冷たい体
パスという名の生き物は怖い。まるで地獄から来たみたいだ。
ご飯を持って部屋に入ると、壁を見つめていたパスはこちらを嬉しそうに見る。飢えた獣のような目が細められ、大きく裂けた口からはダラダラとよだれが垂れた。
だが、向こうから人間に近づこうとする気はない。人間が怖いのだろうか。あるいは、目が悪いために近づくまで誰なのかわかっていないのかもしれない。ただパスが分かるのは、俺が飯を持ってきて、それが湯気のたつような肉の塊であるということ。そして、それが血生臭く美味しいだろうということだけだろう。
生き物は、食べ物にこだわる。
特に捕食者は人肌の温度の肉を好むのだ。
あれだけ可愛い猫でさえ、人肌に暖かい肉を好む。実際に市販されているキャットフードには、人肌に暖めることを推奨している物があるほど。だから飯の温度というのに気を付けた。
相手は、肉を食べる捕食者なのだから、できるだけ喜ぶものを、俺自身が餌だと思われないように差し出さないといけない。
何より大事なのは、相手が人語を理解し、言葉を使っているということだ。皿にはフォークとスプーンを用意した。それを知らない獣ならば気にも止めないだろう。しかし、それを知っている人間からすればどうか。
俺は、パスという存在自体に大きな違和感を抱いた。家畜と同じ残飯は出さない。
そして、その化け物は肉の塊を前にし、当たり前のように銀のフォークとナイフを手に取ったのだ。間違いないだろう。確定だ。
「ねえ、パスはどんな人間だったの?」
ミシリ、と大きな音が響いた。箸を力一杯折ったような不気味な音は、目元にヒビが入った音だった。ヒビはやがて裂け目となり、耳元まで大きな亀裂となった。その亀裂から黒い髪の毛が雪崩のようにあふれでてきた。
とっさに俺はそれを中に押し込む。その感触が気持ち悪かった。それは髪の毛だった。人形やかつらではない本物の髪の毛だと分かった。それは、油っぽく、妙にリアルで、そして猛烈に臭かった。
腕や足に巻いたばかりの白い包帯には、どす黒い墨汁のような血が染み出て、壊れた蛇口のようにダラダラと床を濡らす。
「だめ!!」
体液を30パーセント失うと生き物は死ぬ。酸素を体に供給できなくなるからだ。そしてパスは化け物だが、人と同じ呼吸器を持っていた。
体に押し潰され、壊死した両足が根本からもげる。暴れるパスの体が背骨からよじれ、内蔵がとても言い表せない不気味な音をたててよじれていった。
「ダメだ!誰か!!!だれか来てくれ!!」
パスはどこか遠くを見つめて苦しそうに息をしている。死にかけている。おそらく、いきるのに必要な何か重要な臓器が死んだ。そして心臓が動いているために体は即死しないが、その苦しみのためにもがいている。
すぐにメイドさん達は来てくれたが、すでに行える処置は無いと、その目で伝えてきた。諦めろと。死んでいるんだと。
「俺の知っている世界では、心臓の停止は死亡を意味しない。心が入っているはずの脳みそでさえ、その死が、人の死でもない。死は、生きている人間が決める。良く見とけ」
俺はうでまくりをして、パスの肥大した胸をナイフで裂き、その中に手を入れた。そこには心臓があった。大きく、スイカほどもある心臓は熱かったが、止まっていた。それを思いっきり握りしめた。
ビクンと体が跳ねる。
心臓マッサージ。
口を重ね、鼻を摘まんで息を込める。人工呼吸。肺はすでに潰れていた。ヒューヒューと膨らむが音からしてどこかで空気が漏れている。肺が弱っていたのだ。
「誰か見てないで手伝え!!」
俺の血だらけの腕を、青白い手が掴んだ。
見たことの無い腕だった。
なんと不気味なことに、その手は心臓の停止したパスの胸の中から延びていた。
うえ?