狼と満月契約
バイトを終え大上神威は帰路に就く。俺は寄り道してある場所へと向かう。そこはとある山の中腹にあり、星が良く見える場所だ。そこは彼のお気に入りの場所だった。理由は故郷の北海道にいたときを思い出すからだ。
ここは人気がない。車では頂上まで来られないし、コンビニも自販機もない。さらに精霊たちもたくさん住み着いている。だから好きだった。
群馬の大学に通う俺にとっては数少ない故郷を感じられる場所だ。
ただ走り屋たちが陣取る道を通り抜けなくてはいけないのがストレスだ。
パーカーを車に置いてきたことを後悔した。なぜか今日の山は寒い。
昔から俺だけは精霊が見えていた。幼少期を精霊たちと過ごした。精霊たちのほとんどが言語によるコミュニケーションができなかったが中にはおしゃべりな精霊もいた。彼らと祖父。それが幼少期の俺の世界の登場人物だ。
目的地の中腹の開けた場所に着いたとき、俺は異変に気付いた。いつもの山の精霊がいない。名も無きか弱い精霊たちがいなかった。ここに生息している精霊は猫に近い姿形をしている。ただしっぽが一本多かったり、耳が多かったり、目がなかったりする。
「みんな~、ごはん持ってきたよ」
彼らを探して山を登る。精霊だからご飯はいらないけど大好物みたいなのでよくあげちゃう。
山を登っていると7月の蒸し暑い夜にもかかわらず寒気を感じる。さっきからそうだ。なぜかはわからなかった。
生い茂る木々の間を抜けるとそこで彼は見た。巨大な透き通った透明な氷の花を咲いているのを。その花の中心には生き物がいて、もうすでに死んでいることが容易に想像できた。花は1つでなく、少なくとも10以上の花が咲いている。
驚いたのは中の生き物が狼人間であったことだ。手足の構造は人間そっくりだが、全身は黒い毛で覆われており、牙や爪が確認できた。何より頭部が狼の形をしていた。全裸で白目をむいている。
さらに少し先で眩い閃光が確認できた。俺は月と勘違いして蛍光灯に近寄る羽虫のように近づいた。そこには季節違いの青い外套の魔法使いと狼人間の化け物が戦っていた。
魔法使いは自分の伸長よりも長い杖を使って次々と光を出していた。4足歩行の狼人間は光を躱すが魔法使いの狙いはそれではなかった。次の瞬間頭上から水の塊が降り注いで瞬時に凍った。狼人間は誘い込まれていたのだった。
その様をまじまじと見ていた俺は後ろの氷の花が溶け、出てきた狼人間に気づかず襲われた。必死に抵抗するが力の差は歴然だった。組み伏せられ喉元に牙がかかる。
「誰か!助けて!」
精一杯の声は精霊たちに届いた。小さな精霊たちが草むらから飛び出て来る。精霊が狼人間にまとわりついて離れない。鬱陶しいみたいだ。狼人間が精霊を剥がそうと仰け反った時だった。
またあの閃光が飛んできた。俺の鼻の先を掠めたそれは鷹の形をしていた。遠くからでは確認できない新発見だ。狼人間は吹き飛ばされて、またあの水の塊が落ちてきた。それは綺麗な花となった。
「その花の名前わかる?」
助けてくれた精霊たちに寄り添いながら振り返った。そこには閃光の魔法使い、いや氷の女王が佇んでいる。
「わからない。」
「残念、花は好きじゃないのね」
あきれた様子でこちらを見てくる彼女。フードを外し、その顔を見せた。黒髪に長いまつげの肌が白い美人さんだ。目が細いのが威厳を持たせている。髪をかき上げ羽織っている外套から自由にさせる。月の明かりに照らされて美しかった。黒髪は腰まで伸びている。足が長い。身長は160センチメートル?ヒールじゃなくてスニーカーだから盛ってはない。今までの21年間の記憶の中で一番美しい女性であることは間違いない。そして最も恐ろしい女性であることも間違いない。
しかし7月中の外套は不自然だった。
「じゃあ魔法使いは見たことある?」
「……ない。でも存在は知っている。精霊から聞いた」
「そう。精霊に好かれているのね。なら魔法使いの決まり事は知っているかしら?具体的には秘密主義というわ」
「……知らない」
「なら教えてあげる」
精霊たちはおびえている様子だった。あんなに勇敢に助けてくれたのに今は俺の後ろで小さくなっている。彼らは基本的に憶病だった。尻もちをついた状態で精霊と抱き合いながら話を待った。氷のガーベラの影響かあたり一面寒かった。
