表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

魔法使いと走馬灯


神威は目を覚ますとお気に入りの山にいることがすぐにわかった。なぜわかったかというと、精霊たちがいたからだ。ここの精霊は猫に近い容姿をしているのですぐにわかる。



とてもかわいい。右手で撫でてやる。

俺の右手の爪が少し長い。尖っている。それに光沢がある。

何かの魔術の影響か?後で玲華に聞いてみよう。

起き上がると日が出ているのがわかる。日陰で寝ていたようだ。玲華が連れてきてくれたのだろう。

と、いうことは玲華が勝ったのか。


玲華を探して辺りをうろつく。精霊たちもついてきた。

歩きながら自分の体をまさぐる。どうやら傷は治っている。魔術はすごいものだ。あんなに深い傷も治せるなんて。


 しかし何か違和感がすごい。いつもより視野が広く、視力が良い気がする。それに聴力も上がっている。周りの音の聞き分けが良くできる。葉っぱが落ちる音すら聞こえる。どうせ魔術の影響だろう。


 精霊のおかげですぐに玲華発見した。携帯の電波が届く場所にいたようだ。


 手を振る。蒼い目と合う。相変わらずの美人さんめ。

 その時、ふと昨日の男を思い出した。玲華に目の形が似ていたあの男。あいつは死んだのだろうか?もしかして兄弟だったりするのだろうか?


「2人とも生きててよかったな」

「そうね」

「俺が気絶?した後どうなったの」

「私があの男は殺したわ。…なんだけど問題が発生したの」


 深刻な顔をしてこちらを見る玲華。少し眉が上がっている。


「とりあえずこの鏡を見てほしいの」


 そう言ってポーチから取り出したのは手鏡。円形状で昔の携帯みたいにパカパカするやつだ。

 手に取り覗き見る。次の瞬間、言葉を失ってしまった。

 俺は絶句しながら立ち尽くすことしかできなかった。そんな俺を見て彼女が説明し始める。


「昨日の狼、あれは狼の神と呼ばれている精霊なのよ。それが暴走してあなたの体に乗り移って、そうなってしまったの。…頭の上の耳とか触ってみて」


 訳も分からずに頭の上の耳を触ってみる。そこに確かに狼の耳がある。人間の耳もついたままだった。

 言われるがままに牙も確認した。それはあまりにも鋭く、現実を感じさせた。


滑稽な夢に脳みそが追い付けない。神経に情報が伝達されるが、頭上のコンピューターでは計算することはできない。結論が出せない。

そんな問題に悩む俺に玲華がヒントをくれる。昨日の夜のことを事細かに説明し始める。三嶺家からの刺客を倒したが、狼の神が復活した。狼の神は依り代として俺を選んだ。そのせいで耳が4つになった。

状況の把握は何とかできた。問題点を洗い出すことはできたが、解決方法は見つからない。脳内ネットワークで検索するが応答はない。狼の神と小さい体の中で同居するなんて稀有な経験したことがないのでわからない。

同居するなら、まずは共通ルールを決めないとな。1つは女を連れ込まないこと。これだけは譲れない。

 この隣人トラブルは三嶺家まで彼の記憶をとって来ると解決するらしい。おつかいは得意なので任せてくれ。

 これがただのペットだったら可愛い話だが、神様は無理だ。図書館に神様との同居についての専門書はない。


「わたしの話理解できた?」

「理解できたよ。俺は三嶺家までおつかいに行けばいいのか。狼の神の記憶っていくらだろう。まだ売っているかな?」

「俺じゃなくて、俺たちよ。私もついて行ってあげる」

「これは俺の問題だからいいよ。もうさすがに1人でおつかいできるよ」

「満月までに私が記憶を取り戻せないと、私は死ぬのよ」


 神威は顔を真っ青にして玲華と目を合わせる。綺麗な蒼色はまっすぐな目で俺を見ている。奴隷契約を結んだ夜と同じ目だ。その眼には価値がつけられない。どんな宝石よりも輝いている。


「なぜそんなことをした」

「契約の条件が担保に私の命を出すこと。狼の神は私たちが命がけで苦しむのを見たくてこの条件を出したわ」


 玲華は神威の行動が不自然に感じられた。なぜ自分が10日後に死ぬかもしれない状況で冗談が言えるのに他人の命には敏感なのだ。魔法使いの彼女には理解できない感情である。


「契約はどうやっても解除できないのか?」

「契約を変更する方法なんてないわ。契約の魔法は双方の合意なしには解除できないの」

「そうか」


 神威の声は枯れた花のように艶がなくなっている。

 木を背もたれにして座る。狼の耳は横に倒れ、不安を表している。表情も常に曇っている。鏡を見たときからずっと。目にも潤いがなく、銀色の髪の光沢もくすんでしまっているように感じる。

 玲華は枯れた彼に水を上げようとする。だが彼にとっての水が見つからない。美味しい昼食でも取ろうか?それとも娯楽に身を任せる方がいいのか?

