三嶺と玲華
神威が起きた時間はまだ空は明るくなっていない。寝る前に近くで寝ていた猫型の精霊たちはどこかに散ってしまったみたいだ。代わりに美人な猫ちゃんが近くで寝ている。
玲華は青い外套を羽織り、犬の式神を氷枕のようにして寝ている。近くで熊と馬の式神が見回りしているのを感じる。白雪の嬢と呼ばれるにふさわしい。
彼女はとてもリラックスして寝ているように感じた。前髪は垂れ、貴重なおでこがお目見えになっている。長いまつげと薄い眉。俺が惚れた理由。足首まである外套のせいで体は隠れていたが、その体の曲線美は一目瞭然だった。大学の数学科の教授がこの方程式の曲線が美しいと言っていた気持ちが理解できた。その方程式の意味は分からないが。
彼は彼女の寝顔を見た後、昨日の事件と先ほどの夢での出来事を元に自分の進むべき道を考えていた。
覚悟は決まらない。道もわからない。しかし終点は決まっている。魔法使いでもない自分がいくら考えても、魔法使いの世界の道はわからないので別のことを考えることにした。
それは終点について玲華に伝えるかどうかだ。まだ終点については神威しか気づいていない。
きっと終点は伝えない方が良い。でも彼の気持ちは伝えて楽になりたかった。罪を隠し続けるのは辛い。これは罪ではないが、それと似た性質を持っている。
日の出るころに結論が決まった。結局終点は玲華に伝えないことにした。
いつかは映画のような着地点が決まっていない旅に出てみたかった。なんて考えたりもした。
日が出ると氷の犬が神威と玲華をおこしに来た。起きて早々、彼女に心配され始めた。
「神威、狼の神に会いました?」
「会ったよ。夢の中の神の領域で会った」
「何か話した?」
「いや。特に何も話してない」
「ほんとに契約とかしてない?」
「してないよ」
とにかく神威は心配された。玲華は神威が狼の神に騙されてしまうことを恐れている。彼は魔法の世界に入って間もない。詐欺師からしたら格好の獲物だ。それも預金に一生をかけて貯めた金銀財宝が眠っている一級品の獲物である。
もし契約を結ばされている場合には、契約内容を口外しないような措置が施されているはずなので、玲華は神威のことを信じるしかできない。
玲華は朝の支度をしながら、神威は猫型の精霊をあやしながら今日の計画について話し始める。三嶺家の領地である3つの山。その近くの駅まで行くと迎えが来ているらしい。
彼ら2人の目的は狼の神の記憶とその力の奪取。基本的に交渉で物事を進める。玲華と神威は連帯して事にあたる。指示は玲華に従う。何があっても。神威は自分の身の安全を最優先に考える。決して玲華のことを守ろうとしてはいけない。
説教じみた決まりごとの確認を済ませた後に、町へと繰り出す。神威は黒い外套のフードを深くかぶり耳を隠している。靴も下のスキニーも黒色で明るい白髪が良く映える服装である。
玲華は青色の外套に白色のシャツ、黒のスカートの服装である。
神威は練習通り、認識阻害の魔法をかける。この魔法は透明人間になれる魔法ではない。人の認識から外れる魔法らしい。そこに何か人間がいるのはわかるが、特に見ようとは思われないという効果だと教わった。
人ごみへと入るとその効果を感じられた。誰とも目が合わないが、神威のことを避けて人が通り過ぎていく。神威は世界で一人ぼっちになった感覚に陥ったが、玲華と目を合わせて救われた気持ちになった。
予定通りの新幹線に乗る。神威は別世界に来たような感覚で興奮していた。初めて魔法使いの世界に来たことを喜びと共に実感できた。今までは不幸でしか魔法使いの世界は感じられなかった。
「神威は三嶺家についてどのくらい知っている?」
「何も知らない」
「そう。なら一から説明していくわね。目的地まで時間があるし、聞いといて。きっとこれからの人生にも役立つだろうから」
三嶺家はその名の通り、3つの山を支配している魔法使いの名門。歴史は古く、始まりは江戸時代と言われている。