こんな美人と会うならもっとおしゃれしてくるべきだった。年季の入ったジーンズにオープンカラーの紺のシャツ。バイト先の女子高生からダサい、見飽きたと好評のいつものセットだ。
「魔法使いの大原則の一つは一般人に見られてはならないことよ。見られた場合の対処法は記憶を消すか……殺すしかない」
「なら記憶を消してもらいたい。殺されるのはごめんだ」
「残念。それは無理な話ね」
近づいてきた魔法使いの杖が喉元に当たる。杖は木製で無骨な形をしていた。先端には光り輝く宝石と花が咲いている。花は氷の花と酷似している。この花がガーベラなのだろう。
「ここには人除けの結界がはってある。あなたはそれを無視できるほどの魔力を持っている。さらには精霊に好かれるほどの清廉さと質のいい魔力をお持ちみたいね。記憶を封印してもすぐに勝手に解除されるでしょうね」
「そうかい」
「でも一つだけ生き残る方法がある。それは私の奴隷となること。契約をもって私に誓うのよ。一つ、あなたの奴隷になります。一つ、魔法使いのことは他言無用とする。一つ、どれか一つでもこの契約を破った場合には私は自殺します。この3つを誓ってくれたら殺さないであげるわ」
「いきなり関係ない魔法使いの戦いに巻き込まれた挙句、奴隷にされる要求なんて飲み込めるわけないでしょ」
「残念、じゃあ死んでね」
「待て、待て、待て!」
後ずさりしながら、必死に身振り手振りで抵抗する。しかし奮闘も空しく、再び尻餅をつき、追い詰められた。
「それで奴隷になるの?ならないの?」
先ほどよりも声に覇気がある。おそらくこれが最後のチャンスだろう。おしゃべりな精霊から聞いた魔法使いの噂を思い出す。権力のためなら殺しもいとわない、精霊を食い物にする殺戮者、人間として最も進んだ殺人者。さすがにこの話は尾ひれがついていると思うけど、平気で彼らは命を踏みにじるのは本当だ。
俺に選択肢はなかった。
「……わかった。俺を奴隷にしてくれ」
少しの沈黙の後、彼女が口を開く。その顔は苦しそうだった。
「残念、死んだ方がましだったのにね」
そう言い残すと儀式の準備が始まった。彼女の足元から氷の結晶のような魔法陣が広がる。それは半径5メートルほど。左右対称でとても綺麗だ。彼の近くにいた精霊は逃げ出し、安全地帯で身を寄せ合いながら彼の身を案じていた。
「私を見て。そして契約中は目を逸らさないで頂戴。いいわね?」
彼女の蒼い目を見る。それはいつも見ている夜の空に似ていた。彼が立ち上がり深呼吸する。以外にもあっさりと儀式は始まった。
「あなたは私の言葉に対してはっきりと返事するだけでいいから。わかった?」
「わかった」
一度だけうなずく。覚悟なんて決まっていない。でも心は不思議と落ち着いていた。なぜだろう。わからないまま、唾を飲み込む。
「あなた、名前は?」
「大上神威」
「そう」
「私は三嶺玲華。あなたは私にして隷属し、私の意志に反しないことを誓いますか?」
魔法陣の光が強まる。そして玲華に目であとに続く言葉を急かされる。
「誓う」
「あなたは魔法の神秘と秘匿性を理解し、それを守ることを誓いますか?」
「誓う」
「ならば私もあなたに非魔法使いであるあなたへの罰を飲み込み、安全を誓う」
魔法陣が消えた。身体的な変化はない。けど体の中心に鎖がまかれている感覚があった。
「それじゃあよろしくね。私の奴隷君」
俺の奴隷生活は氷のガーベラ型の墓場の隣で始まった。
彼女は美人だがそれでも奴隷生活は苦しいものであった。
バイトはやめさせられ、俺の一人暮らしの家には居候すると言い出した。美人との共同生活は心躍ったがそれは初日だけだった。
飯がまずいわ、掃除がなってないだ、部屋が狭い、何も面白いことはないなどのお褒めの言葉をたくさんいただいた。
掃除洗濯料理当番は俺がやらされた。ベッドはご主人様に占領されロフトで寝ることになった。
まったく美人じゃなきゃストレスが爆発してたよ。美人さんだからいいけど。
ちなみにお金はなぜか魔法使いの玲華がたくさん持っていた。どこで稼いだのかは聞けなかった。
俺は精霊に好かれているので仕事も任された。
仕事内容は魔法の薬品の収集。精霊は物知りで彼らに聞けばお目当ての素材の場所がわかるらしい。薬品のほとんどは花や木の樹液だ
