フライドチキン
毎日檻のある家の中へと、イリスは足を運んだ。あの子はここにいる狩人の娘で、救う意味があると考えてのことだった。全快しなくても腐った手足が少しでも良くなればと、彼らはいたく感謝した。
丁度お昼時、人間たちはお昼ご飯を外食で済ませるために家を空けた。イリスは奴隷の格好をして自分自身を輸送する。体1人分あれば子供一人を十分食べさせられるだけの食事となることができた。
太陽はてっぺんに登っている時間だというのに、薄暗い地下室は相変わらず暗かった。そこではお腹を空かせた少女が待っていて、両腕を格子の穴から伸ばしていた。少しでも早く食べ物が欲しいのだ。そのために手を伸ばしている。脇の下がつかえて伸ばせなくなるほどまで必死に伸ばした両腕は、自分の親ではなくイリスに向いていた。
子供は小さい頃の記憶がない。母親の腕の中で一身に愛情を受けて育つ子供がその愛情を忘れるのは、親から独立して生活するために必要なプロセスである可能性が高い。大好きだったお乳の味も、親の乳首の感触もすっかりと忘れてしまうのだ。
一方で、物心ついた時、薄暗い檻の中で自分が嫌う人間が手を失ってまで食糧を供給し始めたのはなぜか。それも毎日のように来ている。その疑問が少女を変え始めていた。
いつからか少女は、暗い檻の中に閉じ込められていることを放置する親よりもイリスが腕をくれる方が信用できるようになっていた。それは彼女が初めて受けた愛情だったのかもしれない。少なくとも彼女の心にはそう映り、心の深くまで染み込んでいた。
ゆっくりと檻の前で手を握ったイリスは、中にいる少女が腕を引っ込めるのを想像して痛みを覚悟した。少女からすればイリスは食料であり、腕だけが外との連絡手段なのだった。当然、そこに触れる物があれば自分の世界に引っ張る。
しかし、いつまで待ってもそうはならなかった。手を優しく握ったイリスには彼女が狂暴性を失ったように思えた。彼女が乱暴を辞めたのは、イリスが美味しい食べ物をくれるからではなく、同じ境遇であると認識したからだった。籠の中の鳥である。美しい羽根をもつために人間たちはそれをペットとして飼うが、その羽は空を飛ぶための物であり、観賞用ではない。だけれども彼らはそれを気にしない。
すぐに手をケーキへと変えたイリスは檻の前で立ち尽くしてしまった。檻の中の少女がいっこうにケーキを食べようとしないのである。それがなぜなのかイリスには分からなかった。相手の考えている気持ちを想像することがイリスには実に難しいのだった。
「何で食べないの? 食べて力を付けないと。君の御両親はそれを望んでいる」
「力を付けたら、君は嬉しいの?」
「そうだね。元気になると君の両親が喜ぶ。すると俺への対応も良くなる。ここだけの話、体を切ると痛いんだ。皆好き勝手食べている」
今朝、お世辞にも綺麗とは言えない小屋の中で、イリスは体の一部をフライドチキンに変えていた。同じ食べ物ばかりだと飽きが来るだろうと考えてのことである。アメリカ生まれの、日本に支店もある有名店の看板商品。サクサク衣のスパイスを十分に使い、濃い味付けのジューシーなフライドチキンは奴隷を狂喜させた。
抗えないのだ。それが人の形をしていようとも。
ケーキだった腕はすぐに形を変えた。少女の鼻元まで突き出された手は、イリス自身の力によってフライドチキンに変えられていた。少女の心を折るために。その表面はこんがりと焼き色がつき、じゅわじゅわと揚げたばかりのように油が跳ねている。出来立てというのは何でも旨いものだ。その上、油。人間の、それも日に何回もご飯の食べられない人間がこれに耐えられるはずもない。
すぐに薄暗い暗がりで指に噛みついた少女は、イリスの指をしゃぶるように噛み、涙を流した。自分が我慢できなかったことが悔しいのだ。シクシクと涙を流しながら、喉を伝う食用油の甘さと強烈なスパイスの味に目を白黒させながら骨ごと丸のみにしてしまう。彼女からすれば愛した親を食べるようなことだった。
腕を再生し終わった時、腕の中にこっそりとイリスはペニシリンを隠し少女に与えた。傷を治すための薬だったが、味の濃いフライドチキンではその味も分からない。