その昔から魔力が満ち、精霊を引き付ける力を持った3つの連なる山があった。その山を3つまとめて三嶺と呼んだ。そこには精霊だけでなく人間もたくさん魅かれていた。そんな山は鬼たちの住処になったり、そこに建てられた城は無類の防衛力を誇ったり、ぬらりひょんを棟梁とする妖怪連合が陣を敷くこともあった。
当時の武将や陰陽師はこの三嶺が悩みの種であった。そのとき当時の陰陽師の箔矢義信はこの土地を管理すると諸外国の大名や陰陽師に通達した。その内容は以下のようになっていた。
「私だけでは管理することはできないので協力者を募りたい。もし協力してくれる場合にはこの土地の恩恵を配分するだろう。」
この内容に多くの人間が食いつき、100名ほどの強者が集まった。彼らは協力してこの山を管理し始める。
これだけの人数が集まると領地の分配や人間関係で争いが起きると予想されていたが、むしろ人数不足で追加の募集がかけられるほどであった。それほどにこの三嶺は雄大で、神秘に満ちていると言える。
彼らはやがて1つの家として合併される。それが三嶺だ。
「なあ、陰陽師と魔法使いは何が違う?」
「何も違いはないわ」
「じゃあ、なんで呼び分けている?」
「それは第二次世界大戦の影響ね。詳しいことは言わないけど、そのころからアメリカの魔法使いが日本にも浸透して、私は魔法使いと名乗っている」
三嶺家は時代が変わっても魔法使いのシンボルの1つとして残り続けた。それは現在にも続いている。
2人は新幹線を降りてグリーン車に乗っていた。神威は駅弁を広げ始める。
「さっきの三嶺の話だけど、これから現代の三嶺の話をするわね。具体的には私がなんで狙われているか伝えるわ。一度しか言わないからよく聞いといて」
神威は狼の耳を行儀よく立てた。
現代の三嶺家には大きく分けて本家と分家に分かれていた。魔力と術を代々受け継いできた強力な一族である本家。人員も資金も魔力もなにもかも不足している分家。そもそもこの2つが生まれてしまった原因はある教えにあった。
三嶺家は最初の「人出が足りないから募集する」という話から「他人を拒まずに受け入れる」という教えが広がっていた。その教え通りに拡大を続けた結果、新規の領地が小さくなり、分家は泥水をすするような生活を余儀なくされた。
20年前から人員削減を行ってきたが、それも追いつかない。これを背景に分家は本家に対して不満を持つようなった。
分家たちは団結して声を上げた。三嶺の領地の再分配を求めてだ。しかしその声は天の本家に対して届くことはなかった。本家は以下のような返答を申した。
「領地を分けてもいいが、今の分家にはそれを管理する能力がない。分家にこれ以上の土地を分配した場合にはこの三嶺の土地を悪意のある精霊や動物、人間、妖怪に奪われる可能性がある」
その返答に対して分家の者たちは何も答えられなかった。不満が募っていくが、その出口は見つからない。
その時出口が生まれた。それが玲華だった。青柳家に生まれた玲華はすぐに両親を亡くし、新堂家で育った。そこで天才になる。同期の少年少女をスキップで追い抜き、10歳になる前に分家のなかで一番の魔力と術を持っていた。そんな玲華に分家の不満が集中した。
分家の組合は本家に対して決闘を申し込む。ただし出場するのは大人たちでなく、玲華である。そして彼女と同い年の壱帝を対戦相手として指名した。この戦いに勝って、分家は己の力を証明して本家から三嶺の領地を奪い取ろうとしていた。本家は荒唐無稽な言い分を理解できなかったが、決闘を受けないことはプライドが許さなかった。
玲華が10歳になった10日後に決闘が行われることになった。彼女は周りの期待に応えようと純真無垢な心を燃料にしてせわしなく動いた。
いつも通り修練を続けていた。それは誕生日であろうと変わらない。そこに一人の老人と子供が来た。見たことはなかったが魔力量と威風堂々とした立ち振る舞いから本家の当主、三峯重信とその孫の壱帝であることは間違いなかった。
「これ、誕生日。良かったらどうぞ」