車で彼女と一緒に目的地に向かう。夜に空の星を見に行く山にもいくつか素材があった。
彼女は精霊が見えるが、好かれてはいない。日本語が話せる精霊に聞いたところ精霊の血の匂いがきついとのこと。
彼女からはとてもいい匂いがするのに。多分花の香だろう。
これは確か素材集めのために遠出したときの話だ。
軽自動車に乗ってドライブ。大学生が自動車を持つのは生意気だと思う人がいるかもしれない。でも俺の住んでいる群馬では必需品だ。意外と大学生でもバイトを頑張れば中古で買えちゃう。駐車場は2万円台の家賃を払えば無料でついてくる。車検と高いガソリン代はバイトを頑張る。
実はこの車に乗った友達は彼女が2人目だ。さみしいな。
そんなご主人様からのおつかいで特に印象的だった場所がある。そこには丸いボールのような精霊がたくさんいた。そこで出会った精霊が頭から離れない。
彼は日本語がしゃべることができる精霊だ。半径1メートルほどの丸いフォルムで目が大きい老人のような精霊。手足はなく、目は閉じていて、耳に当たる部分はわからなかったが聴力はいいみたい。白髪の髪の毛をふさふさ揺らし、バスケットボールのように跳ねながら移動している。老人精霊は名を名乗ってはくれなかったが、話は聞いてくれた。
『百合樺は西の川沿いに。灰色のナウランもそこにあるだろう』
「ありがとうございます。探しに行ってきます」
『ちょいと待っておくれ。おぬしはなぜあのような魔法使いの女につきしたがっているのじゃ』
「それはちょっと言いにくいというか、なんというか。……一応、彼女と奴隷契約結んでいます」
老人のような精霊はその目を開いた。俺を見るなり、目を細くして哀れみの表情を向けてきた。その目は琥珀色で綺麗だった。その後何度か彼のもとを訪れたが琥珀色の目を見たのはそれが最初で最後だった。
なぜかこの記憶とあの目が瞼の裏に焼き付いている。
玲華は花が好きで目を離したすきにベランダは花畑になった。花の世話だけは玲華が務めた。
最近は狼男が襲撃してきたときのための訓練が始まった。基本的には逃げる訓練だ。玲華が手縫いして作ってくれた外套を着て走り回る。魔力を流すと内側に縫われた魔法陣が起動して身体能力が向上する。バク転くらいなら余裕だ。
それと一応サバイバルナイフも用意した。これは琥珀色の目の老人精霊お手製だ。相談したら作ってくれた。手がないのにどうやって作ったのか?企業秘密らしい。
お礼に絵本を5冊ほど渡した。これはリクエストされたものだ。読む方法はわからないが喜んでいた。
玲華お嬢様は味の薄い料理が好みで和食ばかりリクエストしてきた。一人暮らしの男子がそんなの作れるわけないと意見したが女王様に却下された。
どうやら奴隷契約により俺は玲華に逆らえないことがわかった。彼女からの命令を拒否すると喉が熱くなりさらに拒み続けると体の節々が痛くなる。それ以上は拒否したことがないのでわからない。
そんな生活が一ヶ月続いた。生活にも慣れむしろ心地よくなっていた。花と美人に囲まれる生活も悪くはない。不満は玲華のひもになっていることやロフトで寝るのは窮屈であることくらいだ。
大学は本格的に夏休みに入ったのを皮切りに、素材集めも忙しくなった。
玲華が作る謎の薬品のせいでダメになった鍋の買い替えについて話しながら、車を運転している。今日はラー油みたいな赤い樹液を拾ってきた。一定量の魔力を西義の若木に流したときのみ出てくる。その液体のおかげで俺の鍋は一つ溶けちまったよ。
助手席では玲華が本を読んでいる。
日付は8月12日。大学の1人だけいる友達は帰省した。帰るところがない俺と玲華には無縁の話だった。俺は北海道には帰りたくない理由がある。それに祖父が死んだから、帰るべき家はない。
綺麗な三日月が見える。山奥だからか他の車はいなかった。深夜に走るのは気持ちがいい。
心地いい気分に水を差すように視界の縁に光を反射する何かが映った。
「ねえ。聞いてる?だからもっと大きい鍋がおける場所に引っ越したほうがいいと思うの。いい加減あの家にも飽きたしね」
「なあ。あの銀色の反射するものはなんだ?」
「どうせガラスかなんかでしょ。それより話聞いてた?」
真っ直ぐな一本道を気にかけながらそれを見る。なぜかそれから目が離せなかった。
