ロードオブブラッド
耳を澄ますと甲高い雌豚の断末魔の叫びの合間に部屋のいたるところから息使いが聞こえ始めた。
見れば、ミイラとなり床に転がった遺体の胸の内で、枯れた鬼灯の様に血管で覆われた肺がゆっくりと呼吸を始めた所だった。
飛び散った肉片は干からびた体に引き寄せられるようにしてとりつき、溶け合って美しい人の肌を再生していく。白い肌は初雪を思わせたが、それを赤く染めるほどの血が天井から降り注いでいるために瞬く間に全身が赤黒く彩られて行った。
石膏像を思わせる体の造形は、初老の男でありながら一部の隙も無く完璧であり、見る者の目を奪って離さなかった。8個に割れた腹筋の上に、今まさに死んだ兄弟たちの血を浴びながら降り立った男は、遺体の山の中から煤けた街灯をひっぱりだして身を包んだ。
男は血で赤く染まった髪をかき上げてオールバックにまとめる。血の整髪料だ。ロードオブブラッド。この言葉がふさわしいと思った。血の王様だ。
男が人差し指をたてて雌豚を指さすとパンと音を立てて袋が裂けた。ドロドロの体液と血とが混ざり合った汁がぶちまけられ、部屋に充満する臭いをより一層深くする。
危険は承知していても、俺の体は動かない。
まるで背景に溶け込むうとしているみたいに息まで止めて体は動かなかった。だが、それはまずいと分かっていた。車にはねられる動物の多くは、走って来る車に驚いて道路の真ん中で止まってしまう。そのまま走り抜ければ助かったものを動きを止めたばかりに死ぬのだ。
死を目の前に見据えて受け入れれば簡単に死んでしまう。逃げなくては。
勿論、彼がすべての血肉を吸収するのには時間がかかるだろうと思われた。
何しろ俺の兄弟は皆馬鹿でデブだ。しかも同じように動けないでいた。まずは脂たっぷりの動きの遅い馬鹿どもを襲ってもらい、その間に武器を用意する。
あれはどうしたら止まるのかなど考えている余裕はない。部屋に火でも放って殺すしかない。
徐々に落ち着いた心はやっとのことで足を動かすことに成功した。今だ動けない兄弟たちをしり目に踵を返して部屋から離れようと……
「こんにちは、お嬢さん。今日は随分と良き日だ」
多分姉に言っているのだろう。一刻も早く逃げ出すために走り出すと、目の前に黒い外套が現れた。
一瞬で、目の前が暗くなる。それほど身長差があった。
今、壁から抜けてこなかったか。
その黒い外套は、まるで水に溶いた墨汁のように空気中を漂い、不気味な臭いを放っていた。それは血の臭いだ。
「道を開けてくれませんか」
「おやおや。この姿を見ても動揺されないのか。珍しいお嬢さんだ」
何か勘違いをされているのだと思った。俺は男だ。
男に腕を摑まれ口元に引っ張られる。その美しい口元には、針のように鋭い歯が二本生えていた。不気味だった。それはお話に聞くヴァンパイアの姿そのものだった。渾身の力を振り絞って腕を引いたがびくともせず、ついにその鋭い切っ先が手首の皮を貫通される。
中に入ってきた異物の感触は、ひどく冷たい物だった。同時に何か熱い物が腕を駆け上がり、心臓に溜まる。止まれ、と思ったがその熱さが全身に供給されるまでほんの少しの時間しかなかった。
俺の腕がメリメリと音を立てて肉が裂け、黒い毛皮で覆われて行く、変身が始まったその瞬間から俺は酷い飢えを感じていた。
鋭い爪は男の頬を内側から貫通し、強靭な肉体は廊下の天井に着くほど高く伸びる。巨大な狼の体で体をかがめて見下ろさねばならなかった。
先ほどとはちょうど体勢が逆になったことで一瞬男が驚いたように固まる。俺はその瞬間を逃さず、肩を掴んで思いっきり床に叩きつけた。
砕けた床材が飛び散って壁に突き刺さり、隕石が降ったみたいに床が抜ける。
二人そろって落ちた床下は暗く、先が見通せない。暗闇がどこまでも続くように思えた。
男が襲い掛かって来て首元に牙を立てられた。焦った。血を一滴残らず吸いだされてあの部屋にあったような干からびた死体になると覚悟した。しかし俺の分厚い毛皮はその切っ先を通すことなく止めてしまう。男は納得いかないようで何度も何度も首に噛みついたが口に残るのは黒い針金のような毛だけだった。
獣のように吼えた。お前の負けだと、お前は俺に勝てないのだと強く知らせるつもりで吼えたが、男は耳を押さえてうめき、そのまま地面に転がって動かなくなった。
大丈夫かと思って近づくと飛び上がって耳に噛みつかれた。痛い。耳は皮が薄く、遠くの音も聞こえるように敏感で神経が集まっていた。
「ハハハハハ!!黒狼よ!旨い血だ!」
いい笑顔だった。俳優でもやればもうかるだろう。男は自らの唇から漏れた血をルージュのように塗り広げて実に旨そうに顔をゆがめた。
それはさながら旨いワインを安物のチョコと共に口に含んだようであったし、特定の血に対してひどく飢えているのが良く分かった。