何を食っても生きていたい
愛というのが段々と分かってきた気がする。
薄暗い自室で、小さな椅子に腰かけたオーロラが一心にシャツのボタンを縫ってくれていた。アリッサねぇ様に引きちぎられたボタンだ。縫い糸の質が良すぎてとんだボタンはシャツの生地ごと引き裂かれていた。それをちまちまと手縫いで直していただいている。
その姿がドキリとくるものがあった。
彼女の背中にある翼は、いっぱいに広げると8m近い大きさになる。それは身長2mの大人が四人、縦に並んで寝たのと同じ大きさで、物凄く重いはずなのだった。
手元を見るだけで肩が凝って仕方ないはず。しかも薄暗い時間だし、超勤労働だし、文句を言わない彼女を快く思った。ありがたい。だからこそ気が引きたくて、今日見た嬉しい光景を話すことにした。
「鹿ちゃん、スープの器に直接手を突っ込んで、自分の指を舐めて飲んでた。顔の周りまでべちゃべちゃにして『こんなに美味しいもの食べたこと無い!』ってさ」
「随分育ちが悪いんですね」
俺は、オーロラのその一言にぐさりと来た。
優しい彼女のことだから、そういう風には言わないと思っていたのに。
でも彼女が俺と違うのは、俺が落ち込んでいるのを察してちゃんと目を見て話してくれるところだった。俺は他人が落ち込んでいることが分からないから、それが本当にすごいと思う。
「ごめんなさい。お友達を悪く言うつもりは無かったんです。奴隷は皆育ちが悪いですから、これは友愛を持ったスラングです」
「……みんなそんなことを言っているの?」
「私たちは、自分たちの境遇を笑うことしかできませんから。それで、どうしてそんなに気にかけているんですか?」
「この家の図面が書かれたのは十年前だから」
俺はオーロラに、羊皮紙に書かれたこの家の図面を広げて見せた。
彼女はずいぶん覗き込んで「綺麗ですね」と言った。
そう、普通は分からない。
これはとても残酷な話だ。
「あの子の年齢はどう見ても十歳に満たない」
「え? でもお屋敷ができたのは……」
「きっとあの子は、その時いなかった」
あとから入れたことは考えにくい。家が完成したら家具の搬入、そして住人が住み始める。そんなところへ角の生えた特徴的な子供を入れられるわけがない。もしそんなことをしていれば、誰か覚えていてもいいはずだ。
しかし食卓でもその話は出ていなかった。
だれもあの子がいることを知らなかったのだ。
「いなかったんだよ。もっと正確には、まだお母さんのお腹の中にいたはずだ」
ギョッとオーロラの綺麗な目が見開かれる。
忘れかけるが、父は凄く残酷な人だ。利益のためならば平気で倫理観を捨てる。そう、奴隷商人だから。
「初めに入っていた女性は、あの部屋の中で子供を産んだ」
「でもどうやって」
「お母さんはどうやって育てたか。最初は母乳で。それも枯れたら、次は自分の体で」
大きな目に一杯の涙があふれ、長いまつ毛によってかろうじて零れない。そんな状態になっていた。
ついに涙はボロボロと流れ、綺麗な顔筋を伝って垂れる。
「だから優しくしてあげて欲しいんだ。あの子は自分の母親を食べてまで生きていたかったんだよ。美味しい物だってなにも知りやしない。服だって持っていない。寒い日に抱いてくれる人の温もりも知らない」
だから面識のない会ったばかりの人に遊ぼうなんてことをポツリと言うのだ。
あまりにも人恋しくて。
可哀想じゃないか。
「ねぇ、見てオーロラ。この家には、あの子がいたような部屋が後4つもあるんだよ」
オーロラは俺の手を痛いほど握り、泣きながら嗚咽交じりの声を漏らした。
「助けて、あげることは、できるん、ですよね?」
「場所は分かっているんだ。でも壁が開かない。あの子の部屋にあったマークも見つけられていない。入口が違うんだ」
4つ。恐らく見つけられてはまずい物。
君ならどうするか?
俺ならすべて違った鍵を用意する。一つ解けたら全部解けるんじゃ意味が無いから。
その肝心の鍵が図面には書かれていなかった。持っているとすればこの家の設計者か父のどちらか。
父は残酷だが、わざわざこのことを隠すような人ではないだろう。なにしろ財産の全てをすでに俺へと引き渡している。残るカギは設計者側。
その肝心の設計者は行方不明という事だ。ノイに無理言って調べてもらった。
無理もない。今この国は戦争をしているのだ。優秀な技術者は国に貢献することを義務付けられている。美しい家を作る能力は、堅牢な砦を設計することにそのまま転用ができる。俺達が持っているのはそういう力だ。
しかも緊急性を要する設計では、できるだけ現場に近い必要がある。
つまり彼は戦場にいる可能性が高い。
「明日、軍に話を付けてくる」
「ええ!?」
「大丈夫。考えがあるから」
薄く開いた自室の扉の隙間から、じーっとこちらを見つめる目と目が合った。
君なら、物心ついたからずっと一人で寝ていた寂しい夜に初めてできた友達を見つけたらどうしたいかな?
俺は黙って手招きする。
にぱーっと太陽みたいに笑って出てきた角つき頭を見て、ぽっかりと胸に大穴が開いたままの俺は、ほんの小さくな幸せを感じるのだった。