奴隷たちの沈黙
主人のいなくなった食卓では、未だに直立不動の格好を取ったままのメイド達がいた。
その姿は蝋燭の光が瞬き消える瞬間までそのままであった。それは、主人に向けるべきでない感情の高ぶりを押さえることに必死になっていたためだった。
奴隷商で教えられる主人とは、ブ男でつねにこちらの不始末を捜し、お嫁さんがいるのにもかかわらず手を出してくる化け物。奴隷はそれに耐えるしかない。そういう教えだったはずであるが、自分の主人の姿はどうだ。
あのあどけない顔に宿した知性は、常に奴隷達のことを中心に置いて行動を進めている。廊下を歩けば奴隷に道を御譲りになり、腹を空かせた者があれば、すかさずお菓子を持って来てくれる。子供ゆえのやさしさとも取れるが奴隷の中にはそういう人間なのだという祈りに近い信仰ができつつあった。
その上、美しき見た目は、見る者にため息を要求するまでになった。
形の整った目鼻立ちで、両の頬に数枚の黒き羽が生えている。線の細いシャツの内側からは香の様な香りをさせ、残酷なまでに鋭利な黒い爪は幾度か虚しげに宙を切っていた。奴隷達は皆血眼になりその姿を見ていた。自分を呼んでいるのではないかと。
だが、誰が近づけるというのか。下手をすれば嫌われてしまう。それならば今の関係のままがいい。目を見ることもできないのだ。とても高貴に感じられた。
一方で、一人のバカが先ほどまで主人の使っていたフォークを持ち上げ口に含んだ。
「あ、坊ちゃんの味がする」
狼が怒って食卓をひっくり返し、食器を舐めたメイドを床に叩きつけた。戦闘経験の差、体格の差、筋肉量の差。どれをとっても敵わない。そもそも獣に近い物に首輪も無く住まわせているこの家は異常だった。いつだれかが食い殺されてもおかしくない。そしてその地に飢えたはずの獣は、既に一人の主人を選んでいた。
「何をしているのかな?」
「ただ味見を」
「飯だけ作っていればいいのだ。この尻軽が」
「一人で楽しみやがって。あの方の体の匂いを嗅ぎ、体中を舐めているのだろう!」
「ああ、良い匂いだった……天にも昇る気分だったよ」
フォークが床から天井に向かって振り上げられたが、その切っ先は全くの空を切った。
避けるのが早すぎて下になった奴隷は空を切った事にも気が付いていない。
狼は、鼻をすくめて床に転がったフォークを拾い上げる。
「可愛い子なんだ。お前たち手を出すなよ。良い子にしてれば下着ぐらい貸してやる。あの子が許可すればだがな」
もちろん自分の物ではなく、坊ちゃんの下着のことだ。
獣の度合いが高い奴隷は独占欲が高く、性欲も強い。故にガス抜きが必要であった。
「あんただけが一緒に寝られるのを許せない」
「ん? じゃあ、私に勝ったらいいぞ。ぼっちゃんは戦いは望んでいない。だから何かあった時に私ではなくお前たちに駆けよればそれで勝ちだ」
奴隷達は歯を噛みしめ悔し涙を流した。
皆だれがお気に入りなのかきちんとわかっていた。
「誰も触れるな。汚すな。あの人はあの清らかさのまま大人になるのだ」
「その時、あんたは相手にされるのかい?」
「飽きられて捨てられるかもな。でもそれまでに十分愛されるさ」
狼はけらけらと実に嬉しそうに笑った。
愛を知らずに生きて来たこの奴隷にとって、僅かな時間が一生に値する価値のある物だったのだ。
狼は空気を抱きしめる姿をし、そこにはいない主人を思って体を折った。