ベルベットの君
家に帰らねばならない。
家と言うのは人が作った物で、多くの場合、人が住むための建物だ。
悲しいかな化け物の俺に帰る家はない。だから家に帰るために人間に戻らなくちゃいけないのだが、体が急激に変化するのがどれだけ気持ちが悪いか分かっているだけに、俺はぐるぐると道に迷った子供のように同じところを回った。
知らない人からすれば、異様な光景に見えたことだろう。人狼が娘をつれてぐるぐる回っている。帰りたくないのだ。本当は。
自分を信じれるほど自分の姿を知らない。
そもそも鏡に写る姿と写真に乗る姿が違うタイプの人間だ。
人の印象は見た目が100パーセント。見た目がよければ人気者になれる。あとは、愛されるバカがもてはやされるだけの世界なのだ。糞なのだ。可愛い奴隷は愛玩になるがそれ以外の奴隷はどうなった? ブスもいる。そういえば、この世界の暖房はボタを使うが、その炭鉱では誰が働いているのだろうな。
指先に小雨が当たる感触があった。
小さな波紋が巨大な波へと変わるように一斉に毛が逆立ち、体の中に飲み込まれていく。うぞうぞと皮膚の下を這い回る感覚は、今すぐ手首をナイフで引き裂いて引きずり出したくなるような感覚だ。
手が終わったかと思うと、次は腰の辺りに激痛が走った。長く延びた尻尾がまるで役目は終わったとばかりにずるずるとおしりの辺りにめり込む。同時に長い犬歯は抜け落ちて地面に転がり、ピンとたった耳は、焼けた木の葉のように風に吹かれて塵となって消えていった。
狼娘は目を細めて地面に転がった牙を拾うと指でつまんで目元に寄せて良く見ている。何だか恥ずかしい気分だ。幸いなにも食べていないので氷山のように白い歯だった。
「これは、もらってもよろしいでしょうなぁ?」狼娘はぴーぴーと鼻をならしてしなだれかかってきた。
口の中にあったものをよくもまあ、平気でさわれるものだと思った。
「穢れがつきますよ」
けがれと表現したのは、バイ菌がこの世界で認識されていないためだ。口が多くの菌の温床であることを知るものは少ない。
「綺麗ですなぁ」
「捨てていいですよ」
「まさか」狼娘はポケットに牙をしまったが、あまりにも長いために白い先っぽが見えている。捨ててくれ。
「それにしても、また可愛くなられて」
俺の体は見えるところ、つまり胸元までロシアンブルーのベルベットの毛でおおわれたままだった。狼の剛毛は子供の体に全てしまいこむことができなかったようで、指先から肩、背中、お腹に至るまで毛だらけだった。指先にはいつかみたカラスの爪が戻り、黒光りしている。幸い顔に触れるとさほど毛は生えていないようだったので安心した。これならば服で隠せるから。
「前の方が正直、好みです」
狼娘に背中から抱きつかれた。俺は戦闘民族なので死角からの攻撃に思わず体を固くする。それは俺にとって明確な攻撃だった。
首の後ろの辺りの毛が逆立っているのがわかる。心臓は早くなり、細い子供の腕で血管が浮き出る。もちろん体臭もかわる。
「いいですね。ぼっちゃん。このまま抱きついていたら貴方は特別な感情を私に向けるのでしょう。それは『殺したい』」
「あの姿がもう一度出てくると思わないでください」
ぼくは、渾身の笑みで振り返った。
指を噛み、笑うのをこらえた狼娘は、目を見開いて真っ直ぐ俺を見ていた。指を伝ったよだれが白い糸のようになって胸元を汚している。狼というより大型のワンコみたいだ。おやつを前にしたワンコ。
「ジュルル…あなたの父は有名な人狼。その血を受けついだのです。これは喜ばしいことです」
「ん? え? そうなの?」
そんな話は聞いていない。そうならば、もしそうならば……兄弟を早いうちに何とかしなければならなくなった。