 枯れてしまった花を復活させるのは難しい。基本的に魔法を使わない限り、復活することはない。毎日のケアが大切なのだ。


 彼女は率直に事実を伝えるべきではなかったと後悔した。もっと時間をかけて行うべきだった。しかし彼らには時間が全くない。次の満月まで今日を合わせてあと9日。今日ももう日が頂上を回っている。


 それに彼女はここまで彼がショックを受けるとは思っていなかった。その理由は彼女の魔法使いに向いているとある性格が関係している。

 この性格を具体的な言葉で合わすことは難しい。強いて言えばその性格とは過去に対して拘らないことである。もっと正確に表すと起こってしまった出来事を簡単に受け止めて、未来のことを考えることである。

 人間のすべては過去にしかない。過去の後悔や失敗、成功が現在の生きる理由になっていることが多い。多くのものが後悔を繰り返すことでしか、進むことができない。

 魔法使いも後悔するが気持ちの切り替えが早い。早すぎる。後悔する過程をスキップすることができる。

その方法は刻一刻と変わる状況において感情的にならずに状況を打破する方法を実行するだけだ。たとえ目の前で親が死んでも、両手がなくなっても、あと10秒で閻魔大王と会うことになっても。

自分の目標のために貪欲に進むことしかできない生き物が魔法使いだ。とある昔の偉大な魔法使いがこんなことを呟いた。


「もし自分の行動を後悔すること、世間を憎むことが目標達成につながるなら喜んでするよ。…だが現実でそんなことは起きない。考え、行動するよ。…最後の一瞬まで私たちは脳を動かすよ。…ゆえに魔法使いは走馬灯をみない」


 この性格でない魔法使いはみな死んだ。故にこの性格が魔法使いに向いていると言われている。


 玲華は神威のことをその観点で高く評価していた。自分が奴隷になることもすぐに受け入れたし、訓練することも当然のように受け入れていた。そのため狼の神に乗っ取られた事実を伝えてもすぐに受け止めて、行動してくれると勘違いしていた。



 玲華たちに残された道は記憶を取り戻すために修羅の道だけ。さらにその道は綱渡りのように細い。道から外れた場所には底の見えない深淵が連なっている。さらにゴールは見えない。後ろからは死神が迫ってきている。確かに一歩ずつ、歩んでいる。死神が喉の奥から意地の悪い声を出しているため、近づいていることがわかる。振り返れば狼の神が追ってきている。暗闇の中でも彼の銀色の体毛は光輝いている。怖くなって前を見ると狼の耳が生えた少年が立ちはだかっている。その少年、神威も同じような意地汚い笑みを見せる。嫌悪感を抱く。

 そんな道を玲華が一人で進むことは不可能だ。


 魔法使いである彼女には走馬灯を見た彼の慰め方はわからない。


 どれくらいの時間が流れただろう。日は暗くなり始めている。2人とも動かず黙って夕焼けの空を見ていた。

 玲華は何もできなかった。だがしかし神威は自分の中で解決したようだ。

 神威が口を開く。その唇は潤っている。乾燥していない。


「玲華、俺まだ生きたいよ」

「私もよ」

「ありがとう。俺のためにここまで。まだお礼、言ってなかった」

「いいのよ。もう終わったことだから」

「俺はまだ、北海道にたくさんのものを残してきたんだ。友達、思い出、清算しないといけない過去。それが解決するまで、まだ俺は死ねないよ」

「私もまだまだ、この世界には未練があるわ。大切なものは少ないけど、絶対に手放したくないわ」

「そしたら、これから改めてよろしく。玲華」

「ええ、よろしく頼むわ」


 魔法使いの最大の敵は時間だ。誰も時間には逆らうことができない。数少ない共通の敵である。だが今回はそんな敵に救われた。


「そしたら夜ご飯にしましょう。私が買ってくるからここにいて。何がいい?」

「じゃあ、牛丼」

「牛丼ね。そしたら私がいない間は、いつもの訓練をしといて。今のあなたの体は人知を超えた力を手にしているから体ならしといて」


 神威は言葉の意味が理解できなかったが、彼女のことを信頼しているので気にせずいつもの訓練メニューを始める。まずは全力で100メートルほど走ってみる。


 彼が走り始めると精霊たちも付いて来た。そんな彼らを横目に足に力を入れる。

 猫型の精霊たちをおいて風のように走った。違いは歴然だった。前よりも3倍以上は早くなっている。さらに呼吸は全く乱れていない。

落ち着くために深呼吸する。神威の感覚が研ぎ澄まされていく。足の血液が流れているのがわかる。心臓の音も聞こえる。これは精霊が必死に俺を追う足音、これは風の音、これは他人の音?他人の音に耳を澄ませる。それが玲華の音だと気づくのに時間はかからなかった。