少年が老人に背中を押されて、少女に新しい杖をプレゼントする。今の杖よりも耐久性があり、魔力を通すのが難しい上級者向けの杖だ。
「今、魔術師検定2級の課題を練習しているって聞いたからさ。俺もそのころに杖を買い替えた。多分今の杖の出力だと課題は絶対クリアできないと思うよ」
玲華は魔術に関してアドバイスを受けたのが久しぶりすぎて困惑してしまった。もはや分家に彼女に教えられるものはいなかった。
敵に塩を送るほどの圧倒的な実力差と自分と同じ目線の少年との出会いは初めて青いバラを見たときのように鮮烈であった。
「玲華ちゃん。良かったら三嶺家の本家に来ないかい?」
「当主様。それはできません。私のような本家と繋がりがないものは受け入れられません」
「いいや、そうではない。私たちは実力あるものには敬意を払う。一緒に修行したいと思うのだ。昔から強き信念と磨かれた実力のあるものを本家に引き入れてどんどんと強くなっていったのだよ」
「でも分家の方々を裏切るわけにはいきません」
「それは大丈夫だよ。むしろ本家に行けることは名誉なことだ。きっと喜んで送り出してくれるだろう」
玲華はその言葉の意味を次の日になって知ることになった。
本家から分家に対して提案がなされた。その内容は分家に対しての領地の分配。その条件として青柳玲華を本家に送り出すことが明示されていた。もちろん分家の組合はこれを了承。契約の締結のために玲華を呼び出した。
その際に玲華の個人情報を書き記す場面があった。その時、分家の誰も彼女の年齢や誕生日を覚えていないことに対して玲華は言いようがない冷たい感情に襲われた。繋がりのない本家の方が知っていたのに。
このようにして玲華は三嶺玲華となった。本家での修行は新鮮であった。魔術に関する本は一生をかけても読み切れないだけある。杖は月単位で新しいものが支給される。宝石や素材も使い放題である。そして一番の楽しみは三嶺家本家の近くの花畑である。
花は魔術の素材としてよく使用されるので魔術師の家ではよく見る光景である。しかしこれは規模が違う。そこには長年の年月をかけて日本全国の花が咲いている。北海道のアマの紫草から、鹿児島の桜灰のバラまですべてがある。ここにしか生息していないものもあった。
これは三嶺の特性が色濃く表れている証拠である。それはすべてを受け入れること。
通常の魔力の豊富な土地では守護者の精霊がおり、それぞれの特性に合ったものたちが集まる。しかし三嶺にはそれがない。そのため悪しきものも受け入れてしまう。もちろん人間たちも。三嶺家は自分たちが「他人を拒まずに受け入れる」という教えを作ったと勘違いしているが、これも三嶺の土地に影響されている。
それで玲華はきっと一生忘れられない日々を過ごした。同じ実力の壱帝とは教え合い、高めあった。陸織とは花について意気投合し、本当の姉妹のように仲良くなった。弐統はうざかったけど、憎めない存在だった。ほかの兄弟とも仲良くなった。このまま三嶺の花畑の守護者にでもなろうかと考えていた頃、またしても分家と本家の間で抗争の風が吹き荒れていた。
分家は念願の領地を手に入れたが、それを管理することができなかった。それこそが三嶺重信の狙いだった。三嶺家は三嶺を外敵から守る守護者であり、領地は戦争の火種ではないことを身をもって理解させるつもりであった。
しかし愚者の気持ちは愚者にしか理解できないものである。分家は管理できていない理由として魔道具の不足を進言した。つまり本家で所有している魔道具をよこせと言ってきたのである。具体的には狼の神である。
もちろん本家はそれを却下した。しかし分家の妄想はとどまることを知らなかった。
「本家が俺たち分家の力を意図的に奪い取っている」
「俺たちは本家の奴隷じゃない」
「あいつらが富と権力を独占している」
「許せない」
「そういえば、あいつらは俺たちの玲華も奪った」
こうして玲華は分家の反乱運動のシンボルとしてもう一度持ち上げられた。もちろん彼女はそれを了承などしていない。