「なんであれあんなに月の光を反射しているんだ?」
最近では不思議なことは玲華に逐一聞くのが癖になっていた。玲華はなんでも知っていた。あの都市部にいる精霊のことや俺にしか感じ取れない風、川の主のことや電気や電波が苦手な精霊のこと。時々人に化けている彼らのことも聞いた。
その時、何を聞いても動じなかった彼女がそれを見て目を見開いた。
「ありえない。なんであれがここに?……そう。何も考えずに本気を出してきたのね」
「ん?なんだ?」
「前だけ見なさい。全速力で走りなさい」
「結局あれは何なの?教えてよ」
「あれは狼人間たちの親玉よ」
目を合わせ無言でアクセルを踏み込む。彼女は後部座席から外套を取り出す。青い外套に黒いスカートはなかなかに似合っていた。
あわただしく準備する玲華につられて俺もそわそわしてきた。
「俺は何をすれはいい?」
「神威は何もしないでいい。生きることだけを考えなさい。逃げる練習は毎日訓練したでしょ。もし生き残れたら、お気に入りのあの山で会いましょう」
銀色の何かがこちらに飛び込んでくる。中古車の軽よりも大きいなにかと衝突した俺たちはガードレールを突き破り斜面を転がり落ちていった。
窓が割れ、心臓が浮く感覚があった。勘弁してくれ、ジェットコースターは苦手なんだ。
車の中にやわらかい水が充満する。それは液体なのに固体のような感触があった。
それがクッションとなって安全に転がり落ちた。ただし車は除く。
大きな音とともに地面に落ち、水をかき分けてドアを開けて外に出る。運転席側が上になるように着地していた。
車の屋根を水で突き破って玲華が外に出てくる。俺の車が。ちなみに「オクト」と名付けて可愛がっていた。10月に買ったから「オクト」だ。
「早く!走って!」
バッグを投げ渡され促されるままに走り出す。木々が生い茂り自然であふれている森を走り抜ける。市街地からは遠い。
走り出してすぐに後ろで大きな音がした。振り向くと先ほどの狼だった。足元ではべちゃんこになった愛車が。魔法の水のせいか泣いているように感じる。
その狼は軽自動車より少し大きい。白目で、痩せこけている。毛の色は銀に近い。でも全体的に光沢がない印象で、爪や牙もかけている。錆びていると思った。
「何してるの!早く外套を着なさい!訓練した通りに!」
バッグから黒い外套を取り出して急いで着る。走りながら、痛み止めと各種ドーピング剤らしいものを飲む。外套のおかげで走る速度が速くなった。
意外なことにも狼にはすぐに追いつかれなかった。車よりも早かった狼に追いつかれないその理由はすぐにわかった。
狼人間の群れに遭遇して立ち止まる。皆2足歩行をしているが服を着ておらず黒い体毛が全身を覆い、長い牙と鋭利な爪が光っている。不気味なのは全員白目をむいていることだ。
真ん中には青のスーツが似合う長身の男が。30センチほどの杖を持っていることから魔法使いだと感じ取れた。
玲華の後ろに隠れる。サバイバルナイフを構える。刃渡りは15センチほど。全体の色は黒。スサノオの樹で作った特注品だ。
「人払いの結界なら張っておいたぜ。玲華」
「どうも」
「最後通告だ。三嶺の軍門に下れ。今なら服従の契約だけで済ませてやるよ。土下座して俺の靴にキスしろ」
「いやよ。あなた臭いじゃない。ここまで匂うわよ。兄離れのできないガキの匂いがね。弐統、今日はお兄さんがいないみたいだけど大丈夫かしら?いつもみたいにお兄さんに泣きつけないわよ」
どうやら弐統のツボをついたらしい。眉が吊り上がる。
三嶺の家は美男美女の家系らしい。男の目は細く肌は白い。鼻は高くまつ毛は長い。髪は黒色であごも細く性格が悪そうな顔に性格が悪そうな心が詰まっていた。山の中でスーツはミスマッチだが革靴には土がついていない。どうせ魔法で何とかしているのだろう。
俺の着ている外套も魔法がかかっており、蒸し熱い夏の夜でも涼しい。
「…3日前、お父様がしびれを切らして俺たち兄弟にお前の抹殺を命じた。報酬は次期当主の座。みんな血眼になって探し始めたよ」
「そう。別に雑魚がいくらかかってきてもかまわないわよ」
「そうかい。でかい口で見栄を張るのが相変わらず得意みたいだな。さっさと始めよう。ハイエナが来るとも限らんからな」