目を閉じて感覚を鋭く磨く。彼女の様子が瞼の裏のスクリーンに映し出される。歩いている。外套は着ていない。長い髪が揺れている。そこに心臓とは違う鼓動を感じた。

眉間にしわを寄せてそれに近づいていく。それは魔力だ。血液のように魔力が流れている。


 猫型の精霊がやっと彼に追いついた。俺らは決して遅くはない。ただ相手は100メートル走の世界記録を半分の記録で更新して、息が上がらない最強生物であることが悪い。


 精霊たちがへとへとになりながら落ち着いたとき、神威は走り出した。多くの精霊が疲れて寝転がってしまう。2匹だけが彼を追ってもう一度走り始めた。


 簡単に追いついた。高速で走り、感覚がそれに追いついている。まるで生まれたときから狼であったかのように感じられた。

 玲華の姿が見える。それと同時に俺と玲華の空間の間に透明のカーテンがかかっている。それは光を反射しているので何とか存在を検知できた。きっとこれは人除けの結界だろう。普通の人間だった時と同じ雰囲気が感じられた。

 魔力を感じられる人間だったのが、見えるようになってしまった。

 大声で彼女を呼ぶ。それがあまりにも大きい声だったので自分でもびっくりしてしまった。耳を抑えながら彼女が渋々やってきた。


「何よ」

「俺の体どうなっている?なんで速く走れる?なんで100メートル以上離れていた玲華の心臓の音が聞こえる?なんで結界が見えるようになってる?」

「だから全部狼の神に体を乗っ取られたせいよ。彼のおかげで体が強化されているの」

「そっか」


 さっきはこの男の魔法使いとしての性格を評価したが、ただ能天気なだけかもしれないと思われるくらい気の抜けた返事をした神威だった。

 彼女から訓練メニューについてアドバイスを受けていると猫型の精霊が2匹尻尾を立てながら走ってきた。足元で彼らが休み始める。1匹はしっぽが2本あり、もう1匹は口がない。荒い呼吸を繰り返していた。

 玲華と別れ、2匹の精霊を抱えながら、彼らの仲間が待つ場所へ帰る。


 とりあえずバク転してみる。力を目いっぱい入れて後ろに飛んでみる。

その結果、2メートルほど飛び上がり何度も回転して地面にぶつかった。あまりにも情けない声とともに落ちた。ここに玲華がいなくて良かった。


 うめき声をあげていると猫型の精霊が群がってきた。容赦なく顔の上にも乗って来る。彼らを抱えながら起き上がるとまたも異変に気付く。

 とっさにうめき声をあげてしまったが全く体が痛くなかった。怪我もない。地面に当たった感覚だけがあった。


 石を簡単に握りつぶすことができる握力、集中すれば100メートル先も簡単に感じられる動体視力と聴力。半径2センチメートルの枝も簡単に切ることのできる鋭い爪。最も異常だったのは体を動かすときに感覚。

 まるで自分を俯瞰しているかのような感覚。手元の人形を動かすように、イメージのまま動かすことができた。


 片手で逆立ちしていると玲華が帰ってきた。近くにいた猫型の精霊が四散した。その前から彼女が近づいている感覚があった。


 彼女の手の袋には量の牛丼チェーンの容器が積み重なっている。


「どうしたの?玲華はそんなに食べないよね。…もしかしてダイエットやめた?」

「ダイエットなんてしていません。これは神威が全部食べるのよ」

「なんで?俺こんなに食べれないよ」

「今のあんたの中には狼の神がいるの。彼のために大量の魔力が必要なの。つべこべ言わずに食べなさい」


 俺が高校生の野球チームが食べる量を1人で食べている間に彼女がこれからのことについて話してくれた。食欲はないが満腹の感覚はない。詰め込んだはずなのにおなかが膨らんでいないのが不気味だった。