三嶺家は混乱を極めた。分家は領地を管理できないのに放棄しようとはしない。反乱が広がり、外敵が侵入し始めている。本家やその近くの重臣も玲華に対して不信感を抱いている。
三嶺重信が持ち込んだ混乱はその息子の三嶺零審が当主となって対処することになった。彼がやるべき対処法は1つしかなかった。それは三嶺玲華の追放。
玲華も操り人形であった幼少期と違って物事を俯瞰して考えられる年である。彼の判断が合理的であることを理解していた。きっと立場が逆でもきっと彼女はそうしただろう。
玲華は追放処分後、全国を旅して、研究課題を見つける予定であった。魔法使いは本来であれば両親から研究課題を受け継ぐ予定であるが、彼女の両親は物心つく前に死んでしまっているので、彼女自身が見つけないといけない。
その時、陸織と玲華は双子水晶を分け合った。本家の人間は全員、この混乱が終わったら玲華と会えると信じていた。
しかし愚者たちには関係ない。彼らの欲望は無限に湧き出る。人間は本来、それを夢や仕事、家族に対して向ける。しかし彼らは黒く濁ったそれをさらに煮詰めてできた沼に他者を陥れることだけを考えていた。
三嶺玲華が追放した後も彼らは反乱を続けた。もちろんそのシンボルは玲華だ。狂った彼らを止めるには死以外の方法はない。そこまではまだよかった。
「なあ、もしも俺たちが三嶺玲華を殺したら、本家に認めてもらえるかもな」
こんな狂った考えは常人なら思いつかない。しかし彼らは魔法使いである。身の回りの死に慣れすぎで感覚がマヒしている。それに気づくものはいない。なぜなら魔法使いの世界は秘匿されているからである。そこに常人が付け入る隙はない。
こうして玲華は三嶺家の分家から命を狙われるようになった。分家は彼女を反乱のシンボルとし、殺戮の対象ともしたのだ。三嶺では彼女への悲哀を歌い、彼女のもとでは煮え切った殺意をぶつけた。
こうした日々が幾何と流れた。三嶺の土地はいくつかが妖怪が得体のしれないものに支配され、分家の制御はきかなくなっている。分家のために狼の神の魔力から作った狼人間を配布したが、それが玲華の暗殺に使われる始末だ。
先日魔法省から三嶺家に対して業務改善命令が出され、三嶺復興計画書の提出が求められた。魔術協会からも三嶺家に対する名家の称号が取り下げられる可能性があると通達された。
「ここからは私の完全な推論なのだけどね、今の当主の三嶺零審は現状を打破するために私を殺すことを決断して、弐統の馬鹿が私のもとに送られてきたと考えているわ」
「魔法使いは狂っているな」
「ええ、そうね。常に狂乱しているのが彼らよ」
神威は玲華の言葉が嘘ではないと確信していた。その理由は奴隷契約と研ぎ澄まされた感覚にある。以前は玲華の命令を逆らったときに喉に痛みを感じる程度の繋がりであったが、狼の神と同化してからもっと多くの感情を感じ取れるようになった。
先ほど玲華から感じたのは悲哀、後悔、羞恥心、懺悔といえばいいのだろうか?それは神威にも正確なことは理解できていない。
昼ごはんも食べ終わり無事に目的地の駅へとたどり着く。神威の腹は満たされてはいなかったが、脳内のハードディスクはパンク寸前だった。それは入ってきた情報量が多かったからではない。感情が現実に追いついていなかった。
目的地の駅はターミナル駅といわれる大規模な駅である。多くの人が行きかい、統一された意思によって同じ方向を目指している。
神威はここまで人が多い場所に来るのが久しぶりだったので落ち着かない様子だ。耳に大量の雑音が入って来る。音を無意識のうちに聞き分けられるので特に気にはならなかったが、初めての体験で心が浮き上がっている。
玲華は浮足立つ神威の感情を耳で視覚的に理解している。せわしなく動く彼の耳を見て大きなため息をつく。
約束の南側出口に近づくとそこには一人の少女が立っている。一目で三嶺の方だとわかった。認識阻害魔法をかけているからだ。
