暗闇からの呼び声
俺のような人間が生きるにはコツがいる。
それは、愛されるバカであることだ。
愛されるバカが一番相手にストレスなく、自分もストレスが薄い。うつけと呼ばれた殿様は少なからず俺と同じだったのだと思う。
何が言いたいかというと、俺は自分の家に戻る前に服を全て脱ぎ棄てた。
ノイが洗うのを手伝ってくれたけれど、白いシャツからピンク色のシミが消えることは無かったのだ。これはごまかしがきかない。体からは新鮮な血なまぐさい匂いが漂っているし、これは石鹸を付けても取るのが大変だと知っている。
だから、服を着ないという選択肢。
馬鹿で結構。
両手を広げて、玄関を開け、中を突っ走る。
タタタタタと走りながら馬鹿みたいに笑うのも忘れない。
俺は頭がおかしいぞ。
アリッサちゃんに見つかって捕獲されましたとさ。いやー無理無理。逃げられないよ。運動神経が違う。壁を蹴って空中機動を決めてくるからね。いやーあんなのが殺しに来なくてよかった。
ノイは俺が馬鹿をやっていても顔を真っ赤にして付いて来た。
家に帰りたくないというので、お部屋に連れ込むつもり。
指を折っていたから、しばらくは安静にしないといけない。栄養のある物も食べさせないと。それには金がかかるのだ。うち以外行くとこないし。
そんなことを考えていると、うなじに鼻が当たった。
あ!! アリッサねぇさまの吐息と温度を感じる。
首くすぐったい。
「人の血」
さーっと血の気が引いた。
マイサンも縮みあがってちっちゃくなっちゃった。無くなっちゃうんじゃないかな。
そう、彼女はケモミミ、かつ、体にフワフワの体毛がある。ワンコ獣人。
血の臭いが分かるのだ。それは人間と動物の物の違いが分かるくらいに。
「……みんなに黙ってて」
アリッサ姉さまの顔がニヨニヨ変わっていく。足のてっぺんから頭のてっぺんまでじっくり観察され、大きな手の中で俺はお人形みたいに体を縮める。
「早すぎませんか。今いくつですか?」
「六歳」
「うわ……エグッ」
目の色がですね。変わっちゃうんですね。
むぎゅーってされて胸に埋もれる。息できない。化け物級。でっかい。
「大丈夫ですよ。誰にでも初めてはありますからね。ゆっくり慣れて行きましょうね」
大丈夫だ。心に傷はおっていない。そもそもそういう風にできていない。
ノイが足元でぽかぽかとアリッサを殴ってたけど効果ないみたいだ。
しょうがないよ。僕たちまだ子供なんだから。
そのまま誰もいない部屋に連れていかれて、体を灰で洗われた。
体中触られた。まるでお漏らしした後みたいに恥ずかしかった。
温かい手はちょっと、いや、すごく気持ち良かった。
■
夜になってお父さんの部屋に呼び出された。ノイが抱き着いて眠ったために起こさないように布団を出るのに手間取った。
廊下はいつも通りに静まり返って誰もいない。わずかな蝋燭が暗闇を照らすのみだ。
父の部屋はいつもと違って、何か甘い物の匂いがした。
そっと押し開くと、メイドさん達が壁一列に並んで立っている。その中にはアリッサねぇさまや、オーロラの姿もあった。
父は硬い表情で椅子に座り、腕を組んでいる。怒っているようであった。少なくとも俺にはそう見えた。昼間の騒ぎの事だろうか。父の耳に入っていてもおかしくはない。
父は重い口を開いた。しばらく黙っていたために油でも切れたのかと思った。
「お前の兄弟がこの家にいない理由が分かるか?」
「そうですね、遠くの学校に行っているとか」
父は俺の答えを鼻で笑い、瓶から黒い液体をグラスに注いだ。グラスは二つ。差し出された物からは芳醇なブドウの香りが立ち上り鼻腔をくすぐった。
随分高い酒らしい。こういうのはちびりちびりと飲むのだろうが、俺は子供なので口を付けるだけで飲むことはしなかった。
