ブラッドバス
壁の中は暗闇だった。
鰹節の匂いのする黒は、どこか陰鬱としていて不気味である。俺としては、生き物の死んだような匂いがしてもおかしくないと思っていただけに肩透かしを食らった気分だ。
動物は死ぬと甘いにおいを発し始める。意外にもそれは不快な臭いではない。腐乱臭とはまた違うニオイだ。その匂いとは熟れすぎた果物の様な匂いであり、その匂いにつられるようにして森の動物たちは肉を食べ始める。一般的に販売される肉には熟成という工程があるが、あれは低いレベルで肉を腐らせているのだ。我々捕食者は本能的に美味しい肉の匂いを知っているのである。
その匂いがしないのだ。ワーウルフとなり特別鋭敏になった鼻をもってしても、その匂いが感じられない。ただ鼻先にかかる蜘蛛の糸のような視線が気になった。しかし誰もいないのである。気にし過ぎか、あるいは闇を恐れたのか、俺は顔を何かに触られているような感触に身を震わせ、本能的に部屋を後にした。
玄関がにわかにあわただしくなって、鞭が空を切り、地面に当たる甲高い音と人の悲鳴が聞こえてきた。まあ、見るまでもなく、我が兄弟がやって来たのだろう。馬車を利用したとしてもそれは驚異的な早さだった。馬を潰す勢いで来たのではないだろうか。馬鹿め。生き物は変えが効かないのだぞと言っても分からないのであろう太った兄弟たちは、我が物顔で屋敷に入って来て俺のメイドさん達に唾を吐きかけた。
「奴隷風情が立派な服を着やがって」
頭の中に冷ややかなナイフが挿入される思いだった。勿論それは純粋な怒りである。なぜ他人の物に平気で触ろうとするのか。お前は世界中の物が自分の物だと思っているのかと聞きたかったが、その口を利くことさえ、俺には苦痛でならなかった。
言葉の通じない豚に話しかけるのは精神異常者と変わらない所業であろう。
「やあ兄さん。ご機嫌麗しゅう」
「おうおうおう。仕事が嫌になったんだって? お前は馬鹿だよ。さっさと俺達に明け渡せばいい物をいつまでも時間を無駄にしやがって。お前がやっている間に利益はどんどん減っているんだぞ」
すぐに嘘だと分かる嘘。俺が会社をついでから利益は2.5倍になっている。
なぜならば奴隷を大切にするからだ。調教のために傷だらけになった奴隷と、ピカピカで肌も美しい奴隷とどちらが欲しいかという話だった。同業他社も我が社の製品の質には敵わないと逃げ出したほどだ。
「ええ、そうですね。ぼくには才能が無かった」
ひどくひきつった笑みになっていたのだろうと思う。廊下で頭を下げていた狼メイドさんがギョッとした目で俺を見て、ぴくぴくと口角が上がっている。すでに血の臭いを感じた足の狼爪はキルキルと宙を掻いていた。
「さあ兄さん姉さん、どうぞ奥の部屋に。近頃暑いですから部屋を涼しくしてあります。どうぞおくつろぎください」
脂肪でパンパンになった兄弟たちのおでこは、示し合わせたように脂汗が浮かんでいた。冬も終わり春の快晴となっていたが、一段飛ばしに夏になったような気温の中で、俺の背後、薄暗い部屋から漏れ出す冷気は彼らにとってオアシスのように映ったに違いなかった。
我先にと突入する豚たちを嘲り笑った唇に痛みが走り、ツーと垂れた血が皮靴の繊細なウイングチップを赤く染めて床に垂れる。
空気中の水分まで凍ったために、空気は恐ろしく乾燥し唇が割れたようだった。
その事さえ分からぬ兄弟たちは暗い部屋の中で実に嬉しそうに汗をぬぐっていた。
部屋は意外にも狭く、彼らが連れて来た傷だらけの奴隷達は部屋の外に押し出され、羨ましそうに主人を見ていた。
「大丈夫。入らない方がいい。それに、見ない方がいい」
小声で伝えた俺の言葉に、奴隷達は僅かに首をかしげ、首元についた鞭で叩かれたみみずばれを隠すように下がっていった。
空気さえ凍らせる極低温の中でワーウルフの血が凍らない可能性がどれだけあるか。
俺の考えだとその可能性は限りなくゼロに近い。
シリンジのレバーに手をかけたその瞬間。
パンと音がして一匹の豚が爆ぜた。体は赤い煙となり、あるいは熱いシャワーとなって兄弟たちに降り注ぎ、部屋の壁も床も一緒くたに真っ赤に変えてしまった。そこにあったのは数え切れないほどの骨の山、それは人の形をした骨。ある者は目を、またある者は耳を押さえた格好のまま死んでいた。不気味に骨を繋ぐ肉片は干からび、まるでミイラの様な状態になっていた。
え?