お乳の呪い
二人が抱き合った時、小さな小屋の中で少女は限界を迎えた。涙を恥ずかしげもなく流して、赤ん坊のように声の限り泣いた。少女は置いて行かれるのが怖かった。自分を置いて行った両親。先に死んでいった友達。その全てが心に残り続けていた。その棘を吐き出すように泣いた。
涙が枯れるほど泣いて、イリスの胸の中ゆっくりと力を抜いた少女が、拳を作ってイリスの胸を叩いた。おいて行ったのを怒ったのだ。でも、その拳は柔らかく、本当に傷つけようとはしていなかった。
返り血もすっかりと乾いたころ、床で真っ赤な目を腫らした少女は、思い出したように左手に持っていた頭を投げ捨てた。手に残った髪の毛が、とても汚らわしく思えたのだ。血糊でくっついた髪の毛を無理やり取ろうとすると、イリスがそっと優しくとってくれる。
「君はもう少しきれいにやれるようにした方がいいね」
いつからイリスが死と言う物に関心が薄くなったか。恐らくそれは生まれた時からだ。母親のお腹の中で育つ間に何かを忘れて来た。あるいはあるべきではない何かを得てしまった。それは呪いか祝福か。それは使い方によって決まってくる。
少女のお腹の大きな音が響いた時、イリスは少女に寄り添って、血なまぐさい口の中に指を入れてやった。指を食べさせるため、舌の中ほどまで押し込まれた親指は、とろけるように甘いプリンへと変わる。
すぐに噛みつかれることは無かった。口の中でゆっくりと味わうように溶かした後、やっと少女は指を飲み込んだ。少女はイリスを食べたくないと思っている。好きな人を食べたいなんてどうかしている。だから必死に我慢して我慢して、でも飲んでしまった。
「う、う、ごめんなさい」
「何も謝ることはないよ。君は痩せすぎ。もっと食べないと」
一週間以上飲まず食わずで小屋にいながら、全く体形の変わらないイリスと対照的に、少女はまだ食事を楽しむことができる。それは生きているから。痛みと共に美味しいを享受できるのだ。
プリンに入った鎮静剤の影響で、少女はすぐに深い眠りに落ちた。小さな小屋の中で薄汚れた布切れを少女にかけ、イリスはひとり外に出る。彼女がやらかした後始末をしなくてはならなかった。死体を隠すのだ。
玄関についた時、家の中かから強烈な生臭さを感じたイリスは、その場で吐いた。食べ物を食べていなかったため、黄色い胃液がそのまま出てしまう。吐いた理由は部屋中に肉片が付いていたからだった。少女は人殺しを知らず、殴っても動く人間を壁に押し付け、床を引きずり、噛みまくっていた。それが反射で動いているとも知らず、徹底的にだ。闘犬が死んだ犬を噛んだまま離さない光景が思い浮かんだ。
掃除に数時間もかかった。リビングでイリスが汗ぐっしょりの姿で椅子に座っていると、少女が転がり込んできてイリスに噛みついた。怖かったのだ。また置いていかれた。すると彼女は感情のコントロールができなくなった。数年間も監禁され、外とのかかわりもない。壊れない方がおかしい。
「おいて、た。また!」
「ごめん。寝てたから、起こしちゃいけないと思って」
太陽は既に傾き、美しい夕焼けとなっていた。この小さな家で新たな持ち主が生まれるのにちょうどいい時間だ。木製の椅子に座り、人ならざる者達が家を自分の物にするのは、隠れ家が必要だったから。痕跡を消し、本物の持ち主に成りすますことで生きて行くつもりだ。
少女があんまり強く噛むので血が出た時、椅子に座りながら何の気なしにイリスは血を乳に変えた。日常的にやっている事だったから全くの反射である。ほとんど意識せずにドクドクと白い液体を垂れ流す。
少女が口に入って来た液体の味が変わったことに気が付いたのは、指を喉元まで飲み込もうとしていた時だった。少女はイリスの手に強く吸いついてしまう。それは檻の中で唯一安心できた瞬間に感じた味だったからだ。そして今は檻もなく、いつまでもそれを飲むことができると気が付いてしまった。
仔犬に温かいお乳の組み合わせは大変なことになる、と気が付いた時、もうすでに遅かった。硬い床に押し倒されたイリスは、少女がお乳を必死に飲み出していることを知る。早く手を抜かねばならなかった。抜かねば血を一滴残らず吸いだされる。それも一息のうちに何リットルも吸われているようだった。口の周りに白い雫が沢山ついている。幸せそうに目を細めてがぶ飲みだ。
「ちょっと、我慢しようね。もう十分のんだね」
檻で起きた事、あの時、薄暗い檻の中で少女は乳を取り上げられた。それがもう、トラウマで、さらに吸い付きは強くなるばかり。結局、乳に鎮静剤を混ぜる他なかった。
立ち上がっただけで星が視界に流れた。冷たい床に倒れ伏し、イリスは乳を皿に開けてから提供することを固く誓った。普通に、食事をするみたいに飲ませるのだ。ちょっとずつ低脂肪乳に変えて行って、乳離れをさせたほうがいいかもしれない、と思った。