魚
俺達はベスに乗艦して一路ドアーフのもとへと向かった。
例の機関も問題なく作動し、海の上を滑るように移動する。
幾人かの冒険心の強いものが乗船しようと試みたことがあったが、そのどれもが失敗した。
順調すぎたのだ。人生というのはそう長く良い時期が続くものではない。
その時、甲板で乾いた音が響いた。
砲兵が急いで砲据え付けの盾に身を隠すと、矢の雨が降った。
甲板は金属製の覆いの上に、滑らないよう柏ノ木の板材が貼り付けてある。その板が真っ黒になるほど無数の矢が降ってきた。
ベスは近代の戦艦のように覆いがない。元々膨大な熱量を発する蒸気機関を主な機関とした設計のため、すこしでも排熱性能を上げるために甲板上は開けた青天井であり、上からの攻撃を守るのは、砲の回りの鉄板だけだった。この攻撃で3人の船員が肩や足に矢を受けて呻き声をあげる。
おかしいのは海上に敵の姿が見えない事だった。
待ち伏せを受けたのだ。こちらは300メートルもある船であるから敵からすれば巨大な的だ。
「まずいな。敵はどこから攻撃を仕掛けてきた?」
海面で白波がたっている。
その海面に異常はなく、陸地は遥か彼方である。船の姿は見えない。
船の上にはいつの間にか魚類とも両生類ともつかない不思議な下半身をもった生き物がいた。
「あ、あれ? あなた誰ですか?」
喉の奥で声を殺したような少年の声。回りにいる羽人間が、膝をついて道を開く。
高貴なでであることは確からしい。
できることならば先程の一斉射撃でその兵力を壊滅させたかったのに、と魚は指を噛んだ。
肉の盾となって防がれた? いや、それにしては血の臭いが薄い。
「こんにちは。人間の言葉はあまり得意ではないのだけれど、分かりますか?」
少年は異常だった。一切顔の表情が動かない。それは笑顔を作っていたが、瞬き一つせず、強烈な違和感を持っていたのだ。
お面でも被っているのか。仲間が目の前で怪我を負ったというのに焦りも何も感じられない。まるで戦場で壊れた兵士のように心は死んでいるのではないだろうか。
魚が人間の言葉を知っていたのはそれが主食であるからだ。人間は騙されやすい。魚の顔は人間の男からすれば可愛らしい異性のそれに似ているらしく、彼らは時おり水から海中に身を投げた。簡単に手にはいるご馳走だ。
その人間と同じ少年をみているというのに、魚の記憶の中とは全く違うその雰囲気は、長年培った勘を刺激してやまない。
「あ、分かります。頭が良いんですね」
「頭が良い? それはどういう意味ですか?」
まるで、こちらが下等生物だと見ていたような言い口ではないか。そうやって見下すのはどの人間も同じということだろう。仲間に弓で狙われているこの状況でそこまで見下せるのは、よほどのバカであるとしか言いようがないな。
会話しても意味がないな。肉と話しても腹はふくれない。まず食わねば。
少年は腕を振り上げようとしたパケ部族の手をとって制止させた。
そっと手を重ねるような簡単な接触。たまたま隣の席の人が近かったためにからだが触れてしまったようなそれであったが、生き物を見下す人間のやることだ。なにかひどい意味があるのではと思わずにはいられない。
風のようなスピードで一気に距離を詰める。首に指をかけ鎖骨に中指を差し込み、そのまま体重をかけ海へと投げるように振りかぶる。
一切の躊躇せず投げた。全力で投げた。
ゴトリと音をたてて手が甲板に転がる。
それは首を掴んだはずの自分の腕だった。
女のように細い少年の腕には黒い爪が握られ、不気味な三日月のように赤く染まってゆらゆらと揺れている。
「酷いじゃないですか。友好的にお話をしていたというのに」
少年が魚の肌で血油を拭ってきたが体が言うことを聞かなかった。逃げなければ、死ぬ。怖い。
手首よりも細いその刃で何ができるのか。振り上げた右腕の爪、幾度となく獲物の血を吸った爪がその首へと延びた。片腕を失っているとはいえ、その早さは衰えていない。
やった。
しかし指は根本までめり込んだ刃に止められる。
その刃は魚の腕を螺旋状に這い回り、酷い苦痛を植え付けた。
怖かった。
肉がシャコ貝みたいに開いても、全く表情にブレが見られない。ただ、笑うために作られた人形のような仮面のような。
ならば次は牙で攻撃を!!
痛い!!!
思いっきり噛みついたはずなのに、顎がだらんと下がる。頬に触れると肉がなくなっていた。
なんとか繋がっていた舌で気合いを込めて言葉を発する。口のなかで血が溢れても魚はなんとか言葉にした。
「黒水の呼び声」
目を見開くのをやめられない。もし口が繋がっていれば勝利に絶叫したことだろう。
存外、人間とは脆いものだ。
少年の口元に沸々と黒い水が浮かび上がった。それは薄くハンカチのように延び、鼻と口を覆う。
魚がかけた魔法は、少年の呼吸を奪った。その状態で無理に息を吸おうと試みたことで肋骨がミシミシと音をたてて歪む。それでも息を吸うことができない。
「きひぃわ、死ぬんだよ」
ボロボロの体を持上げてなんとかしゃべった魚は背を向けて歩き出した。
ズブッと生々しい音が響いた。
ぐちゅぐちゅと水っぽい音が立て続けに起こり、ボタボタと血が甲板に流れる。
ビュービューと空気の漏れる音。
少年の膨らんだほっぺた、その左右に赤黒い穴があった。自分でカランビットを刺し、穴を開けたのだ。
少年は鼻と口を塞がれながら、新しい呼吸穴でもう一度新鮮な空気を取り込む。
口と鼻を塞がれたから、穴を増やした。
「さあ続きを。君をもっと教えてくれ」