壁の中にいる
この家の財産を引き継いで、俺が心より喜んだのは家その物だった。この家の図面ごと受け渡された。図面がそのまま契約書になっていた。
書かれたのは今から10年前。568枚の羊皮紙の後ろに書かれた手書きの図面には、着工した日と、工事に携わった職人の名前、学歴、住所、連絡先が事細かに記されていた。
この家には秘密があることが分かった。
秘密の部屋があるのだ。
その入り口はトイレのすぐ隣、わざわざ膠を固めて作った防腐剤で合わせ目を潰し、見えないようになっていた。まだ誰も通っていない。それは我が父も利用していないことを示していた。
図面が読めるというのは力だ。5か所、不自然な空間がこの家に存在する。それらは図面上どの部屋にも属さない空間で、一か所のみ廊下と接する。こういった作りは警察署によく見られ、その用途は押収品保管庫だ。君なら、存在しない部屋にいったい何を隠す?
俺は武器か財宝だと思う。それらは非常に価値があって、しかも変な気を起させるから人目に触れてはいけない。ぞくぞくするだろう。
考えても見てくれ。これはきっと設計者の粋な遊び心と言ったところだ。物に対しての妥協を許さない父のことだからきっとこう言ったはずだ『金に糸目は付けない。好きにやってくれ』
「その変な絵は、見ていて楽しい?」アリッサねぇさま機嫌がいい。
「ん? これ、楽しいです。この人はどうしてこうしたんだろうとか、自分ならこうするのにと考えると一日が一瞬で終わってしまいます」
「じゃあ、ずいぶん楽しいんだ」
「ええ、凄く」
図面を書くときは、ジグソーパズルで遊んでいる気分に近い。ただし、パズルを組み立てるだけじゃなくて、同時進行で完成したイラストも作っている感じ。だから頭がおかしくなりそうになる。ちなみに一般的な自動車に使われる部品の数は2万点。二万個もピースがあるのである。その全てに図面があり、誰かが書いている。そういう人を俺はいい意味で頭がおかしいと思っている。ギフテッド。まさに贈り物だ。
あるはずの無い部屋の前に立つと、壁の隅にマメのような文様があった。よく見ればそれは漆喰を乾いていないうちに触ったようでそこだけ凹んでいる。この家は完璧だ。右も左も寸分たがわず全てが左右対称。だがここだけが違う。強烈な違和感。
俺はゆっくりと力を込めてその印を押した。
廊下の空気が隠し部屋の中に吸い込まれた。
やっぱり、ここには何か隠しているようだ。埃っぽい臭いと、鉄臭さを混ぜ合わせたような臭いが漏れてきた。
わずかに開いた隙間からまるまると太った蜘蛛が身をよじるようにして姿を現した。
無理もない。人間が長い間入らなかった場所だ。他の動物が巣くっていても不思議じゃない。
ギュッと壁を押すと、それに合わせてアリッサが押してくれた。俺は力がないが、友達は力持ちでよかった。
薄暗い部屋の中は真っ暗だった。
いや、ところどころ天井付近に蜘蛛の巣が張っているのが見える。積もった塵がまるで砂漠のように床を覆っている。だがそれだけ。
誰も入っていないために、誰も何もいれていない。
床に降り積もった埃の上に誰かの足跡があった。拳ぐらいの肉球に蹄が三本。
鹿?
目の前の暗闇に、白く光る眼がふたつ浮いていた。大きな光の玉はぱちくりと瞬きをして一瞬消えてまた出てきた。
驚いて声を失う。……何か生き物が隠されていた。
これは何だ?
頭に重そうな角を生やし、苦しそうに咳き込むと口から埃が舞った。
濡れたカラスのようにつやのある黒髪は床につくほど長かった。よく見ると大きな角には幾何学模様の描かれた紙が貼りつけられ、まるで本来の角を覆い隠すようにそこにあった。それはまつ毛の長い目を伏せ目がちにして俺を見て、ちょんちょんと鼻先をおでこに当ててくる。
「大丈夫ですか?」
攻撃の意思は感じられない。猫の鼻チューに近い。これは挨拶だ。俺はそう思った。
ただ、俺の背中の方で息をのむ声がした。
その瞬間、アリッサねぇの飛び蹴りが鹿頭を捉えた。吹き飛ぶと思った。何しろ今朝、俺の兄の顔面を一撃で崩壊させた怪力である。しかも足は腕と違って筋力に遠心力が乗る。加えてねぇさんの身長はシカの2倍。負けるわけがない。物理的に考えて大きくて重い物が勝つのだ。
だが、その足は小さな毛むくじゃらの手によって軽々と止められ、ゆっくりと床に置かれたのだった。
「遊ぼうよ」
僕はその声を聴いて、その子を隠し部屋の外に引き出した。