隠れた楽しみ
翌朝、俺は感じたことの無い極上の柔らかさの中で目が覚めた。
嗅ぎなれない他人の匂い。ふわふわと柔らかいメイド服。
勿論、お日様の匂いと一緒に。
オーロラは俺を部屋まで運んでくれたようだ。俺を抱いたまま眠っていた。優しい彼女のことだから、気持ちよさそうに寝ている俺のことを起さないように苦心したに違いない。彼女の胸の中で眠ってしまった俺を、ずっと抱いていてくれたのだ。
部屋に時計が無いので窓みると、空の境界がうっすらと白み始めたころだった。
身をよじると、俺はオーロラの優しい手の中からすべり落ちた。そのまま毛布を引っ張り出して彼女の肩にかけてあげる。悪いことをした。部屋は息が白くなるほど寒かった。彼女はそんな環境で余程疲れたらしく、夢を見ているみたいだ。小さな寝息を立てながら、うっすらと微笑を浮かべている。
本当はベッドに寝かせてあげたいのだけれども、5歳児の力では難しいだろう。
かえっていい夢から起こしてしまう。
それならば、寝起きの美味しいコーヒーでも淹れてあげるのが紳士という物ではないだろうか。
俺は初めて部屋からの脱走を試みることにした。
初日にして足にやけどを負い、階段から転げ落ちた俺は、メイドさん達の付き添い無しで外に出ることを半ば禁止されていた。お父様は大変な過保護でいらっしゃる。その上親ばからしく部屋の前にはプレゼントの箱がいくつも置かれていた。
その中から小さな箱を取り上げて包みを開けてみると、透明の石がゴロリと転がり落ちたのだった。これはおそらく、ダイヤ。
ひえぇ。こわやこわや。誰にも見られていないことを確認し、そっと包みを戻す。勿論石も戻す。そもそもこの家にいるのは俺だけじゃないから、他の人への貢物の可能性があるじゃないか。例えば、メイドさんとか。
オーロラ向けだったら嫌だな。凄く嫌だな。あの優しいオーロラに誰かが汚い目を向けていると思うと吐き気がする。
ふと、良い匂いが鼻をくすぐった。洋菓子のような甘い匂い。溶けたキャラメルとバニラの匂い。俺はその匂いに誘われるように階段を下りて行った。おそろしくゆっくりと降りた。俺は5歳児なのであまり足が長くなかった。薄暗い階段は少し間違えれば滑り落ちてしまいそうで、部屋を出た事を早くも後悔した。
やっとのことで階段を下りきると、部屋の中で明かりがついていた。どうやらその部屋の中から匂いがしているらしい。
ゆっくりと足音を忍ばせて扉を開けると、そこには誰もいなかった。
ただちびった蝋燭と蓋の開いたバケット、そして紅茶の葉がテーブルの上に置かれているだけ。もしかしたら誰かいたのかもしれない。
「お、おはようございますー……」
口から発せられた声は思った以上にか細く、薄暗い部屋に溶けていった。
コーヒーは無いが、とりあえず紅茶はあるようなので机に手を伸ばした。大きな丸机の真ん中に置かれている茶葉に、どうしても手が届かないんだな。
何しろ小さいので。
(いいや。誰も見ていないし机に登るか)
机に足をかけると、すっと横から手が伸びた。
白いワイシャツに包まれた細い腕は、丁寧な手つきで紙を三角に折り、茶葉を包む。その止め口をチョンと口にはさんでカップを二個机に用意した。機嫌のよさそうな黒尻尾が俺の腕に絡みつきくすぐったい。
すこし染みの付いた包みをカップに入れて熱いお湯を注ぐ。すると溶けるように良い匂いが部屋に広がった。
「父さんには内緒だぞ」
兄さま……。
俺のには兄がいる。兄には猫耳が付いている。その上イケメンショタだ。兄はちゃっかりウインクをして戸棚から何やらゴソゴソと音を立てている。お兄様もまだ背が低いので高い戸棚を開けるために背伸びをする。するとキュッと引き締まった小さなお尻で尻尾がピンと立った。
白いパンツには尻尾を通す穴が開いている。
にぃっと笑って振り向いた兄の手にはお菓子が沢山握られていた。
僕たちはたらふくお菓子を食べた。げっぷが出るくらいに。
「兄さまは……その、」
「ん?」
「兄さまはもっと冷たい人かと思っていました。これ美味しいですね。ありがとうです」
兄は行儀悪く椅子の上に膝を抱えていたが、長い足を見せつけるようにゆっくりと伸ばした。そして手についたお菓子のカスを親指から小指まで純に舐めとり、じろりと俺を見た。
怖かった。一回り年齢が違う。身体能力も相当違うだろう。気に障っただろうか。殴られでもしないだろうか。
「俺は、美味しい物は隠れて食べるタイプなのさ」
そう言って廊下に消えた。
「また来なよ」
「う、うん」
隠れて食べるんじゃないのか。
熱かった紅茶は、ちょうど人肌まで冷めていた。
兄をゆっくりと見送ると、美しい黒い毛並みが暗闇に溶けるように映えた。いったい何人の乙女をあれで楼閣したのだ!!メイドにまで手をかけているに違いない!!世の中にはショタコンという人もいるのだから、俺は心配になった。さらわれるぞ。そしておもちゃにされるぞ!
多分イケメンに成長するのだろうな。いいなぁ。
神様僕もお願いします。何でもしますから!
帰りは、行よりも気を付けて階段を上った。せっかくおいしそうな紅茶が手に入ったのに、こぼしてしまっては勿体ない。おかげで部屋に戻る頃にはすっかり冷めきってしまっていた。
お湯を自分で沸かせればいいのだが、この世界に電気ポットが無い。スイッチ一つでお湯ができていた時代ではないのである。だから一生懸命カップを両手で包んで温めようとするのだが、そんなものはたかが知れていた。
部屋ではすでにオーロラは起きていて、布団を直している所だった。
「オーロラおはよう。昨日はありがとうございました。これ、お礼です」
「え!!本当ですか坊ちゃん。なんていい子なんでしょう。でもそれは、ご自身で入れてきたのですから飲んでください」
「こ、紅茶は嫌い?」
もう目をウルウルさせます。これが子供のずるい所。これを断り切れる大人はいませんよ。
「まあなんて美味しいのでしょう」
オーロラはすごく喜んでくれた。褒めてくれた。
朝だから小声で喜んでくれたけれど、ほんの少し絆っていう物を深められて気がする。
えへへへへ。幸せ。兄が淹れたので自分の手柄じゃないけど運んだから実質自分の仕事という事で。