彼女がお腹がいっぱいとなったタイミングで床に座り込んだイリスは、指を切って檻に入れた。指から伝う練乳は、濃厚な味付けにより辛いと感じていた少女にまた、抗い難い誘惑を与える。端的に言うと我慢できない。
少女の唇が指に触れた時、檻に膝をついたその時点で少女が頑張って人間らしく振舞おうとした努力は瓦解した。指からであったが、乳を飲むという行為が彼女を幼児退行させる。誰かが守ってくれて、危険も嫌なこともない世界に彼女は溺れた。
練乳を飲んでいる最中、見えぬようゆっくりと暗がりから手を伸ばした少女は、垢だらけの手をイリスの肩と頭に伸ばしてゆっくりと撫でた。それは子猫が授乳時に母ネコの乳首の周りを刺激して乳の出が良くなるようにしているのに似ている。ゆっくりとマッサージをして血流が良くなるようにしているのだ。
もう十分飲ませたタイミングで檻の前に立ち上がったイリスは、少女の口から指を引き抜くのだが、これが上手くいかなかった。少女は縋り付き、イリスの肌が長い爪で裂けた。
「お、置いて、くの」
「また来ますから」
「い、いや、だ!」
その言葉を聞いた時、階段の方に立つ少女の親が目を細め、ひどく悲しげな表情をしているのをイリスは見た。どんなに悲しい事であろうか。親は子供に触れもしない。まるで腫物でも見るかのように自らの子を見下ろしていたのだ。
「なぜ、声の1つもかけてやらないのですか」
「あれは気がふれている。ああしてしゃべっている言葉は全てが嘘だ」
「ぼくはそうは思いませんけど」
帰り道、一階に続く階段の中で足を止めたイリスは薄暗く、汚らしい檻を見下ろして彼女を見た。彼女は必死に見えなくなるイリスを、自分の親を追っている。まるで迷路に入り込んだネズミみたいに同じところを何度も周回して何とか出られない物かと探っている。
それはいつからやっているのだろうか。狭い檻の中で彼女が喉を潰すように絶叫する言葉が残念ながら心に響かないイリスは、彼女の表情からその気持ちを推し量るしかない。それでも10段階評価でその悲しみは10であった。彼女はまるで取り付かれたみたいに何度も何度も回っている。ただ自傷行為は無くなっていた。それは良かったと思う。
家の入口まで来た時、少女の両親はこれからは食べ物だけをくれといった。自分達の手で運びたいからというような理由だった。子が親の顔を忘れないようにしたいというのだ。イリスはこれを受け入れ、面会はこれ以上しないことになった。
それから三日。相変わらず小さな小屋の中で絵をかいて過ごしているイリスは、鼻に突くような血の臭いを感じた。村で飼っていた動物でもさばいたのだろうか。獲物は肉にしないと食べられないため、この世界では動物を木につるして捌く行為が珍しくなかった。
数分もすると臭いにも慣れ、部屋の隅っこでお絵描きに戻る。一緒にいた奴隷はトイレに行くと言って出て行った。なぜか震えていたため随分我慢したのだなと思った。
ふと、直線を書いている時に線の上へぽつり、とインクが垂れた。イリスは誰か筆記用具を持って来てくれたのかと思ってインクを拭う。絵が汚れると思い服を使って拭ったのだが、そのインクは伸びるばかり、いっこうに綺麗にならなかった。
それが指先についた時、試験会場で人を殺した時を思い出したイリスは、指についた物を血だと理解した。それはぬるぬるとしていて血なまぐさく、まだ温かかった。
ゆっくりと頭を上げると、それは目の前にいた。檻の中にいたはずの少女が全身血まみれでぽつんと立っている。手にはボールのような物を持っていて、ボールから伸びた紐を掴むようにしてイリスの前に掲げた。
「こ、こいつら、ご飯持って来た。で、でも、あ、あんたの血肉、かってに、食べた」
「ここにいちゃダメじゃないか。人間が気が付く」
「も、もう、いない」
少女は肩で息をする。イリスは自分を鎮静作用のある薬物にかえてゆっくりと抱きしめた。少女が持っていたのは親の首で、彼女は初めて会った時よりも痩せていた。彼女の両親は、イリスが彼女のために作った食事を隠して食べていたのだった。自分で持って行くというのは嘘で、全部自分達で食べるためについた嘘だった。自分の子には骨もあげなかったという。