ブラウン・ベス
族長を務めるのは、ヘラバディ・ムーンという男だった。親しいものには自分をヘラと呼ばせ、酒をのみ交わすが、一方で敵対した敵の戦士は、処刑した上、自分の陰部を相手の口に押し付けるような男だった。交渉などしない。彼にとって交渉とは敵の首にナイフを突き立てることがそれだった。
そんな彼が今ちょこんと目の前に座っている。そのわけは、彼にとって軍が目の上のたんこぶであるからだ。そして同時に猛毒をもつこぶでもある。だからもう、力がほしくてたまらないのだ。彼が、廻廊石でてきた白く優美なパイプを吹かし、紫色の煙を吐いているのはただひとえに落ち着くためだった。
「あの船を売って欲しい」
残念ながらそれは無理だ。と、言うことはできるのだが、それをどう伝えるかが問題だった。これは友達と話している世間話とはわけが違う。彼がかけているのは戦士の命であり、ひいては、彼の部族の命だ。
引けと言われて簡単に引くものかね。
「……あの船には歴史があります」
「ほう」
「自分は、小さな島国出身で」
「大国の者がよく言う」
族長は鼻で笑って、胸深く焦げた臭いを吸い込んだ。緊張しているのか指先はカリカリとパイプに音を立てた。爪が割れている。船を彼もこぐのか。ならば話は速い。船には金がかかることを知っている。
「我が国では、金がない時期がありまして、あれと同じ船を作るために国民全員が爪に灯をともす思いで貧乏をし、大国に作っていただいた経緯があります。誰もが貧しく、飯が食えない時代のことです。それでも金を出し合って買った」
「それは儂らもだな」
「あの船は建造費に金貨百万枚かかります。さらに一年海に浮かべるだけで2百万枚の金が溶ける。あなたにその金がありますか」
「……」
「貴方はこれを戦争と思いますか? いいえ違います。ヘラ、ヘラ、ヘラ。今なら良い席を用意できる。これは君だけにしか話さないことだが……」
大事なことを話すときは顔を近づけるものだ。彼は、俺の恐ろしい獣の姿を見て、それでも身じろぎひとつせずに顔を近づけた。
「ぼくはね……」
内緒話を見ている彼の部下、戦士たちからすれば、その内容が気になって気になってしかたがない。しかし族長は俺の言葉を聞いて、生唾を飲むと同時に言葉まで飲み込んでしまった。
もう終わり。
元々人間の心というのは脆いのだ。そのうえ、何年も同族を殺された彼がその状況を打開するために何をするか。
命だって売ってしまう。
大事な取引をするときは常に自分の心理状態がどうかを見極め、少しでも不安要素があるならば取引しちゃいけない。
彼は、全ての部族の命を売ってしまった。
「なりませんぞ!なりません!」
「うるさい!!黙っておれ!!」
ヘラはすがり付く戦士を吹き飛ばして俺の手を取りつめあかを必死になめとった。
気持ちが悪いが、これが彼らのもっもと敬愛し、尊敬する人への挨拶と言われればまあ、悪い気はしないが、できればお姉さんにしてもらいたかった。
「その力、お借りする」
「はい。いいですよ」
彼が求めたのは海軍基地への進行だった。それだけのために自分の配下の命を差し出した。
今までされてきたことを思えば、それでも安いと思ったのかもしれない。そして彼はまだ現実を見る覚悟があった。
むしろなかったのはこの国の海軍のほうであった。
こちらは貴婦人の後ろに黒い妹を従えた戦艦二隻の船団である。
こういうのを艦隊における専門用語で単縦陣を組むという。海はこの季節には珍しく凪いでいたので敵からも味方からもこの海戦はよく見えた。
海軍は貴婦人が港に戻ったときから海に船で蓋をした。数で勝負とばかりにずらりと集めた40隻ばかりの木造船は、木の葉のように海の上を漂っていた。
何をしたいのか、舵取りは立ったままこちらを見上げている。良い的だ。
「機関停止!」
