って来て恨み言を述べて、どこか行こうとするので心配で見送っただけで」
「はい」
「断じて裸を見せようなどというつもりは無かったんです。もちろん見せたくないという意味ではなくて、いや、いつも体を洗ってもらう時には見せていますもんね、いつもありがとうございます」
どうも会話が上手くいかない。会話とは定型文の組み合わせと考えていつもはしゃべっているために、今から自分の言葉でしゃべれとなった時に俺は弱いのだった。
可愛らしい美女がクスクスと笑うその顔がとても愛おしく思えるのだった。叶うことならば、このまま部屋に連れ込んで添い寝をしていただきたいが、この家の特性上それは叶わず、何度となく断られたことでもある。最近は彼女と仕事以外で話すのは久しぶりだった。
「オーロラは、ぼくのこと、嫌い?」
「いいえ」
「でも最近避けてたでしょ?」
「それは……」
それは何なんだ。多分それは俺が狼になるから。命の危険がある人とは一緒に生活できないよね。頭に弾の装填された銃を突き付けられながら仕事をするようなものだ。
「ねえ、オーロラ。ぼくはオーロラのことが好きだよ」
「はい。オーロラも坊ちゃんのことが好きですよ」
俺は最低なので、俺が子供の姿で目を潤ませ彼女の手をギュッと抱きしめれば帰ってくる答えなど知っていたのだった。
「ぼく、お父様にも嫌われているかな?」
「私が思うに……できれば本人には黙っていて欲しいのですが……単純に焼きもちを焼いておられるのではと思います」
「やきもち」
「ええ、あの方が変身できるのは昔から有名でしたが、狼になれるのはせいぜい右腕の指先から肘までと、尻尾が生えるくらいなのです。坊ちゃんは非常にまれで、学の無い奴隷の身では定かではありませんが、ほとんどいないと言っていいでしょう。まして、ちゃんと人間の姿に戻れるものがどれだけいるでしょうか」
「お母さんの方の血を継いだのかもね。オーロラは僕のお母さんのことを知っている?」
答えは沈黙だった。俺はこの世界の母のことを知らないでいる。まさか木の股の間から産まれたわけじゃないだろうから、どこかに生みの母親がいるはずなのだ。色々なわけがあって俺を育てられなかったが、どこかで生きているといいなと思った。
俺はオーロラの細いウエストに縋りついて(身長差があるために抱き着いてもここなのだ)
「オーロラがお母さんだったらいいのに」などと言って彼女をしばらく硬直させ、困らせた。