「そうね。私も久しぶりにあなたの花火が見たいわ。あなたの魔法弱いけど本物の花火に匹敵するくらいきれいだもの」
「特別に特等席で見せてやるよ」
どうやら男の眼中に俺はいないらしい。ありがたい。
玲華は前に出てあの銀色の狼と対峙する。顔だけ振り向き目くばせしてきた。その顔は申し訳なさそうだった。
彼女を元気づけさせたくて精一杯の笑顔を見せ走り始める。彼女は強い。大丈夫。それよりも自分のことだ。迫ってきている狼人間をどう振り切ろう。
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生い茂る木々。幹はそれほど太くはない。それでもたくましく青い葉が育っていた。その間を式神の氷の馬と駆ける。
魔法使いの戦いで重要なのは情報。相手の得意な術式の長所と弱点を理解して対策すること。そして経験。当たり前だけどこの2つが最重要だ。
相手の術式は三嶺の十八番の光魔法の派生。彼の魔法は光と宝石を組み合わせたもの。相手の魔法は知っているが、それは向こうも同じだろう。
しかし経験の観点でいえば私、三嶺玲華が圧倒的に有利だった。こっちは親が死んでからずっと死地に送り出されて、さらに4年前からずっと命を狙われ続けているのだ。実力も精神もガキの弐統には負けるわけがなかった。
しかし戦場にはある1つのイレギュラーがいた。それがあの銀色の狼。200年ほど前に当時の三嶺の当主によって封印された北海道の精霊王。
銀色の風、北の宝石、狼の神。様々な異名で呼ばれた狼。北海道の精霊戦争を終結させ頂点に立った最強の神。精霊王とも呼ばれていた。
何かを成し遂げ歴史を変えた精霊や生命体は畏怖と尊敬の意を込めて神と認められる。その中の1体だった。
そんな彼は同じく神と呼ばれ、眩い光の宝石を宿した男によって封印された。その魂は囚われの身となった。
そして現在、狼の神は記憶と力を奪われ、強制的に式神として使役されている。自我も封印され主人の意のままにしか動くことのできない哀れな傀儡に成り下がっている。白目をむいてかわいそうに。
あの生物は強すぎる。本当に来たのが弐統でよかった。あれは主人の命令でしか動くことができない式神だ。つまり雑魚が使えば狼の神も弱くなる。
氷の馬に乗り、下がりながら狼人間を一つずつガーベラの花に変える。狼は氷の鷹と熊、犬に相手させながら走り回る。
狼の神は倒す必要がない。主人を倒せばいい。
弐統は冷や汗をかいている。自分を守っている狼人間がどんどん数を減らしている。彼の使う魔法は光と宝石を組み合わせた花火。通称華美。花火では格好がつかないので当て字である。火薬を使わずに宝石の粉やかけらを使う。
華美は攻撃力が高いが防御力はなかった。
しかし弐統は自分の勝利を疑うことはない。最強の盾となってくれる狼の神がいる。攻撃力だけで言えば玲華や兄に並ぶ彼の魔法。この2つがあれば勝てる、と考えている。
狼人間の数が4分の1になった。臆病な弐統は狼の神を自分の防衛に専念させた。
氷の花の中の狼人間を見て哀れに思う。ただの人間に狼の神の魔力と血を注入してできる生物。人間に戻ることはできず短命。見ることができる魔術師の業である。
遠距離から花火を打たれ続ける。氷の壁を張ってもすぐに熱魔法の呪符で溶かされる。弐統の魔力は手持ちの宝石を使って回復。そして宝石の粉を使った花火はさすがに強かった。
「絶対破壊の烈火華美!」
ルビーの宝石を使った花火が飛んでくる。それを丁寧に氷の球で撃ち落とす。
「称賛する我が雹弾」
空で爆発するそれは本物の花火のようにきれいだった。やはり弐統は花火師に向いていると玲華は思った。
しかしこの状況は分が悪い。近づけば狼の神がいる。しかし遠ざかると猛烈な花火が降り注ぐ。それに私には時間がない。
(神威は大丈夫かしら?必要最低限の装備は持たせたけど狼人間には勝てない。早くこいつをやらないと神威が危ない!)
玲華が弐統から遠ざかっていく。もちろん弐統は追う。玲華の位置は狼人間を使って把握していた。
この時の弐統は自信に満ち溢れていた。
(俺があの三嶺玲華を追い詰めている。この方法を使えば自分は三嶺家の当主になれる。兄、壱帝も超えることができる。俺に足りなかったのは才能でも努力でもなく道具、強い式神だった!)
