森での出会い
イリスは池のほとりで一人の子供と出会った。
少年はイリスの狼の姿を見てひどく恐れ、持っていた桶を取りこぼし、大きな水柱を立てる。
奴隷商人の子供として育ったイリスにとってそれは異なる文化との接触だった。
この池はとても綺麗とはいえない。なのに桶を持ってくるということは水をくみにきたと言うことだ。加えて服などの洗濯物がないこと、力の小さな子供が従事している辺りを見ると水汲みで間違いないと思った。
子供が仕事をするのは、別に珍しい話ではない。地球でも多くの子供が水汲みをして家庭を支えている。もちろん学校には行っていない。多少裕福になれば兄弟の片方を学校に行かせることもあるが大抵長くは続かない。
まして、この国の水準は産業革命以前の話だった。中世どころか、場所によっては石器時代の生活を営んでいる。それが幸せか不幸か決めるのは少なくとも我々ではない。
イリスは一方で利用できると考えた。
家があるならば、普通の人間は寄り添うので村になる。村が集まると町となり貿易を行うようになる。つまり、それなりの蓄えを持っている可能性が高く、利用価値はまた高い。
少なくとも、狼の体になるときに服を全部引き裂いたイリスには、人間の作り出す服やナイフが不可欠だった。
「逃げるな。逃げると痛い目に遭うぞ」
「ヒッ」
怯えた少年の前で人間に変身する。
狼の巨大なアギトが砕け、内側に収納されるようにして人間のものへと置き換わる。毛だらけだった腕も白い腕へと変身する。まるで魔法だ。
大量の肉を内側に内包したために脚は泥の中に深く沈んでいる。これは異なる体を持つものの特徴だった。見た目よりも遥かに重いのだ。
「ごめんなさい。上着を貸してもらえますか?」
獣であれば全裸で良いが、人の姿となればそうもいかない。年頃の娘のような羞恥心は持ち合わせていなかったが、人としてみられるために服が必要だった。
イリスは顔をいじったことがなかった。生まれたままの姿、目鼻立ちがくっきりとしていて猫のような切れ長の目と、アイシャドウを入れたような切れ画の瞼。一重の目から見える視線は人の目をとらえて離さない。この世界の両親は大変な美形で助かっている。
少年はイリスの体を見て足から頭のてっぺんまでを何回も見た。
「貴方はなんですか?」
「人間です」
「人間は変身しませんよね? 貴方は何かしらの化け物だ」
「化け物とわかって口を利いているのはなんで?」
「……貴方が美しいから」
「悪いのですが、そっちのけはありません」
「お名前はなんというのですか?」
「イリス。といいます」
「女性では、ないのですか?」
「男ですよ。グローイング家党首。肉体はピュアなタンパク質とカルシュウムで構成された人間。ただし、狼にも変身できる」
「イリス……。イリスはここで何をしていたの?」
「喉を潤していた」
少年が落とした桶をつかんで水をくみ、村に向かえと目で合図をした。
思わず大きなため息をつきそうになる。人間と会話をするのは苦手だ。話すだけで気を使う。特に相手が子供の場合はこちらの擬態を見破ってくることがあるため注意が必要だ。
少年の上着を受け取って人の温もりを感じたイリスだったが、尻の大部分が隠れておらず、前部分を桶で隠すような格好で村へと向かうことになった。
「ナイフ、見せてもらっていい?」
「はいどうぞ」
少年が全く躊躇なく渡してきたことに驚いたが、イリスはまた驚くこととなった。刀身が鉄でできていた。これは大変なことで、自宅近くでも殆どの人は石を砕いて作ったナイフを使用している。鉄は作るのに大量の木材を必要とするために高価だった。それを持っているということは……それなにり裕福だと言うことだ。なのになぜ水汲みを?
村の入り口に男達が二人立っていた。一人は腹が飛び出た男で木から削り出したような旧式の弓を持っている。馬上から使うような反対側に大きく湾曲した弓だ。しかしあまり使っていないのか、矢筒も持っていない。もう一人は腰に鉈を帯びたやせ形の男で腕を胸の前で組んでいるが大丈夫かと思った。その手の位置ではすぐに攻撃にうつれない。戦闘を経験していない素人だとイリスは判断した。
「なんだお前は」
「すまないが、この村に入らせていただきたい。なにもしなければ、こちらも危害を及ぼすつもりはない」
イリスは背中に隠していたナイフを半身に構えて脇を締めた。それに対して太った男は弓を構えてすらいなかった。一本だけの矢も地面に指したままで抜いてもいない。やっと慌てて弓を構えようとした。
弓を捨てる気配がなかったのでイリスはナイフを投げた。一回転半の回転をし、眼球に直撃した刃は目を潰し、脳幹深くに刺さって即死した。
痩せた男は鉈を捨てて絶叫。村の中へと走ろうと背を向けたが逃がすわけがない。
回し蹴りが側頭部分に当たり、鈍い音を響かせたあと男は動かなくなった。
相手が素人で良かったとイリスは思った。