「これから私たちは三嶺家の本家へ行くわ」

「ちゃんとアポは取った?」

「取ったわよ。昨日襲撃してきた弐統のスマートフォンを使って連絡したわ」

「それならいいな。それでお土産はどうする」

「私たちの存在がお土産よ。ほんとだったら…」


 玲華が何か言いかけるがそれ以上は出てこない。


「とにかく明日は朝早くから出発するわよ」

「オッケー」

「それと出発する前に何個か魔法を覚えてもらうわよ。認識阻害の魔法と身体強化の魔法よ」

「これ以上身体を強化するのか?」

「するわよ。理由は神威が実験材料として狙われるからよ」

「実験材料?」

「神を体の中に宿っている生きた人間なんてすべての魔法使いが喉から手が出るくらいにほしい実験材料なの。そしてもう一つ覚えておいてほしいのは魔法使いが喉から手を出せることよ」

「じゃあ、出してみてよ」

「…」

「ごめん。わかってるよ」

「…おそらくまだ情報が出回ってないから襲撃されることはないけど、されるとしたら1級以上の魔法使いが来るだろうから。もし1級の魔法使いと会ったとしたら全力で逃げて」

「どうやって相手が1級魔法使い?だと判断する?」

「神威の実力なら2級まで余裕で勝てるだろうから。実力以上の相手は何があっても戦わないで」

「わかったよ」

「そもそも基本的に戦闘は禁止。絶対に私から離れないで」

「了解」

「明日のことは朝の移動中の新幹線の中で話すわ。それより早く食べて。魔法の練習するよ」


 せかされるまま認識阻害の魔法と身体強化の魔法を習得する。魔法なんて使ったことなかったけど、すぐに習得できた。

 理由はもちろん狼の神。相変わらずチートな存在だ。


認識阻害の魔法は使うと一般人から認識されなくなるらしい。


 今日は川で水浴びした後、就寝することにした。彼女は銭湯に向かった。俺はできる限りこの山の結界から出てほしくないらしい。

 この山の精霊と仲良くなっていたので、山の自然が味方して強力な結界が展開できているらしい。ありがたいことだ。猫型の精霊を目いっぱい撫でてやった。

 もしものことがあったらこの山に戻って来るように忠告された。


 彼女が銭湯から帰って来るのを待たずに瞼が重くなる。草の上で横になる。風が肌寒いので毛布を着込む。毛布に入り込んでくる猫型の精霊がくすぐったいがすぐに夢に落ちることができた。


==========================================================================================


 風でなびく髪を抑えながら町を周回する。念のために魔法使いを探したがいないようだ。

弐統は本当に1人で来たようだ。狼の神を持って単身で乗り込む。どう考えても理解できない。弐統であれば実行するが、周りが止めるはずだ。壱帝が許可するとは思えない。

 そもそも狼の神の使用は原則禁止のはずだ。少なくとも私が家を出たときは掟で禁じられていた。謎だらけだ。


 私の魔術師協会の階級は三段。どう考えても弐統が勝てる見込みはない。それでも許可した三嶺家はどうなっている?


 バックの中からロケットペンダントを取り出す。蓋を合言葉で開ける。中には幼少期の写真。特に中の良かった壱帝と陸織と私の集合写真。ロケットペンダントの蓋の内側には双子水晶が取り付けられている。


 双子水晶とは九州の洞くつで入手できる水晶の一つである。もとは平凡な物体であるが、魔法を使って加工すると特殊な水晶となる。この水晶の最大の特徴は片方が壊れると、もう片方も同時に壊れる特性があること。この性質は昔から合図や生存の確認方法として用いられてきた。


 私のロケットペンダントの双子水晶のもう一つは陸織が持っている。まだ水晶は壊れていないので、陸織が生存している可能性は高い。

 陸織は兄弟がいない私にとって妹のような存在だ。現当主の6番目の子。きっと壱帝が守ってくれているが、それでも心配だ。

今の三嶺家はきっと異常事態にある。ここ数か月の普段の襲撃回数の急激な増加、ところが神威と出会ってからの1か月は何もなかった。そこから弐統の狼の神を用いた襲撃。さらに弐統は単独。


 今は近づくべきでないが、狼の神の記憶はそこにしかない。


 山に帰ってくると神威がきれいな寝息を立てている。風と猫型の精霊とそれが不規則なハーモニーを生み出している。

 もしかしたら夢の中で狼の神と会うかもしれないことを神威に忠告するのを忘れてしまった。銭湯でゆっくりしすぎた。

 起こそうと揺らして名前を呼びかけるが、応答はない。猫型の精霊が起きて、草むらへ一目散に駆ける。気づいたときにはもう遅かった。

 きっと彼は神の領域に連れていかれた。


==========================================================================================