玲華と似た眼つきの和服を着た美人がまたいる。顔はおしろいが塗っているかと錯覚するような美白でメイクも薄いと感じた。髪はお団子にしてきれいな花のかんざしでまとめている。艶やかな黒髪は一度見たら忘れることはないだろう。耳も出して自信が感じられる立ち振る舞いだ。着物は花魁のような派手なものではないが、紫色の花が彩っている。とても美しい。
しかし、認識阻害の魔法の影響で周りの人間はそれに気づいていない。彼女を横目に素通りする様は、まるでミュージックビデオのようである。
「お姉さま。お向かいに上がりました」
「久しぶり、陸織」
「そちらの狼人間の方はどちら様でしょうか?」
「彼は私の奴隷よ。絶対に危害を加えないで」
神威は彼女と目が合う。顔面偏差値高すぎて頭がくらくらする。
とりあえず奴隷らしくお辞儀しておく。
「それではこちらにお迎えの車を用意しております。お姉さま私と一緒に前方の車へ」
「私は神威と同じ車に乗るわ」
もう一度陸織お嬢さんと目が合う神威。嫉妬の目でも向けられるかと思いきや、その顔は真顔。それが不気味で仕方ない。
陸織に連れられて黒塗りの車に乗り込む。玲華は運転手さんが知り合いだったようで話し始めた。なんというか疎外感を感じる神威は、昔おじいちゃんに知り合いの大きな家に連れていかれて誰とも仲良くできず、冷たい雨を受け続けたような感情になったことを思い出した。
おそらくこの車にも認識阻害の魔法がかかっている。明らかな高級車にもかかわらず通行人は誰も見向きもしない。
神威は三嶺に近づくにつれて魔力の濃いにおいを感じるようになった。この感覚は北海道の特定の地域以来の感覚だ。
三嶺本家がある縦位山の足元のお屋敷に連れていかれる。周りにはこれ以外の人工物は存在しない。自然の中に独りぼっちで置いてかれているが、うまく調和して周りと仲良くできているようだ。
黒塗りの車から出て門をくぐる。車はどこかへ行ってしまった。
中には2人の人間がいることが感じ取れる。玲華に匹敵するほどの魔力を感じる。
玄関を抜け、お座敷に上がる。襖は開け放たれており、外との境界線がなくなっている。そこに同じく着物を着た男が2人胡坐をかいて構えている。
おそらく1人は三嶺壱帝だろう。その顔は弟の弐統にそっくりである。毎度恒例の三嶺の美白の肌に、細い顎。髪色は茶色でそこが弐統とは違う部分である。服は紺色の着物である。髪色とはミスマッチであるが、イケメンには関係ないらしい。とてもよく似合っている。神威と目が合ってまぶしい笑顔を見せてきた。歯も肌に負けず劣らず真っ白だ。一目見て惹かれてしまう。きっと性格がいいと感じてしまうような包容力がそこにあった。
神威そう感じたのは壱帝の魔力の質に左右されていた。彼の魔力は光を感じられる。後光がさしているように感じる。
それと対照的なのはもう一人の三嶺零審である。肌は少しくすみ、しわもあるがそれでも実年齢よりはだいぶ若く見える。仏頂面が張り付いておりその眼光は切れ味抜群である。白髪交じりの髪にも威厳が感じられた。
視線は玲華でなく神威の白い耳に注がれている。明らかに狼の神が関係しているのは確実であった。認識阻害の魔法のせいで注目されるのは久しぶりだったのでたじろいでしまう神威。
「神威、早く座りなさい」
玲華の声で目覚める。静寂だった世界に音が戻る。鳥の鳴き声や風が草をなでる音が聞こえる。
胡坐をかいて玲華の隣に座る。
「それでは本題の説明をさせていただきます。まず私が弐統を殺したこと、そしてその戦い影響で彼、大上神威の中に狼の神が住むことになった経緯を説明します」
神威はその大きな耳で彼らの感情の揺れを敏感に感じ取っていた。零審と壱帝は顔には出していないが心臓の鼓動が速くなっている。陸織も同様にだ。
玲華が淡々と説明し始める。その瞬間まで神威はとある勘違いをしていた。それは三嶺家側が動揺しているのは弐統が殺されたことではなく、狼の神に関することであったからだ。
もし常人であれば、兄弟を殺した人間が目の前にいてこころを取り乱さないはずがない。だがしかしこれも彼らが魔法使いであるから、そんな心とは関係ない。