ここで一つ説明しておこう。弐統の魔法は多くの熱を出すのでとても暑い。スーツの素材や魔法によってその負担は感じていないが多くの熱をまとっている。そして彼はまっすぐ玲華を追った。
彼の熱によって地面に隠された氷が解け、簡単な落とし穴のトラップが起動した。
「な、なに!」
彼は魔法の赤いロープを杖の先から伸ばし、地面に戻る。しかし近くにいた狼の神は穴の底の水溜まりに落ち、水溜まりは瞬時に凍った。
弐統は穴の底に落ちた狼の神を確認する。大丈夫。あいつなら30秒もあればあそこから抜け出せる。
そう30秒の間、彼は無防備である。
物陰から玲華が飛び出してくる。
(くそ!じゃあ馬に乗っている玲華は偽物か!)
自爆覚悟で華美魔法を放つ。耐熱性に優れたユーリンの木の杖から眩い閃光が流れる。杖を持っていた手はやけどし。スーツは焦げる。そして偽物の氷人形の玲華が昇華した。
認識阻害の外套をまとった本物の玲華が飛び出してくる。
精根尽きた弐統の右手に液体窒素並みの冷気を浴びせる。玲華のローキックで杖ごと右手を粉々に砕く。うめき声をあげながら膝から崩れ落ちる弐統。
次は頭を凍らせて砕く。狼の神が来る前に殺す。ここまではすべて玲華の思い通りだった。
三嶺弐統。日本の魔法流派の中でも特に力を持つ御三家の1つの三嶺家の当主の次男として生まれる。兄は天才と呼ばれ、分家からはさらなる天才少女の玲華が出てきたため、それと比べられ劣等感を抱きながら成長した。
他の人間が天才を追うのをあきらめる中、彼だけがあきらめきれなかった。
当主から子供たちにに出された三嶺玲華討伐命令も弐統とその兄で長男の三嶺壱帝しか追っておらず、他の兄弟や臣下、分家は壱帝に協力することにしていた。壱帝が次期当主になることは明白であり、少しでも近づこうと各自が画策していた。
そんな中、弐統は単独で勝負を挑んだ。彼は決して弱くはない。魔術師協会の階級は一級魔術師、誰もが認める魔術師だ。しかし相手が悪かった。壱帝や玲華はその上の段位である。
そんな彼が玲華に匹敵する長所は2つあった。一つは中~遠距離での攻撃力。ただし大量の宝石が必要である。そしてもう1つは精神力である。
少し時を戻そう。弐統は自爆覚悟の攻撃が氷のおとりに当たったことを確認していた。まだ腕が凍る前である。目に防護魔法をかけていたがあまりの眩い閃光でつぶれかけている。狼の神が来るまでの30秒間に殺されることを確信していた。
人は死ぬ間際に走馬灯を見るらしい。では弐統は死ぬ間際につぶれかけた目で走馬灯を見たか?否、彼はまだあきらめてはいなかった。走馬灯は見なかった。死ぬ間際のゆっくりとした時のなかで、常人であれば走馬灯を見ている時間で彼は勝つことを考えた。
(俺は負ける、かもしれない。しかし疑問がある。なぜまだ死んでいない。さっさと凍らせればいいのに。俺なんかの何を恐れている?……そうか奴はこの狼の神の契約書を怖がっているのか。)
狼の神はある一つの契約書によって縛られている。その契約書は三嶺の血が濃い人間のみが使え、持つだけで狼の神を服従させることができた。それがもし破壊されれば狼の神の魂は解放され自由の身となるだろう。
(そうなれば玲華も俺も確実に死ぬだろう。ならば……)
最後まであきらめなかった彼だけが最後のあがきを思いついた。
(どうせ死ぬ身だ。あとのことなどどうでも良い。)
腕を砕かれ膝をついたとき胸から狼の神の契約書と赤色の宝石をまとめて取り出した。
「ああああぁぁぁぁああ!!」
怒号とともに左手で爆発を起こし狼の神の契約書を破壊する。魔法で守られていた契約書であったが、彼の最後の一撃を受け止めることはできなかった。
玲華は止めるために冷気を流し込んだが間に合わなかった。
赤い閃光とともに自爆した。
式神の鷹と犬と熊が壁となって彼女を守った。玲華は後方に吹き飛ばされ爆発の煙が辺りを包む。
玲華は煙の中で立ち上がり、あたりを見渡す。式神は消滅してしまったらしい。一定時間しないと戻ってこない。
煙で視界が悪い。
そんな中、足元に何かがあった。
嫌な予感がした。冷気には強いほうだが寒気がした。それを知りたくはなかった。しかし知らなくてはならない。
予想通りのものではないことを信じる。それを拾った。
その紙の左端には狼という文字が描かれていることがわかる。予想は当たってしまった。契約書は破壊された。
後ろの落とし穴から狼の神が飛び出てきた。先ほどとは様子が全く違っていた。普通自動車ほどの大きさだった狼の神は体高が3メートル以上となった。牙と爪はより鋭利で大きく。白目だった目には黒い瞳が宿り自我が復活したことを表していた。痩せていた体には筋肉が戻っており、その分厚さに圧倒される。何より一番の変化はその体毛である。艶が戻り、金属のような光沢があった。月の光に照らされて眩く光輝いていた。それは見るものを圧倒する。神と認められた所以がわかる神々しさだった。
狼の神は産声代わりに遠吠えを上げる。四肢を地面につけたまま、仰け反り上空の月に向かって吠える。