 神威は夢を見に来た。今回の夢の舞台は北海道だ。故郷の夢を見るには久しぶりだった。

 青い草があたり一面に広がっている。季節はちょうど現実世界の時系列と同じ8月上旬。気温は冬に向かって下がり始める時期だ。長袖でないと寒気がする気温が続く季節になっている。暑いのは7月で終わり、雪を迎える準備を大地が始めるころである。馬や精霊が平原を走っている。澄んだ水が流れ、人工物が全くない世界。

 頭を確認すると狼の耳がない。水辺で自分の姿を確認するとそこには人間だったころの俺がいた。深呼吸しても感覚が研ぎ澄まされなかった。ただし、尖った感覚でなくても美しいと感じることができるくらいにこの北海道は素晴らしい。

 あたりを回っていると神威はこの北海道に違和感を持つ。その理由は2つある。1つは道路も何もないことからだ。彼の記憶の中に道路がない場所は以外にも少なかった。広大な大地に道路と車は欠かせない。

 もう一つは精霊があまりにも多いことだ。


「ここは俺が知っている北海道ではない。きっと昔の北海道だ」

「その通りだ。ようこそ神の領域へ」


 振り返るとそこには狼の神が鎮座している。その姿には見覚えがあった。確か走馬灯を見た後に俺の目の前にいた死神だ。彼の銀色の体毛は相変わらず美しい。眼光が鋭い目も長く立った耳も、すべてを含めて一つの芸術作品であった。一目見れば忘れることはできない。


「ここはあんたの記憶の中なのか?」

「左様。どうだ、昔の北海道は?」

「素晴らしい場所だ。特に精霊たちが日の当たる場所でのびのびと暮らしているのがいい」


 周りを見渡すと、様々な容姿の精霊が精一杯生きている。足が8本ある馬や5メートル以上の鹿、悠々と飛ぶ龍。人型の小さい幼い精霊と犬が遊んでいる。俺のすんでいた北海道では考えられない光景だった。


 だが見とれている暇はなかった。今日は目の前の神と会いに来たのだ。


「俺は闇の中をかき分けてここまで来た」

「わざわざご苦労」

「ここにはお前にお願いがあって来た」

「礼儀を知らない小僧であるが、同じ体に住む同居人の好みで聞いてやろう」

「玲華との契約を破棄してはくれないか?」

「それはお前のご主人様に直訴しろ。契約の破棄には関わった契約者の同意なしでは破棄できない。我はしてもよいが、三嶺の魔法使いは首を振らないだろう」

「違う、この契約は明らかに不平等なものだ。狼の神から強制的に破棄しろ」


 狼の神は神威の言葉を聞いて高らかに笑った。それはこの領域全体に響き渡った。


「神に対して不平等とは、笑わせてくれる。弱者が不平等を強いられるのはこの世の常だ」

「神は強くて弱者に対して優しくできる人物のことだ。お前みたいな性根が腐った強者のことじゃない」

「そのように弱弱しく喚け。嘆いても何も変わらんがな」


 神威は精一杯の感情で睨むが、狼の神は牙を見せたまま笑みを見せてくる。それが不気味で仕方なかった。

 彼は踵を返す。交渉は決裂した。そもそも交渉にすらなっていない。


「待て、まさか貴様先ほどのことを申すためだけにこの神の領域まで乗り込んできたのか?」


 神威は適当に小声で肯定の返事をする。それを狼の神はその大きな耳でよく聞いていた。

 狼の神は波のように押し寄せる好奇心を抑えきれずに笑ってしまった。

 神威は狼の神に呼ばれてここにいるわけではない。彼は文字通り、闇の中をかき分けてわざわざここまで来たのだ。その理由が文句を言うだけとは狼の神は思っていなかった。

 神威はここまで来るのに狼の神の気配を感じて、恐怖を感じたに違いない。そこまでして神の領域に侵入する理由がたったそれだけとは思うまい。


 狼の神は神威のことはよくここまで来たとほめるつもりですらあった。そのあと必死な命乞いを笑い声でかき消すつもりであった。

 しかし交渉するつもりで来た。しかも実質的には文句を言っただけである。


 予想以上に愚かで勇気のある人間が来たと考えた狼の神である。きっと彼はたくさん狼の神を喜ばせてくれるであろう。その未来を思うと喜びが顔に出るのも仕方なかった。


 彼の笑い声を背に、神威は現実へ帰る。


二日目終了



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