玲華が狼の神との契約について話し終わったところで初めて三嶺零審が口を開いた。
「それで君は私たちから狼の神の記憶を奪い取りに来たのかい」
「いいえ、交渉しに来ました。きっと今の三嶺にとって私は最も重要な存在でしょう?」
「つまり君は自分の身を差し出すから、狼の神の記憶をよこせと」
「命以外のものはいくらでも出しましょう」
「であれば我々の奴隷になってもらおう」
どうやら三嶺零審は彼女を操って、三嶺家の反乱分子をコントロールする思惑を抱えているようだ。
「なら話は早いわ。奴隷になってあげるから記憶を頂戴」
「無知な反乱分子と違って助かるよ。それでは契約をしたいが、それには問題がある。私たちは狼の神の記憶を所有していないのだ」
前提を覆す問題発言が飛び出した。その場にいた全員の背筋が凍りつく。神威が感じる感情は怒り、疑念、動揺。しかし零審は冷静である。参加者の感情はどれも冷たいと言えるが、零審だけ性質の異なる冷たい感情である。
壱帝が話を切り出そうとするが、零審が右手を挙げてそれを遮る。陸織は全く動かない。玲華は冷たい感情から怒りの熱い感情へと変えている。神威はそれを見守ることしかできなかった。
「三嶺家は狼の神の記憶を保有していたが、それをとある方に譲渡した。もし君が奴隷になってくれるというなら、譲渡先を教えよう。それと三嶺家の完全なバックアップも約束しよう」
きっと狼の神がここにいたら高笑いしているだろう。なんだ、人間もやるではないかと。
またも玲華に残された手段は1つしかなかった。もし断ればこの場で戦争が始まる。勝つことは不可能だ。もし逃げ切れたとしても、まったく手がかりがない状態で狼の記憶を探さなければならない。
「わかったわ。ただし10日間は私の命令に従ってもらうから」
「了解した」
また契約の魔法陣がひざ元から広がる。玲華の魔法陣は神威と契約したときと同質の氷の結晶をモチーフにしたもの。それに対して零審の魔法陣は色とりどりでカラフルなものである。虹の色が円環を成している。それをつなぐように単色の帯が円の中心を通って調和をもたらしている。両者とも魔法使いが見たら唸る出来栄えの素晴らしい魔法陣である。
一般人が見たらどう感じるか?彼らは見えないから何も感じないだろう。
「私、三嶺玲華は三嶺零審と契約します。契約期間は契約完了の時から、狼の神との契約が満了するまで。その期間中、三嶺零審は三嶺玲華の狼の神との契約に関する行動について一切の躊躇なく協力すること」
「私の使命に背かない範囲であれば従おう」
「であれば、三嶺玲華は狼の神との契約終了後すぐに、三嶺零審と奴隷契約を結びその身を三嶺繁栄に捧げます」
魔法陣が消える。両者の理解が得られた証拠であり、玲華の人生の方向が決まった瞬間でもある。10日間以内に死ぬか、命を三嶺というどぶの中に捨てるか。
神威は一言も発することはない。それは玲華に口止めされているからだ。何度も口出しをしようと試みたが、そのたびに喉が焼かれた。
この時、玲華は契約する前からこの理不尽な契約に対しての対処法がわかっていた。それは三嶺零審を的確なタイミングで殺すこと。殺せばこの契約は実質無効となる。ただし早くに殺すと、三嶺家からの協力が得られない。
そしてこれは三嶺零審も理解していることである。彼からすれば彼女に対して逃げ道を作ったことになる。しかし、逃げ道を作ったことにより強力な契約を結ぶことができた。彼は殺されないように立ち回ればいい。
「それじゃあ、譲渡先を教えて。」
「譲渡先は嘘の神だ。」
玲華の血の流れが速くなる。全くの予想外の回答である。
嘘の神とはその名の通り「嘘」についての魔法に秀でた魔術師である。彼についての情報はそれ以外ない。名前から推測できるそれだけだ。
ただし彼の知名度は現代社会において最も高い神だと言える。なぜなら彼は日本政府に認められている2番目の神であるから。
神の定義は難しい。周りから認められていれば神なのか?強ければ神なのか?過去未来現在で唯一の能力を所有していれば神といえるのか?