「ていし!」
何か言いたいのだろうかと思って動力を切ると向こうから叫んできた。
「どこぞの田舎者か知らんが最近海を荒らしてるそーじゃねぇか!!!ここらは俺らの海だ!!かえれ!!!」
「そうだそうだ!!かえれ!!!奴隷臭い商人はカエル頭の奴隷と穴蔵へか、え、れ!!!」
船という船から汚い罵声が投げ掛けられた。一番ムカついたのは奴隷たちへの悪口である。うちの奴隷はブスではない。断じてカエルみたいな顔をしていない。だからムカついて叫んでしまった。
「テメーらの女房のほうがよっぽどブスじゃないか!!!!」
「うるせぇ!!」
海軍はこちらに弓をいかけた。あちらが先だ。やってくれたよまったく。貴婦人の顔に石の矢じりで小さな傷がついた。化粧がとれて内側の鋼鉄が顔を出したのだ。勿論内側には傷一つない。
「機関全速!」
「ぜんそくー!!!」
司令塔で鐘がうちならされ、あわただしく船員達がかける。どうと、尻を蹴りあげられた馬みたいな衝撃があって、白い船体は唸るように一直線に並んだ海軍に向かって進んだ。
「殿下!このままだと当たりますが!」
「どうせ木造だ!潰せ!!!」
彼らの船は軽自動車ほどの大きさしかなかった。たいしてこちらは戦艦。それはもう、海に浮かぶ島だ。
先ほどまで威勢よく叫んでいた海兵は、突っ込んでくる貴婦人を見て目の色を変えてオールを漕いだ。だが間に合わない。海の上ではそう早く動き出せないのだ。
そのうえ、巨大な船体が動くと海水はかき回されて海中に引き込むような流れとなる。逃げようにも船は吸いつけられるし、そのあまりの高速ゆえにあっという間に距離は狭まった。
木造船がまるでシュレッダーにかけられたA4用紙みたいにバラバラに飛び散った。直前で海に飛び込んだ兵士もいたようだが、助かったかどうか。
「な、なにするかー!!」
回りの木造船は戦意喪失して逃げようとするものと、海に投げ出された水兵を助けようと近寄ってくるもので右往左往した。見方同士でぶつかり、何人もの人が海に投げ出された。そのごちゃごちゃになったところに二番艦が後に続いた。
「ギャァァァ!!!」
「俺なら、家の家族を心配するぞ~!!早く帰らないと戦艦でいくからなー!嫁をもらうぞー!」
当然彼らは間に合わない。なぜなら手こぎだから。
優れた戦士は優れた技術に勝るというが、戦争というのはテクノロジーだよ。
胸がスッとして穏やかな表情を浮かべる族長は、その光景を目に焼き付けようと一切まばたきをしないほどだった。
「約束は今日中に叶うでしょう。こちらも相応の取り分をいただきます」
彼は笑って頷いた。
俺は奴隷商人の息子だ。兵器も作るが一番の商品は奴隷だ。
ヘラが自分とその配下すべてを差し出して求めたのは、海軍の家族そのすべてを奴隷として差し出すことだった。
残酷とは言うまい。海兵は、ずっとそうやって私服を肥やしてきたのだ。現地民の妻を犯し、殺し、その息子の首を切って自分の家族への土産とした。美しい羽根を見れば、それが欲しいからといった理由で殺し、美しい毛皮を見ればまた、そのために殺した。彼らはそういう種族だ。種族名を人間という。
同じことをされても文句は言えんでしょう。
これこそがヘラの切望した望みだった。
この日の海戦が終わって、その様子を見ていた奴隷たちは黒い二番艦に名前をつけた。その名前は『ブラウン・ベス』。
褐色肌のベスちゃんと言う意味で、褐色とは奴隷の毛色のことである。単純にその毛色の奴隷をブラウンと通帳に書くことに由来する。ベスとは可愛らしい女の子という意味からとったそうだ。お姉ちゃんは貴婦人でそれにちょこちょこと付き従う黒い姿がそういう姿に見えたらしい。
奴隷たちは挙って、このベスを愛し、貴婦人よりもベスに乗せてほしいと嘆願を出してきた。
名前と色が違うだけでおんなじ船だ。なぜだ。