素晴らしい遠吠えは森中に響き渡る。もしかしたら近くの市街地にも聞こえているかもしれない。それは耳を通り心臓に響いた。脳みそが触れる感覚がする。神が帰ってきたことを人間界に示している。
『ああ、久しぶりに目覚めたが空気がわるい。辺りにも何もない。全く、神が凱旋したというのに。これだから人間どもは』
狼の神は日本語が喋れるらしい。
(もしかして私に気づいていない?もしくは興味がない。)
玲華が逃げられるかどうかを画策し始めたころ、狼の神は玲華の方を振り向き、目を合わせて鋭い眼光を浴びせる。
その鋭い視線は彼女の体を貫いた。一撃で急所に深く突き刺さる。
彼女は何とか尻もちをついて涙目になるだけで堪えた。杖もまだ持っている。
『強い精神の女だ。先ほどの戯れ、なかなかにいい氷魔法であったぞ。夏の夜の蒸し暑い中にはとても心地よかった』
きっと彼は見栄を張っているだろう。確かに私の魔法は効いていた。だがしかし今は効かないだろう。もともとなかったが戦うプランがなくなった。話し合いルートしかない。
『失礼な人間どもであるがこうして優秀である供物を持ってきたことだけは誉めてやろう。さあ三峯の魔法使いよ。食われる準備は良いか?遺言を書く時間くらいはやっても構わんぞ』
「…ならその時間に私の提案を聞いてはくれないでしょうか?」
『ほう、我に物申すか。……良かろう。先ほどの戦いの獅子奮迅の活躍に免じて聞いてやろう』
深呼吸をする。チャンスは一度しかない。この提案が断れた場合には死神とあいさつすることになる。覚醒した狼の神に食い殺されたことは土産話にはちょうどいいが、まだ死ねない。
狼の神は私の周りを一周回った。一歩一歩が重く彼女の内側に響く。時間の流れが緩やかに感じられる。死の気配をすぐそこに感じた。隣には死神が居座っている。
普通の人であるならここで走馬灯を見るのだろう。しかし彼女も最後まであがく方法を考えた。弐統のように最後まであきらめることをしなかった。それは何のためかは彼女にもわからなかった。
『三嶺の魔法使いよ、我は待つのは好きではないぞ』
「……わかりました。私の提案はあなたの魔力不足解消のために私と契約を結ぶことです」
『ほう。面白い。続けよ』
「はい。…今のあなた様は記憶と力を奪われ、自分自身で魔力を作ることができない。それが先の契約を成立させていた重要な内容です。あなたは魔力を得る代わりに服従させられていました」
『その通りだ。全く忌々しい契約だ』
「あなた様が自力で魔力を得ようとするのは難しいはずです。私を食えば数日は持ちますが、また新しい獲物を探すのは苦労するはずです。ただの人間を食べても大して腹の足しにはならないでしょう」
狼の神は私の正面で腰を下ろして話を聞き始めた。鋭い眼光はこちらを向いていた。目を離すことは許されなかった。
正面に立ち杖を握りしめる。足は震えてはいなかった。
「私の提案は同じように私と契約してほしいのです」
『ほう、小娘が舐めてくれるな。目先の魔力欲しさにこの私があんな不平等条約をまた結ぶとでも?』
言葉は強いが表情や声色からは敵意が感じられない。おそらく私の言葉に続きがあることがわかっている。杖を握りしめもう一度話始める。
「そうではありません。私が契約は魔力提供と引き換えに私と仲間の安全を担保してほしいのです。おそらく私一人では十分な魔力を提供できないので最初の方は不便をおかけすると思いますがご容赦ください。最優先であなたの魔力を確保する方法を探します。あなた様のような偉大なる神であれば貢ぎたいものがたくさんいるでしょう。またはあなた様は北の大地に愛されています。そこへ向かえば魔力不足は解消されるでしょう」
『なるほど。先のことを考えて殺さずに生かした方が得だと』
「その通りでございます」
『そうか、そうか』
狼の神は耳を立てて私から見て右の方角を眺め始めた。視線が外れてほっとする。滝に打たれたかのような冷汗が止まらない
『三峯の魔法使いよ。お前は感じるか。この運命を』
「……わかりません」
『まあ、感じないだろうな。西の方角、そこに貴様の仲間がいる』
神威のことだ。生きていたのか。良かった。
思わず玲華の顔が緩む。狼の神はそれを流し目で確認した後また話し始めた。
『素晴らしい人間だ。澄んで豊富な魔力を持っている。さらには精霊にも好かれている。良い良い。……おい、あの男の出身地はどこだ?』
予想外の質問を振られる。質問の意図がわからない。なぜだ。ただの世間話か?それにしては不自然すぎる。
困惑していると狼の神から催促される。仕方なく正直に答える。
「彼の出身は北海道だと聞きました。北海道の自然とともに育ったと」
『ふふ。…予想通りだ。やはりな。しみついた匂いでわかる。わずかにだが顔なじみの精霊のにおいがする』
まったくもって意図が読めない。表情は先ほどより穏やかでやや緩んでいるようにも見える。自分が守っていた土地の出身と会ってうれしいのか?