そこで基準となるのが日本政府に認められた神、通称「神和」である。彼らは日本政府に協力をしている神のことである。それは現在二柱しかおらず、頻繁に出てくるものでもない。嘘の神とは2番目の神和である。
「そんな得体のしれない人物に狼の神の記憶と力を預けたのか?なんのために?」
「理由を伝えることは契約で禁止されているため私の口からは言えない。嘘の神に対しては私から連絡を取ろう。早ければ明日にも会えるはずだ」
「三嶺は何を企んでいるの?わざわざ先祖が得た最大の宝物をみすみす逃すなんて」
「何を言われようと私は契約でいうことはできない。今日のところは休んで明日、嘘の神と会うといい」
そう言うと、三嶺零審は壱帝とこの家を去った。陸織曰く、この家を使っても良いとのこと。
三嶺家の者が持ってきた豪勢な料理に舌鼓を打つ。料理の内容はメインにうなぎのかば焼きが据えてあり、お吸い物とつやつやのごはん。あと指の数よりも多い種類の小鉢が運び込まれてくる。神威には名前がわからない料理が多数であった。玲華があるだけ持ってこいと命令していたので色とりどりの料理が机の上に所狭しと並んでいる。
「なあ、玲華。嘘の神ってなんだ。狼の神と同じくらい強いのか?」
「さあ、わからないわ」
「じゃあなんで、零審の口から嘘の神ってワードが出たときに動揺してたの?」
「嘘の神が政府公認の神だからよ。政府公認の神のことを神和と呼ぶわ。神和の厄介なところは政府に協力しているからよ。彼らに関わるということは政府と接触することに等しいのよ」
「まずくないか?政府に接触しても俺の安全は保障されないんだろ」
玲華は小松菜の和え物を口に運びながら肯定を意味するように首を振った。神威も止まってしまった箸を動かし始める。これで何人前のうな重か、わからないがまだ腹が満たされそうにはなかった。
「策はあるのか?」
「有効な策はないわ。ただ三嶺家は政府にもコネクションがある。それを利用して何とかしてもらうしかない」
神威は夕焼けが眩しい時間に始まった早めの夕食は日が沈むころに終わった。狼人間になってからお腹の中に空気しか入っていないように感じている。食べたいような食べたくないような。まるで昼夜逆転して深夜に起きたときのように。夕食時の時間で前回の食事から半日以上経過しているというのに食欲がない。しかし食事を用意するとどこからもなく暴食の罪がやってきて無理やり食べさせてくる。
食事の皿を返して、神威は縁側に寝転がりながら玲華と話す。食事中から口が止まらずに走り続けている。内容が昔話の語り合いだとか旅行の話とかなら喜ばしいが魔法使いと奴隷はそんなこと話していない。
ちなみに家の中の安全は玲華が保証してくれている。盗聴を防ぐ魔法陣をいくつも張っていた。
「つまり俺らは三嶺家に何とかしてもらうしかないのか」
「そうよ。神威が死んだ場合、私も死ぬことになる。それは三嶺にとっても避けたい事象のはず。政府からしても私を生かそうとしてくれるでしょうね」
「なぜだ?」
「政府にとっても三嶺の霊力は大切なのよ。きっと三嶺の直面している問題の解決策である私を死なせたくないはずよ」
夜の庭で川の音が一人泣くように人々の耳に音を届けている。このゆっくりとした時間が神威は好きだった。でも狼の神に体を乗っ取られてからこの時間が嫌いになった。期限は10日間。あれだけうなぎを食べたのに道草も食っていていいのか。ふと空を見上げると月が出ている。
三日月であった頃の面影は消えてもうほとんど半月に近い。
せめて体を動かそうと神威が起き上がったときまた玲華の口が走り始めた。
「再三の注意になるけど三嶺の人間は信用しないで。得体のしれない嘘の神と契約していたり、狼の神の記憶を手放したり。明らかにおかしいわ」
「その件で聞きたいことがある」
「なによ」
「俺の聴力等が良くなって他人の心理状態がある程度わかるようになったじゃん。それで三嶺零審、壱帝、陸織を観察してた。おそらく壱帝は零審のことを尊敬してるけど三嶺のすべてを知っているわけではないらしい。狼の神の記憶のことや嘘の神のことは知らなかった」
「でしょうね。そのくらい表情を見ててもわかるわよ」
「異常だったのは陸織だ。彼女全く感情が表情に出てなかっただろ」
「昔からそういう子だったわよ」
「心臓の鼓動は嘘をつかない。例えば陸織と玲華が会った時には信じられないくらいの鼓動を刻んでいたんだ。失神するかと思うくらいの鼓動だったのに表情一つ変えてなかった」
