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まだまだ足りない

 寝床を用意したり、お湯を沸かしているうちにあっという間に夜になった。キッチンでは割烹着姿のイリスが、上着のそでをめくって考えあぐねていた。それは夕飯のおかずは何がいいかというのが問題だった。イリスは焼き魚に塩を軽く振ったのを食べたかったが、子供もいる故、もっと柔らかくて甘い鯖味噌煮の方がいいだろうかと悩んでいるのである。


 日本にいた時、コンビニエンスストアやフードコートでイリスが当たり前に買えていた食品はこの世界では貴重だった。まず砂糖をおかずに使おうという考え方がない。箸で掴むことのできないほど柔らかくなるまで煮込むという考え方もない。それはひとえに時間と物資の不足が原因だった。


 皿の上に手を広げた時、手のひらで油が光った。イリスは自分の腕を落としてそれが人の肉に見えぬよう細心の注意を払って魚の切り身のように見せる。食べている時に余計なことを思ってほしくない。それに鯖のあのトロトロとした皮と、甘い脂身の旋律をぜひとも感じて欲しかった。


 食卓にそのご飯を運んだ時、椅子に座った少女がうめき声を発した。嫌がっていた。この地は海から遠く、魚を食べる文化が無い。湖があるが淡水魚は火を通さないと寄生虫が生きている事があり、普通の人は進んで食べなかった。だから魚を食べる時は、お金がないなど本当に切羽詰まった時である。当然それは人気が無く、腐ったあげくに奴隷の食事として提供されることが多かった。


 なかなか食べてくれないので、少女の目の前でイリスはサバの味噌煮を半分食べて見せた。食べて大丈夫な物だと教えるためだ。イリスが日本で食べた中でも一等旨かったその味を、記憶のままに具現化した鯖味噌は、この上なく旨いものだった。


 顎の奥の方が痛くなる。イリスがあまり甘いものを食べていなかったために、その旨さというのが沁みた。じわじわ涎が漏れてしまうのだった。


 それを見せられた今、椅子に座る少女は手づかみにサバを奪って食べだした。食べ方が食い散らかす犬のようで、思わず顔を顰める。


 あらかた食べ終わった時、食卓の上で乳の用意をした。イリスは経験から学ぶ男である。今度はちゃんとスープ皿に移してから提供する。手から直接あげると腕を千切られかねない。彼女にその気が無かろうとも、本能はどう動くか。試そうとも思わなかった。


 スープ皿が乳で満たされたのを今か今かと待っていた少女は、きちんとお座りをして皿の端っこに口を付けた。少女は添えてあったスプーンを無視し、人肌に温い乳をごくごくと飲んだ。皿までなめているのに、なんだか不服そうである。それは、濃度の問題だった。


「う、薄い」


「低脂肪乳にしてみましたが、お気に召さない?」


「め、召さない」


 しっかり皿までなめとっている時に文句は言わず、空っぽの皿を机に置いてから文句を言う少女に、イリスは破顔した。そして手首をまた切って、今度は練乳を用意する。なにせやせっぽちだし、あばら骨も浮いているため、脂肪を付けなければいけない。ならば向こうが欲しているのだから高カロリーなのをあげればいいじゃないか。そう思わなくもない。


 とろり、と、皿の上に重たい雫が糸を引いて落ちる時、少女の表情が変わる。机の下で足癖の悪い足が貧乏ゆすりを始め、目を爛々と輝かせたのだ。練乳こそ、彼女が求めていた物だった。暗い檻の中で味わった甘美なるもの。この世界には無い極上の甘さ。それは脳を焼く甘さだ。考えてみて欲しい。一度も果実以上に甘いものを食べたことの無かった人が、いきなり練乳を口にしたのだ。


 彼女は初めて口にしたその瞬間から味を全部覚えている。その濃厚すぎて硬いと表現してもいい雫が皿に溜まるのを少女が待てると思うか。もちろん待てない。待ちに待ったご褒美だ。少女は皿を盗まれないように抱え、さらにドクドクと雫の漏れる少年の手首に噛みついた。


「痛い!!」


「き、君がわるい」


「離れなさい!」


 傷が塞がるまであと数秒。傷口に舌を押し当てた少女は、チューブに直接口を付けて吸うみたいに練乳を絞り出した。物凄くいい笑顔だ。欲望が満たされ、幸せな気分になる。これがマイルドドラッグ、砂糖の恐ろしい所だ。その幸せはほんの一瞬でしかなく、切れた時の反動もすさまじい。誰しも猛烈に甘いものが食べたくなった経験があるだろう。あの症状がずっと続く。甘いものに囲まれた日本人では感じるまもなく次の甘いものを手にすることさえ多い。その誘惑を助長する為にほとんどすべての加工食品には果糖や人工甘味料が含まれているのだった。


 傷がすっかり治った時、机の上で少女はニパァと笑顔を作った。目でありがとうと言っている。でももっと必要と示すように、略奪したスープ皿に残っていた方の練乳も舐め始めた。


 イリスがいなくなったとき、この残酷で美しい世界で少女は生きて行けるのだろうか。この大きな乳飲み子はまだ、愛情を飲み足りないでいる。



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