父はそんな俺を見て満足気に自分のグラスを煽り、おかわりをつぐ。あまり父が酒を飲むところを見なかったから、その酒豪っぷりに驚かされた。
「子供達には、皆同じく6畳の部屋と、机と椅子を用意した。職人が作った最初の12対は焼け残って今は8つだけ。お前の部屋にあるのが最後の在庫だ」
「ではその職人さんに乾杯しましょう。優れた技術に」
俺の部屋は、この家でどこよりも質素だった。トイレよりもね。ただ、その部屋にある机と椅子は釘を一本も使用していない特殊な物で、木と木をパズルのように合わせた一級品だった。技術的にはそう難しくはない。問題は時間がかかる事だ。少しずつやすりで削ってやらなければ、ピタリとはまる物は作れない。電動工具では作れない製品だ。
「ついに、あれの良さに気が付くものはいなかった。お前を除いて」
にっこりと笑った父の目は一番星のように輝いた。
薄暗い部屋の中で、それは異様な感覚を呼び覚ます。まるで人ではないような。
「父さんが作ったのですか」
「……」
最初の12対。つまりは、父の初めての仕事。それを売った金を使って奴隷商売を始めたのか。
「お前の兄弟達は、ことあるごとにおもちゃ、服、終いには館まで要求するようになった。私は断らなかった」
「そりゃそうでしょうね」
まあ、分からないでもない。この家は大富豪なのだから。そして未来は決まっているようなものなのだ。特に長男さんは真にこの世の天国を味わわれていらっしゃるのではないか。年も18という。性欲も強かろう。美しい奴隷を買い集めていると噂に聞く。
「何も欲しがらないのはお前が初めてだった」
「自分で作れますので」
「最初は心が壊れているかと思ったが、違うと分かった。奴隷たちの毛艶が変わっていった」
父はまた大きく酒を煽った。今日一晩で一本空けるつもりらしい。
「俺達奴隷商は鞭で奴隷に言うことを聞かせる。つまりは恐怖での支配だ。だがお前は面白い。この館のメイドが誰に仕えているか知っているか? お前にだ」
「契約上は父でしょう」
父はまたニヤリと笑った。
「お前は鞭ではなく、信頼で奴隷を縛る。そういう人間こそが、この家には必要だ。お前を家業のあと取りにしたいと思う」
「上の兄弟が黙っていませんよ」
「殺せばいい」
この父よ。さすがに恐怖で奴隷を縛ると豪語するだけのことはある。人間と同じ生活様式を強制するのも父のやり方だ。奴隷には人権が無い。残念だが奴隷はこの家で金になる動物としての価値しかない。
そして自分の家族の価値もその程度なのだ。もしかしたら自分の財産を齧り食らう息子たちを疎ましく思っていたのかもしれない。父が言っていることが冗談かどうか俺には分からなかった。
「任せると言っていただけるならば、僕のやり方でやらせていただきますが構いませんか」
父はニヤリと笑った。
多分だが、重圧から逃れたかったのだろうと思う。人の命を売り買いして手に入れた財力。さぞや恨まれているだろう。
俺のやり方。俺は奴隷商という不名誉な職に就いても成し遂げたい事があった。
「この家の可愛い奴隷ちゃん達を自由にしてもいいんですか?」
「そうだ、それがお前の力だ」
父は恐ろしく頭が切れる。だからこの時、俺が奴隷の売り買いを止められないことなどとっくに気が付いていたのだ。
そばに控えたメイドさん達の押し殺した笑い声が聞こえる。酒の席での話だった。多分父が言ったのは冗談だろうと思う。俺はそれに合わせて薄い笑みを浮かべただけだった。
俺の部屋の方から泣き叫ぶ声が聞こえた。それはほとんど悲鳴だった。多分ノイが起きて俺がいない事に気が付いた。
可愛そうだから戻る。と父につげると小さく手をあげて短く『行け』とだけ言われた。