血生臭い海
戦士は子供を一時も離さなかった。
リンゴを貰えれば、子供に剥いてやり、自分は皮や芯の部分を食べていた。痩せ細った子供を思う親心だ。
晩になり、皆が戦闘の興奮冷めやらぬ雰囲気の中で、戦士は一人の少年の前に頭を下げていた。
少年が避けて通ろうとしたとき、戦士は前に回って口を開いた。
「あなた様は、魔法で腕を生やすことができると聞きました」
少年は驚いた。それは一部の奴隷しか知らない事実であり、ほとんどあの家のものしか知らないことであった。
「誰が話したのかは想像するに難しくはないんですが、それは無理です。この商売を始めた人間が、その人間として終わらせないといけない。だから他のものになるわけには行きません」
少年は手を見せた。身の回りの世話をしてくれた奴隷たちの手によって羽の抜かれた腕は、鳥肌のようにぶつぶつと隆起して、とても子供の肌ではなかった。指先のも爪を剥がしたらしく、包帯が巻かれている。
「魔法を使うと人ではなくなるのです。少し休む必要があります」
その時、頭上で鐘が打ち鳴らされた。
敵が来たときにだけ鳴らされる鐘であり、それは指揮所のいちばんてっぺんにあった。
少年らが急いで階段を駆け上がると、西の空にチラチラと光が見えた。
一部の鳥の血の濃い奴隷や人間は、月のかくれる真っ暗な空の下では、ほとんど遠くが見えなかった。そのために明かりとして松明を持っているが、それが煌々と輝いて見えるのだった。その数300はゆうにあった。
遅れて罵声も聞こえ始めた。
彼らは町に爆弾が落ちたことを知らず、見慣れぬ船がここにあることを怒っているらしかった。
既に艦首前方の二連装主砲がゴロゴロと音を立てて旋回しており、見張員はメガホンで叫ぶ。
「信管距離100!」
信管というのは、砲弾の先っぽにつけられた装置で、ゼンマイの力で回転し、任意の時間で砲弾を爆発させるための部品だ。それを100、つまり、百メートルという実に至近距離に設定して撃てと言っているのだ。砲雷長の英断だった。
「撃ち方よし!」
「撃て!」
「うてー!!!」
敵の群れに二発の砲弾は吸い込まれた。一瞬にして敵は落ちていった。それもそのはずで、一発70キロもある鉄の砲弾が空気を切り裂いてくるのだ。近くにいるだけで圧縮された空気に平衡感覚をやられてしまう。僅かな風を感じ取って、人というどうしようもなく重い荷物を運ぶ奴隷にとっては、目をつぶって全力疾走する自転車で手放し運転をしろと言われたような物だった。
そして、混乱した中ぼっと火が広がる。砲撃の恐ろしさというのは、純粋な爆発ではない。その破片が数百メートルにも渡って飛散することにある。あっという間に全員墜落した。一方的だった。
艦橋からは地獄絵図が所狭しと見てとれた。塩水に傷が染みるのだろう、敵の何人もがちぎれた足や腕を持ち上げて真っ黒な海に蠢いていたのだ。
後にわかったことであるが、重武装の人間一人を運べるだけの能力がある奴隷は非常に少なく、敵は空からの襲撃に大変な力を注いでいたとのことである。この世界にはまだ飛行機がないから、空を飛べる奴隷は貴重だった。その上、力の強いものとなるとさらに貴重で、300もの精鋭を揃えるには10年、いや、15年はかかると言われた。やっとのことで組織したものが一時間にも満たない戦闘で瓦解した。敵軍人の衝撃は相当なものだったに違いない。
戦士はその光景を見て少年に食って掛かった。
「敵は魔法で殺すのに、我が娘の腕を直せないというのはどういうことか!」
戦士には魔法と科学の力、つまり、火薬で爆発する砲弾の概念が同じものと見えていた。
少年は暫し黙っていた。
「奴隷なんて死ねばいいと思っておいでか」
少年はその挑発ともとれる発言にやっと口を開いた。
「そんなことは思っていません。奴隷がなくなればいいと思っています」
「あんた神様だろ? 人の命を救うことができる。なのになぜ、同胞をあのように苦しめるのか」
少年は顔色ひとつ変えずに続けた。
「いま、ボートを出そうとしています。使えるものは助けます」
戦士は言い返そうとして言葉を飲み込んだ。使えるものを救う。そのなかには食って掛かるような者や、攻撃を仕掛けてくるような者は入ってはいないのだろうと思った。
「ぼくはね、この船の船員の命を預かっているんです」
その時、戦士はあり得ないものを見た。
自分の娘がその少年に抱きついて泣いているのだ。泣かされるならまだわかるが、腕の無い手で必死に抱きつこうと身をよじり、顎を使ってすがり付いていたのだった。
「ごめんな。腕直せなくてな。もうちょっと待ってくれな」
少年は娘の頭を撫でながら悲しそうな表情を見せていた。
「違うの。あそこで溺れているのは私たちの家族なの。みんな必死に働きます。だから……」
と少女が言うと、少年は自ら服を脱ぎ、暗い海のなかに身を投げた。それを見て、多くの船員が腰に縄を巻き付けて我先にと暗い海に飛び込んでいった。
夜の海というのは墨汁のように真っ黒でずっと浸かっていると、どちらが上か、下かも分からなくなってしまう。戦艦の上ではほとんど感じなかったが海は大きく波打って、顔に海水がかかるような波の高さだった。
そんななかに体を切り刻まれて落ちた敵は、死に物狂いで生き残ろうと、仲間を足場にしてもがいていた。仲間を足場にする。そうすると下の者は息ができずに死んでいく。そしてまた次が下敷きになった。
その地獄のような惨状にたった一人の少年が降りたのである。
暗い海でその金髪は良く目立ち、中には、船から飛び込んだのを見たものもあって急いで武器を探し始める者もいた。敵の子供を捕まえれば交渉材料にできると思ってのことだろう。
少年は僅かな時間、傷だらけの敵を観察し口を開いた。
「死にそうな奴隷から助ける」
奴隷から助ける。これは異例であった。軍人、高官から助けるのが普通である。なぜならば、高官は高い身代金を敵国に要求でき、あるいは、自軍の捕虜との交換材料とできたためである。敵は、これをはねのけることもできたが、軍隊からすれば生き残った高官を見殺しにすることは士気が下がることに直結し、避けるべきことであった。
なのに、高官よりも奴隷を先に助けろと言うのだった。
豚のように太った高官は奴隷二人を浮き輪がわりにして少年に唾を飛ばした。
「ワシを最初に助けんか!!!」
その首に冷たいカギ爪がめり込んだ。カランビットだった。刃渡り数センチのナイフは正確に頸動脈を切り裂いて、真っ黒な海に真っ黒な血をドボドボと付け足した。死んでいく高官は上の方を見てブクブクと沈んでいった。
カランビットは特殊な刃物で全体が湾曲し、刃は内側に向かって強いカーブを描いている。この日助けられた奴隷達は、後に優秀な船員となり、この日のことを事あるごとに話した。少年が持っていたのはその海に唯一なかった『月』であったと。曲がった刃が手に収まっているのは正にそう見えたのだろう。