サバト
もし地獄という物があるとするならば、この戦場よりもずっといい所だろう。
これは出兵した13歳の少年が残した手記に記されていた言葉だ。
黒泥と血と雨で洗われた戦場は、さながら底なし沼のように兵士たちの足を捉え放してくれない。魔導士による戦列を組んだ攻撃の後には決まって歩兵の突撃が決行された。
そのことが嫌というほどわかっていたために攻める側の表情は硬かった。突撃、すなわち剣を持って相手に切り込むことは、敵に身を晒すことを意味していた。無数に飛んでくる弓矢は膝に当たれば走れなくなって戦死。飛んでくる槍が胸に刺されば即死。魔法に当たればまだ幸せな方で、痛みなくあの世に連れ去ってもらえる。
真っ暗な空に眩しくきらめく赤い星が打ちあがった。突撃の合図である。
まだ青年にも満たない兵士たちは泥の中から這いずり出でて思い思いの剣を手にして走って向かう。その姿はまるで運動会を行う子供たちのようだった。ただ、それが楽しい行事と違うのは腕が吹き飛び足が無くなるという事だった。決まって線列の先頭は奴隷が務めた。軍隊では最も誉れ高い場所とされていたが、そこを兵士が走っていたのは今はもうずいぶんと昔のように思える。
その奴隷たちがいつの間にか姿を消していた。
変だ。まだ死ぬには早すぎる。まだ全力で走り続けなければ敵の喉笛までたどり着かない。
先頭を走っていた奴隷達は、爆裂魔法で出来た土の穴中に身を潜めていた。
ある者は怯え、自分の爪が剥がれるのも構わず素手で土を掘り、またある者は、研ぎ澄ました剣をスコップのように地面に突き刺して穴を掘っていた。
「バカ者ども!!今すぐ突撃しないか!!」
それを見た隊長は声を張り上げて奴隷たちの頭を棍棒で殴って回った。
それはとても痛い物で、殴られると頭の骨が折れるような物だったが、奴隷達は一切聞く耳を持たず穴を掘り続けた。
やがて隊長はしびれを切らし、突撃を再開する。
「覚えていろ!絞首刑だ!」
なぜ、いままで命令に従順だった奴隷達が急に言うことを聞かなくなったのか。それが気になった。
「君たちはもうすぐ除隊だろう。自由の身になれるのになんで命令無視なんか……」
奴隷達は黙って黙々と穴を掘り続けている。だが耳を澄ませると戦争の爆音の中に怯えた独り言が混ざっていることが分かった。
「化け物が……くる。早く逃げないと……殺される」
「おい!その化け物とはなんだ!!」
肩を揺さぶったが一切聞く耳を持たなかった。奴隷たちが人間よりもいい耳を持っていることは誰もが知っている事だった。何かを聞いたのだ。
耳を澄ます。
戦場から音が消えていた。
魔法が起こした煙の向こうで何かが蠢いている。それは影のように黒い塊だった。
「だれか……助けてくれ」
それは隊長の声。その黒い塊は隊長の喉笛に手を付くと、両手で引き裂き体を半分に裂いてしまった。その化け物の腹には剣の刺青が掘ってあり、それは、囚人の刺青だった。
剣は人殺しをしたことを意味し、その剣から滴る血は、一滴で一人殺したことを意味する。その獣の腹に掘られていた剣はどうなっていたか……。
剣は血で塗れ、一滴の雫も溢していなかった。
それは、誰一人として逃がさないという殺し方そのものを表している。
獣はバリバリと音を立てて人を食う。
食ったかと思うと物凄い怪力で呆然とそれを見つめていた人間を二人三人と捕まえ、その醜く歪んだ足で踏みつぶした。内臓が飛び出し絶命したことを知る。
意を決した切り込み隊が突撃方向を変えて戻ってきたが、その剣は化け物の肉に触れるとまるで飴細工のようにぐにゃりと曲がり、意味をなさなかった。
右から左に大きく振りぬかれた右手の中にはゴロゴロと石が握られている。いや、石ではない。あれは今歯向かった人間の頭だ。
その獣は後ろ脚が悪いようで前足を使い体を引きずるように歩いている。走って逃げれば逃げられそうだ。そう思った兵士が北に逃げたが、化け物の手から青い光が迸ると、地面はうねり、爆発し、兵士たちを軒並み噴き上げて殺してしまった。
化け物は逃げる者、向かってくる者をあらかた殺し終えると、次は兵士たちの顔を覗き込み始めた。その鼻の曲がりそうな臭いは、目を閉じていてもそこにいるのが分かるほどで、抜け落ちた歯の間に挟まった同胞の目が虚ろにこちらを見るのと目が合うと、思わず吐き気をもようした。
「美しくない。やはりあの子はとくべつ。クカカカ」
「何を言っているんだ。何を」
化け物の目は、すでに遠くを見ているようだった。我々はその化け物にとって道にいる蟻の行列と大差ないというのか。
「闇に住む醜い腐った獣たちよ。我が力となり、その矛を降らせたまえ」
兵士たちはその化け物の不気味な声を聴いた。カエルを踏みつぶした時のような声だった。
幾千の兵士が口から血を、耳からは膿を、鼻からは脳を垂れ流して死んだ。
こんなのは聞いていない。敵の新兵器か。
殺してやる!と、這いずって敵陣まで行くと、そこには先ほど見た物と同じ光景が広がっている。
いや、それだけではない。腹を裂かれ、内臓を引き出された死体がより分けられていた。中身が空っぽになった死体と、内臓の山。それはさながら猟師が獲物を処理する光景にも似ている。
中には皮を剥がそうとしたものまであった。肘まで手を血に染めて泣きながら死体を処理する奴隷の姿もある。命令されている。あれは戦利品なのだ。
敵陣は壊滅。我々は敵のいない陣地に直接攻撃を仕掛けていた。
代わりにいたのは化け物だった。
空には、見たことも無い不気味な光が、まるで生き物の内臓のようにうごめき、その切っ先を地面へと伸ばしている。
「なんと、不気味な」
もう、家族には会えないことを覚悟した。