敬愛すべき相手
ベスの甲板は大騒ぎになっていた。
砲雷長以下30名の砲撃要員は抱えられるだけの砲弾を担いで担当する砲の尻に直行する。同時にマストには太陽の意匠の軍艦旗が勢い良く掲げられ、食事の用意を進められていた食卓は食器を床に落として臨時の手術台となった。
その中を艦長は悠々と進んで指揮所に向かう。
「右舷よりカッターを3隻下ろせ」
カッターとは7から8名ほどで漕艇する手こぎボートのことで、全木製ながら重量は2トンを越える舟のことである。それは救難または、浅瀬への乗り継ぎの際に使用されるものだ。
即座に玉がけが行われ海へと船が下ろされる。
敵の艦は既に海の藻屑と変わっており、幾ばくかの生き残りがその瓦礫のなかで蠢いていた。これ以上この艦の秘密を教える必要もないだろう。
敵の艦があまりにも脆く、全然手応えがないために、砲兵たちは次の戦闘に備えているが、兵器の差を考えればその決着は時間の問題である。この戦局を打開するためにはベスと同等以上の艦船が必要となるが、それがこの海域にいることは考えにくい。
味方の艦船がやられていながら姿を見せないのは戦略的に優れた将兵が敵にいるためなのか、それとも薄情なのか。もしそうだとすると、ドワーフという種族を考え直さねばならないだろう。
前者ならば、より攻撃的な外交を。後者ならばより徹底的な蹂躙を。と少年は思ったところで、足にしがみつく魚たちに語りかけた。
「あそこで浮かんでいるドワーフを助けた人にご褒美をあげましょう」
敵の目的がなにか知らなければならない。あれが、ベスの前に躍り出たのがこちらの手の内を探るためだとするならば、こちらの敗けだ。もっとも、並大抵の攻撃ではびくともしない船ではあるが、ドワーフが魚雷などを作っていると大変に不味い。
数発ならば耐えられる設計だが、数十発となれば、それはボディーブローのように効いてくる。そうなる前に機関全速で帰らねばならないが、敵にその兆候は見られなかった。
早くしないと見方が溺れるぞ。なぜ敵は助けに来ない?
だだっ広い海で、戦艦一隻で行動させるなどバカのすることだ。
確かに少年もしているが、それは動かせる艦船が二隻しかない現状であるためだ。海軍から奪ったガレー船も一隻あるが、あれは戦力にはならない上、ベスについてこれないので連れてこれなかった。
しかし、ここはドアーフの海。
ちょっとここまでついてくる位の余裕はあると思うのだが。
主砲の測距機にとりついて水平線を見る少年をどこか恐ろしげに見ているのは魚たちだけだ。またあの爆雷が投下されるのではという感覚をひしひしと感じないでもないが、見ないことには敵は見つからない。
現代船にはソナーやレーダーが標準で装備されるようになったが、未だに蒸気機関を載せているベスにはそんなものはない。
目で見て敵を探す他はないのだった。
つまり、敵が海水の下に隠れた場合、こちらにはなすすべがなくなる。
結論として切り札となる爆雷なのだが、不慮の事故により二日前に使用したため敵には知られていると思った方が利口だろう。
めんどくさいな。いきなり首都に砲弾ぶちこめば降伏してくれないだろうか。
一時間もたったが、ついに敵は姿を表さなかった。残酷なことだ。さきほどまでぷかぷか漂っていたドアーフたちの姿がない。どうやら海へと没したらしい。彼らのミスだ。こちらの方が大きな艦船であるというのに、その進行方向に割って入ったのだ。ベスは小回りが利かない。当然踏み潰してしまう。
――戦艦はそもそも敵を沈めるための船である。遊覧船や輸送船とは違う。
少年が振り返ると、そこには既に船に戻った魚たちがドアーフを甲板に押さえつけている姿があった。
魚の顔は右目の辺りが焼けただれているが可愛らしさの残る美形だ。女日照りの船員が見れば、なりふり構わず押し倒すことが容易に想像できる。
その魚の艶やかな肌がきゅっと折られ、深々とお辞儀をする。その動作からは敬愛するものへのただならぬ雰囲気が漏れていた。
「えっと」
少年は思わず声を漏らした。手術をしたのは確かだったが、あまり顔までは見ていなかったのが実情だった。バタバタ死んでいくので助かったのはほんの一握りの幸運の持ち主だけである。
顔に見覚えがないのではない。その顔は他の魚の物だったはずのもの。
「ああ、そうか。君は顔がつぶれていた子ですね」
魚はしなだれかかるように動き、少年の足元へと移動する。まわりでパケ部族が槍を握りしめる音が響いた。
その殺意が溢れるなかにも関わらず、魚は少年の靴にキスを落とした。
背の低い少年から見ると大きな敵が足に噛みついたように見えたが、身じろぎひとつしなかった。
魚は少年の表情をうかがう。
視線は一切動かさず、死と、生の操り人の美しいその表情を見た。
怒ってはいない。
つまり、少年は自分の事を嫌ってはいないということ。
少年は周りの様子を観察する。
先程の指示ではドワーフを助けたものにご褒美を出すという話だったはずだ。
それがなぜか、足にキスをされているので困惑する。
「ご褒美は何がいいんですか?」
「唾液を、いただけませんか?」
「え? どういうことですか? その、普通にお金とか要求するところだと思うんですが」
魚から漏れる敬愛と呼ぶべきか分からない匂いが強くなった。首もとでは血管が脈打っている。
ちっとパケ部族の戦士たちが舌打ちをし、肩に構えた槍を今にも投げようと構えていた。