黒曜石の刃
そんな夢のような生活が毎日続くわけがないんですよ。ええ。幸せだということは周りからしたら妬みの対象なのです。どうにかして陥れてやろうと近隣の皆さん考えまして、ついに刺客が俺ものとに。
その人は、窓から入ってきた。
夜中に一人トイレに向かった俺は、その姿を見て面食らった。
中性的なその顔立ちは、どっちなのかわからなかった。男装をしたかっこいいお姉さんという雰囲気であったし、何人も振り返る美麗な女顔の男という雰囲気もあったのだ。
ただ、普通と違うのはその首元が楔かたびらのように銀色の鱗でおおわれ、頬っぺたにもそばかすのように転々と鱗が並んでいることだった。
その瞳は金色に輝き、彼が目を細めると笑っているような目になった。
「あんた、坊っちゃんかい?」
「はい、そうだとは思いますが、この家には坊っちゃんが複数人おります。どなたをお探しか?」
彼は、腰の辺りをごそごそして長細いものを取り出した。俺としてはこのまま見逃してくれることを期待したが、残念ながらそれはできないようで、声を張り上げるために息を吸う。なんと数メートルも離れていない自室にアリッサねぇさんがいるのだ。大変な運動神経の持ち主が、である。
彼が腰から抜いたのはナイフだった。
丁度長さは15センチほど。
俺はその美しさに息を飲んだ。
そのナイフは透き通っていた。
水に濡れたカラスの羽のようにヌラヌラと燭台の明かりを反射して、不気味に光っている。
それはまごう事なき、黒曜石のナイフだった。
黒曜石のナイフと言われて思い浮かぶのは恐らく原始人ではないだろうか。我々は刃物を鉄で作るようになり、その技術を手放してしまった。そう、無くしてしまったのだ。
国内大手メーカーの在庫をひっくり返しても本物の黒曜石でできたナイフと言うのは存在しない。それは、あまりにも古い技術で作られ、どうやって作ったのかも正確には分かっていないからだ。
遺跡から出土した黒曜石の矢じりには、元素レベルの微少な刃が形成されていた。刃物でもっとも大切なのはこの刃の精巧さと角度だ。
鋼ではどんなに時間をかけてもマイクロレベルの刃しかつけられないのに対して、原始人が作った刃物は、遥かに小さい元素レベルの刃がついていたのだ。今の技術でも狙って再現できないその刃は、手術用のメスを遥かに越える切れ味と聞く。
美しかった。
そもそも黒曜石は、マガダマ等の宝飾品の材料としても使われ、最も古い宝石と称される。それで作られた刃物は、あまりにもグロテスクで、美しい。
まずその刃が凄い。全体を波打つ水面のような形状が重なるようにして形作っており、ごく小の山型刃がいくつも見えた。
これは現代のナイフにも残っている形状で、波刃とよばれるものだ。この波刃、肉を切り裂くのに向いている。なぜなら、刃が確実に食い込むので脂肪で滑ることがない。なんと合理的な設計思想。美しい。美しいものを作ろうとしてコレを作っている。ナイフ好きの俺にはそれが良くわかった。
「美しい……ああ、もっと近くで見せていただけませんか?」
彼は、一歩引いた。そりゃそうだ。人にナイフ渡すのは危ない。とくに相手がどんなやつかわからないときは、渡さないに越したことはない。
「いいなー欲しいなぁ」
彼は、ナイフの刀身を根本から先っぽまで舐める。
なんかヤバイ人に見えるかもしれないが、コレをやったことのある人なら分かる。ナイフには味があるのだ。ポテトチップスを食べたあとに指をなめると美味しいでしょ?味が蓄積されるからです。例えば、リンゴを剥いたあとなんかはナイフがとても甘くなる。リンゴそのものよりも。
「あぁ、いいなぁ。実は僕もそういうのが好きでして、自分で図面、いや、絵を描いてるんです。良かったら、その、見たりします? あと、それを刺したときどんな感触がするのでしょうか?」
めちゃくちゃ気になるところだった。そもそも15センチの刃渡りとなると削り出す前はもっと大きな黒曜石である必要がある。めちゃくちゃレアだった。欲しい。欲しい!!
「ね、あなた綺麗ですもんね。綺麗な人に美しい道具は似合うのは分かるのですがどうか、一瞬だけ、先っぽだけで良いので触ってもいいですか?」
つんとさわった切っ先で指先から血が滴る。その感触は氷のように冷たく、繊細だ。びくりと震えたナイフの持ち主は顔を赤らめている。この趣味を持つ人は少ないからね。
ああ、これが黒曜石か。エッチだ。よく、優れた道具は女性に例えられるが、これは類を見ない美しさ。豊満で貴婦人のような甘酸っぱい香り。是非もらいたい。
「いくらなら売りますかぁ?」
声も変になる。手に入れたい。どうしても。
「変なやつ」
彼は、はにかんでナイフを背中に隠してしまう。俺はそれこそが見たかったのに。
「どうやって作ったのか教えてくれませんか?」
「……いいよ」
友達ができた。彼はこの日から時々俺の部屋に現れるようになった。