1人の恐怖
「僕は神様が沢山いる世界から来たんだ」
「……」
「山や川は勿論、巨大な岩にも神様がいた。だけど、人間たちはみんな忘れてしまった。きっとそういう教育が途絶えたか、神様としてあがめていた物を切り崩して生活していたせいだと思う」
日本には八百万の神がいた。八百万というのは物凄くたくさんという意味で、その数字自体が神様の数ではない。きっともっと多い。
言われてみれば、俺は神様の世界から来たのだなと思った。
そこで生きていた人間達はみんな神様のことを忘れている。身の周りにはまだ神様は生きていたはずだ。
今思い返せば、前世の家系は神様を代々守ることを仕事としていた。父の死と共にそれを受け継いでいたのを今更ながらに思い出す。
パスは巨大な体を布団に横たえながら、俺の髪を撫でていた手を止める。
現在進行形で化け物チックな見た目であるが、それでいて優しいので俺はその姿が気に入っていた。
人の物に比べてほんの少し大きく、皺の寄った手。干からびた木を思わせる腕はほんのりと煮干しの匂いがする。
「気を悪くしたらごめんね。神様は皆が皆、人の形をしているわけじゃないんだ。岩その物が神様として奉られている地域もある。君の姿を見て驚かないのはそういう世界で生きていたからかもしれない」
俺は体を丸め寝る態勢に入った。まるでお母さんのお腹にいる赤ん坊みたいに。
「世界が違えば、崇めたてられていたかも」
「お戯れを」
「僕の知っている神様みたいな人は、腕が千本生えているんだ。迷える人、苦しんでいる人を一人残らず助けられるように。パスは腕が四本あるから、きっと大事な人を沢山守るようにその姿になったんだろうね」
もし、生き物に設計者がいたならば、意味の無い設計はしない。
「ああ、そのようなことを我らに言ってはいけません。我らは人恋しく、醜い獣なのです。美しくあるために若い女の皮を剥いで着ていた者もおります。どうか、どうか優しい言葉はおやめください」
「パスは、そういう事をするの?」
「い、いたしません。あなたがこの姿を嫌ではないと言ってくださったからです」
「ん。寝よう。今日はもう疲れたよ」
「はい、……主人様」
化け物じみた巨大な胸の中で心音が急に早くなった。頭にかかる優しい寝息は温かく心地よい。いつの間にか寒かった部屋は暖かくなっていた。
ぱちりと暗闇で目が覚めた。お昼に水を飲み過ぎたようでトイレに行きたかった。
体をゆっくりと起こすと大きな二つの目と目が合った。
化け物ちゃんは今の今まで眠っていなかったようだ。
「なにやってるの。寝ないとダメじゃないか」
「眠くありません」
「バカ言ってんじゃないの。明日もあるんだから」
俺はトイレに立とうとして手を摑まれた。掴んだ手は震えていて段々と力がこもる。
「置いて行かれるのですか」
この人部屋に長年閉じ込められていたから一人が怖いのだ。
その期間は十年。本もゲームも無く、本当の一人ぼっちで生きていたのは辛かったのだろう。想像することしかできないが、その長さは十分すぎる。むしろ正常な心を保って生きているのが奇跡だ。
「心臓あげますから……目でもあげます。おいてかないで」
「トイレです。トイレにいって戻るだけです」
手の拘束が緩んだのを見計らって廊下に出たが、彼女はついて来る。上半身が巨大な獣であるために貧弱な下半身では歩けず、体をするようにして歩くので、見ていて辛かった。必死について来るのだ。
でもここでぶちまける訳に行かないし、俺は速足でトイレを目指す。
トイレの中までついてこられては困る。周りに誰かいると出せないたちだ。
やっとのことでたどり着くのと、トイレのドアに重い物がぶつかるのは同時だった。
外からすすり泣く音も聞こえる。
信用が無いな。捨てると思われている。
出せ―出せーと思っているそばから、呪詛のような言葉が廊下から聞こえカリカリとドアを引っ掻く音が聞こえてきた。外の人物は道具を持っていなかったから素手でひっかいているのだろう。爪が剥がれてしまうかもしれない。
やっとのことで出し切って扉を開けると重い肉塊がずっしりと首をもたげて笑顔を作った。顔を覗き込むのはこの化け物の癖だ。
「ああ、よかっだ」
「お布団に戻ろう」
行くときとは違ってゆっくりと部屋に戻る。廊下には引っ張って来てしまった布団が放置され、めくれ上がった絨毯が血に濡れていた。
車椅子を検討した方がいいだろうね。
ふと、白い物が点々と薄暗い廊下に顔を出した。
ピンポン玉より少し小さくて何か模様が掘られている。
近づいてみると生臭さが鼻を突いた。動物の内臓の臭いだ。
部屋の入口の前に大量の眼球が一列に並んでいた。
その不気味さは言葉では言い表せない。まだ体温が高いらしく寒い廊下の中でそれらは湯気を発していた。
「悪い人間どもの目、で御座います。どうかお納めください」
部屋を出る時は無かった。いつ取って来た? ねえいつ?
もしかして、君は物凄く移動が速いのか。
頭を深く下げ、恭しく差し出す眼球を俺は受け取った。