「逆に緊張して無表情になる子なんでしょ。気にすることないわよ」
神威はうまく気持ちを伝えられないことに心を焼いていた。玲華と目を合わせようとするが彼女は彼の耳を凝視している。狼の背筋のいい耳は神威の意思に反して勝手に動いてしまっている。
「鼓動以外にも目の瞳の大きさとか所作をしっかり観察したけど人間らしい不自然な点が全くなかった」
「陸織のことそんなに凝視していたの?やらしいわね。もしかして惚れた?」
「惚れてない。それに嘘の神の話の時に全く動揺してなかった。心臓の鼓動が平常時だった」
「そもそも壱帝が知らないから陸織も知らないでしょ」
どうやら玲華は話を聞く気がないらしい。話は打ち消され、彼女は風呂へと駆け込んだ。
神威は自分の直観を信じて玲華にこの話を打ち明けた。彼の研ぎ澄まされた感覚からなる直観は素晴らしい精度を誇るのだが、それはこの度の終わりに発見されることになる。
とにかく時間がないので神威は焦っている。その心はどこにも居場所がないので、さまよっている。そんな落ち着かない彼に対して、まだゴール地点がわからないのに焦っても仕方ないというのが玲華の見解だ。
また玲華は嘘の神が狼の神の記憶を保持していないと考えていた。それは嘘の神の異常な噂に起因している。龍を食ったことがあるとか、世界中に嘘をついているとか、人の命を小説の1ページ程度の価値としか思ってないとか。噂通りであれば狼の神の力なんて彼にとって価値がないから、簡単に捨てることができるだろう。きっと彼は手放していると考えているのだ。
しかし三嶺家にとって狼の神の記憶と力は家宝であるはず。三嶺家が苦しんでいる現在の状況を考えると、三嶺家が家宝を手放すほどのものを得たとは考えにくい。それが玲華にとって甚だ疑問であった。
彼女が人口の露天風呂に浸かった後、陸織から渡された服を着ようとしている。玲華にとって陸織は妹分というだけではなかった。きっと世界で一番大事な命であること心の奥底で理解している。それ故に報酬を求めない信頼が滝のように彼女に注がれている。
その源流は陸織の玲華に対する溺愛のダムである。彼女が愛してくれるから私も彼女を愛するというのが玲華の信条である。
壱帝も零審も玲華の古い記憶と比較して少なからず変わっていたが、陸織は何ら変化がなかった。玲華を神とした敬虔な信者が陸織の正体である。神威と玲華が住む別荘の魔法を内緒で無効化してくれたのも陸織である。
神威の敏感肌で感じ取れない支援を陸織は玲華にだけわかるように行っている。その行動理由の異常さに反比例するような高い技術に玲華は感心するしかなかった。
陸織は完全な玲華の味方であることは自明であるが、神威の味方ではない。その一点を玲華は注意深く観察している。
彼女が火照ったほほを引き連れて縁側に戻ると神威は体を慣らすための運動をしている。それは逆立ちだとか、宙返りだとか簡単なものであったが、白銀の狼が舞う姿は一種の芸術作品である。月あかりを帯びて光沢を放つ髪をなびかせ、重力に逆らって舞い続ける。玲華だけが神秘を味方につけた神威の作品を見入ることを許されている。それを一言で表すなら白狼の君がふさわしいだろう。
彼にとっての準備運動に幕がおろされると、玲華は称賛と労いの言葉をかける。
午後10時過ぎに陸織から連絡があり、嘘の神との面会の約束が得られたとのことだ。指定された場所は首都の魔法省地下。またも夜明けと共に出発することになった。
この旅に同行するのは壱帝と陸織。零審は仕事があるので同行できないとのことだが、殺されないためにリスクを回避したとみて間違いなかった。
今日もお盆中の大学生とは思えない時間帯に寝ることになった2人である。だが神威には早めに寝ることにとある思惑があった。
夢見心地のふかふかの敷布団の上で夢の中に突入する彼は夢の中で修業をするつもりである。その修行内容は北海道で習ったとある拳法の一つである。これを熊の精霊の友達の兜丸に教わった。
これを玲華に見せたくないのは恥ずかしいからである。この拳法は独特な構えと動きであるので彼女が見たら一週間は笑いものにされることは間違いない。そこで誰も見ていない夢の中で行うことにした。
ちなみにこの拳法の名は月華玲狼拳と呼ばれ、その大昔に狼の神と先代精霊王の龍の戦いを見た青年が作ったもので、狼の神の動きを人間に落とし込んだものだが、神威がその由縁を知る由もない。