暗い海の底から
ベスは5ノットという低速で航行していた。時速にして約9キロメートル。
治療時、手元が狂って人身事故を防ぐため、俊足をもつベスであるのにこれだけしか出させなかった。そのせいでベスの核燃料棒は熱く燃え、煮えたぎる蒸気釜は今にも破裂しそうな具合だった。
原子力は電気のように調整が簡単にはいかない。加えて、直結された蒸気機関の武骨な回転エネルギーに引っ張られ、その速度調節は困難を極めた。
そんなベスを遠くから見守る船があった。
その船は針葉樹の葉のように針のような船体を持っていた。甲板にいる船員がすれ違うだけで肩が触れるほど細く、対してその船のマストは巨大だった。長さだけならばベスのマストの二倍の長さがある。
もともとベスのマストは旗を掲げるためと、今後開発するであろう電子無線のアンテナをかねて作られた、言わば飾りだとしても、その長さを遥かに越えている。
そのマストに掲げられた白い帆は、半分しか展開していないにも関わらず、良く風をとらえて船を前進させた。
ドアーフ海軍4番艦、アドミラルである。
アドミラルは、ゆっくりと前進するベスの右後方から追いすがるかたちをとり、その甲板上に据え付けられたバリスタを艦首に向けた。
「ずいぶん不格好な船じゃの」
ドアーフ軍参謀のテルハはベスの船体を見てそういう感想を持った。
自分達の持っている戦艦とはまるで違う。その船は、巨大であり、太っちょであった。
なぜか、甲板意外、黒鉄の色をもち、船体にはいくつもの槍が刺さっていた。
テルハは、ベスの船体を見て海戦をやって来たのだなと考えた。その証拠に甲板は血に濡れ、大量の矢が刺さっている。船体に刺さった杭は、ドアーフのものとは違ったが、どこぞの海兵が自作したものと思われた。
テルハは、大砲を知らなかった。
アドミラルがついに追い抜き、その長い船体でもって進行方向を邪魔すると、巨大なベスはゆっくりと速度を落とした。
「なんじゃ。不気味な船じゃな」
テルハは、ゴリゴリと不気味な音をたてて刺さった杭が旋回するのを見た。しかし不思議なことにその杭は左右均等にならんで据え付けられていて、中心に穴が開いている。その上、ピカピカに磨きあげられていて異様その物だった。
何か、動物の眼窟みたいじゃねぇか
「こちらは海軍所属、アドミラル!世界最速の船なり! 貴公らの航行目的を問う! 戦う意思なくば回頭してその意思を示せ!」
どっと巨大船が傾いた。
見れば船尾の方から異様なほどの水飛沫をあげている。
まずい!!
「帆をはれ!最大戦速!」
ドアーフの船の最高速度とは船の帆で風を捕まえた後、船員が手でオールを漕ぐというものだった。アドミラルは船体が細いため、よい日ならば20ノットで走る。
しかも、本日は気持ちがよいほどの風が吹いていた。
すぐに素晴らしい加速をもって滑り出すアドミラル。ほっと胸を撫で下ろすテルハに黒い影が落ちた。
太陽が隠れたのだ。よほど大きな雲でもか……。
アドミラルはその日、滝壺に揺れる木の葉のように海へと引きずり込まれた。
固い柏木で作った船体は巨大な鉄の塊に押し潰され、音をたてて水に飲み込まれた。
最速の足は、確かに、確かにその力を示したはずだ。はずだった。
まさか、負けるなどと思わなかった。沈み行くアドミラルのマストにしがみついたテルハは、なんともないように海を走るその不気味な船の指揮所に人間の姿を見た。
そんな馬鹿な。ドアーフの技術力は世界一のはず。そう、だよな?
震える手でなんど帆をはろうとも、アドミラルは暗い海の底に沈んでいくのを止められない。