人間性の消失
体のことを考える余裕がなかった。それよりも早く、血を止め、筋肉をつなぎ、砕けた骨を再生しなくてはならなかった。俺の小さい頭のなかからは、ぽつんと、ぽっかりと、まっさらに肌をキレイにすることが抜け落ちた。
体が焼ける痛みと共に、部屋に落ちる黒い影が異形の形を描く。
足は一瞬にして黒い毛でおおわれ、なめし革の靴を引き裂いてカランビットに良く似た爪が顔を出した。
アスリートのように引き締まった体からは、うちから盛り上がる毛の塊によって風船のように盛り上がり、一挙に服を引き裂いた。
俺は狼の姿になった。体躯2mはあろうかという大きな狼だ。
だが、思った以上にしっくりときた。
体は元からそうであったように、足も手も毛の一本に至るまですべて自分だと認識できた。
思えば俺は人の心など持っていなかった。人間が人間に至るまでに獲得するべき他者愛や、連帯感のような物を俺は有してはいなかった。あったのはただ、獣のような欲望と、仲間に対する信頼だけ。それは、群れから追い出された手負いの狼のように。
そして今、俺は姿形としての人間性を失うことで人間は本物の敵となった。
「そうか。鼻が良いとはこういうことか」
俺を見て恐れている人が大半だった。脇を伝う汗のにおい、漏らした小便のアンモニアのにおい。五月蝿いほど響く震えた足の音。
ただ一人、俺を見て喜んでいる人を除き全てが恐れを俺に向けていた。
なぜ一人、恐れていないことが分かったか。その匂いは、なんとも言えないものでラベンダーのような瑞々しい香りだった。香水まではいかないその匂いは、俺の首もとに顔を埋めてスンスンと嗅いだり、俺と同じような鋭利な犬歯で甘噛を繰り返した。
「これが狼の見ている世界なんだね」
匂いには色がある。机の上に転がっている食べ物は黄色っぽい色が滲み出ている。怯えている人は秋空の青。
「番が、欲しいのでは、ありませんか?」
「それよりも、攻撃をして来た敵を殺さなくては」
窓からは、滝のように青が漏れていた。おとからして張り裂けそうな心臓が、ここから離れていく。見るまでもなく、襲撃者がそこにいる。
駆け出すと、その早いこと。あんまり早いので何度も体を壁にぶつけてしまった。
後ろから一人ついてくるがその娘も笑っていた。狩りの興奮が心を突き動かす。