契約と爪
ロトは切られた体で笑っていた。
悪魔は切り裂かれても死なない。そもそもそういう風にできていない。今までにも多くの人間が剣や斧を振りかざしてロトの首を切り取ろうとした。だが悪魔とは本来人の内面に巣食うもの。どうして自分を切り刻めるというのか。
悪魔は刃物では死なない。あくまでも話をするために取り繕った人の体が切られていただけの事。そこにいる糞山の王も本来は人とはかけ離れた姿の持ち主だ。
重そうに体を引きずる彼もまた笑っていた。
「あの刃物は異常だ。まるで子供の指のように細く、小さかったぞ。一切躊躇なく人の形をした我らを切り刻んだ。あれはすでに何人も殺しているに違いない。むしろ人というよりは我々よりだ」
「糞山もそう思うか。変身を解いてつけ入ろうと思うがどうか」
「それは私がやろう」
どうせ我々がやらなくてもすぐに下級悪魔が嗅ぎつけ、あの方に取り入る事だろう。それは癪に障る。もったいない。あんなに面白そうな人間は見たことが無かった。たかが奴隷のために自分よりも大きな相手に大立ち回りを見せたのだ。クソな人間は沢山見てきたがあれほどまできっぱりと判断する人間は初めてだ。普通敵が女だとしても女の体に刃物を当てるのは躊躇するものだ。そこには哀れみや躊躇があるから。それがあの方には全くない。
我々の本性を知って攻撃してきたのではない。ただ敵だと思ったから攻撃してきたのだ。しかもあの美しい太陽。きっと他にも作れるのだろう。あれだけの偉業をなしながら実に残念そうだったのがロトには理解できなかった。
もっと他に作りたい物があったのか? それとも狙わずしてあれを作ったのか。
随分と久しぶりに人の姿になった悪魔達はゆっくりと体を元に戻す魔法をかけようと詠唱を始めた。
しかしそれを馬小屋の柱に隠れて見ている存在がいた。
ロトは口をつぐんで傷を隠した。悪魔がこのような醜態をさらしていれば何を言われるか分からない。何分人の命を糧として生きているので人に恨まれている。
少年は裁縫道具を持って再び現れると、賢王のように静かなまなざしで悪魔を見下ろした。
「敵対する意思はあるか」
「ありません」
「では、パンか剣どちらを取るか」
「パンを。我々はバターを塗ってお返しします」
それを聞いて少年は顔をほころばせ、ロトのすぐ近くに腰かけた。馬小屋の糞と小便の臭いの中に石鹸のいいにおいが混じる。手に持った先の曲がった奇妙な針は太く、そして鋭い。
「治療してあげる。その代わりに百人ほど殺して欲しい」
あまりにも暴利な取引だった。悪魔からすればそんな話の通らない取引等突っぱねるのが当たり前。
しかし少年は既に肩肉に針を刺し、肉を縫い合わせ始めた。手先は一切震えることなく、その不気味なまでの冷静さは見ているこっちが血の気が引くようだった。
「血管が切れていない。骨も切れていない。あっちの人は腱を切っちゃったから繋げられないけれど、命は助かると思うよ」
肩の肉を針が射す痛みがあった。氷を押し当てられたような激痛はだんだんと焼けるように熱くなる。同時にロトの心の中には何か不思議な感情が芽生えた。むかむかと胸につかえた何かを吐き出してしまいたい感覚。その白い指先を握り一本ずつ噛み切って飲み下したい思い。どれも今まで感じたことの無いほどの渇望だった。
「百人殺すのはいささか取引として多いです」
「そうかな。命の代償としては随分軽いかと思ったのだけれど」
ああ、この人は。ロトはニッコリと笑顔を作った。自分の魂の値段を自分で決めろとおっしゃっている。それは我々を取引で生きるものと知っての事か。通常悪魔は取引を持ち出す側であって、むこうからかけられることは無い。異例だった。
「その指に生えた爪を頂けるならば」
「うん、いいよ」
「ですがなぜ、貴方のように力のある人が『たかだか』百人のために取引をなさるのか?」
「……眠るような死を与えてもらいたいんだ。できれば少し気持ち良くなって死ぬような状況がいい。薬でもできるのだけれど、どう考えても君たちにやってもらった方が安上がりで、確実だから」
「いったい誰を殺すのですか?」
「奴隷を」
恐ろしい人だとロトは顔をゆがめた。先ほど奴隷の命を奪ったという事であれほど怒り狂った人が、今度はその奴隷を殺せという。奴隷からすれば自分たちのために命をはる主人、自分も命を懸けて守ろうと誓っているはず。その愛による契約をこの人は……。
「はいもういいよ」
少年は糸を犬歯できるためにロトの肩口に顔をうずめてブチりと切った。切られた肩はきちんと塞がって、今は黒い縫い目が点々と残るだけだ。ロトはその傷跡を見つめる蒼より青い双眼を見つめ、その中にあるものが何なのかを見たくなった。
悪魔でも既にいるのではないか。そう思っての事だった。
「貴方、う、産まれた時からそうなのですか?」
ロトは自分の唇を掻きむしるように引っ掻いた。そうしなければ目の前の無垢な人間を食ってしまうと思った。そこにあったのは完璧なる穢れ無き人の姿。神様でさえ欲しがるその肉体は、いったいどんな価値が付くというのか。
ロトはその爪を交換条件に含んだことに心底驚き、心躍った。一方でなぜもっと踏み込まなかったのかと己を呪う。
目や心臓ならば、他のどんな悪魔でさえ欲しただろう。今までため込んだ魂も、財宝も全て手放してそれを求める。
「うつくしい……その年でも、穢れを知らないのですね」
「あ、これはですね。他人の痛みとか愛とかが良く分からないだけです。それってもしかして取引したら教えてもらえます!!??」
ああ、この人はそれが欲しいのか。人は自分の持っていない物を欲しがるというがまさかそれを欲しているとは。
「それは出来ません」
あなたの価値が下がるからです。ロトはその事を話さなかった。
神様だって欲しがるその器を誰が壊すというのか。
ロトはその器を試すように本来の姿になった。人の形ではなく、古い伝承に残る姿だ。人は恐怖し、見ただけで逃げ出してしまう姿を前にし、少年は特に逃げるわけでもなく淡々と会話を続けた。
本物だ。
「あ、あのもし。爪は今いただけませんか」
ロトは舐めるような目を指先に向け、宝石を扱うようにそっと少年の手を取った。
「あまり痛いのは嫌いだから、さっさとしてね」
唇が指に触れると同時に、ロトは契約上ギリギリの指を舐る行為に走り、そして少年の顔を見ながら爪先を齧った。