『三嶺の魔法使いよ。そなたの提案、素晴らしいが却下させてもらう。その提案よりいい人間を見つけたからな』
玲華は目を見開き狼の神を見る。彼は流し目でこちらを見ていた。その表情は先ほどとは変わり、意地悪な笑顔、愉悦を感じていた。
私は狼の神が神威を依り代にして憑依しようとしていることにやっと気づいた。純粋で大量の魔力の持ち主、その清廉さはすべての精霊を虜にする。さらには狼の神と同じ北海道のルーツ。すべての条件がそろっていた。依り代にこれほど適任の人物は彼以外にいない。
「待ってください!彼では役不足です!あなた様を満たすことなどできません!もう一度考え直してください!」
『私には記憶がない。だがわかる。わかるぞ。きっとここまで運命を感じたのはこれが初めてだろう。彼は私に乗っ取られるために生まれ、私のために北海道で育ち、運命に導かれてここまでやってきた。三嶺の魔法使いよ、彼をここまで連れてきてくれて感謝するぞ!』
彼は走り出した。地面を蹴り出し暴風とともに過ぎ去っていった。
その時私は貯めていた涙が決壊して泣いた。狼の神が過ぎ去った安心感と神威が死ぬ恐怖が混ざる。その時やっと私は最後まであきらめなかった理由がわかった。神威が大切な人だからだ。やっと気づけた。
呼び出しておいた氷の馬にまたがり走りだす。
たった一か月、されど非魔術師との一か月は新鮮だった。壱帝とか弐統、陸織たちとは違う価値観。精霊たちと同じように彼に惹かれて、いつしか大切な人になっていた。
我ながらちょろいと思う。でも惹かれてしまったものはしょうがない。
心残りが一つだけある。それは気持ちには彼が死ぬ前に気づきたかったことだ。
神威は逃げきれず、狼男と戦っていた。一匹は倒したが二匹に組み伏せられぐちゃぐちゃにされ始めた。
しかしすぐに狼男らの動きが止まり倒れた。玲華が勝ったのか。それだったら早く迎えに来てほしいな。
近くにはいつもの精霊たち。ここの精霊は蛇に似ている。心配している。しかし彼らにできることはない。
少しして狼の遠吠えが聞こえてきた。北海道の思い出がよみがえってくる。それはまるで走馬灯のようだった。どれも精霊たちばかりだ。友達は少なかったけど精霊と一緒に入れて楽しかった。その中で1つの記憶が濃く瞼に映り始めた。
日本語を話せる精霊の一体、兜丸。彼はそう名乗った。いつもおしゃべりで週に一回話しに来る。ほかにも話せる精霊はいたけど兜丸の話が一番好きだった。魔法使いが危険だということも彼が教えてくれた。
その日は毎日昼に流れる遠吠えの話だった。時報のように毎日正午に遠吠えしている狼がいた。それは狼の域を超えて精霊の域に到達していたらしい。僕も聞こえていたけど、精霊が見えないみんなは聞こえなかった。
その遠吠えは遠くにいる憧れの狼のためらしい。
『だからな、その狼は狼の神が好きで彼が帰って来るのを待っているみたいなんや。わしもあったことがないから詳細は分からいけど素敵な話やろ!』
「でもさ狼の神って誰なの?そんなにすごい人なの?」
『お!ついに狼の神について話す時が来たか!…まあもうじき10歳やし教えてもええやろ!いいか狼の神っていうのはな………』
そこで記憶が途切れる。
物音がする。迎えが来たのか?死神を一目見ようと瞼を上げる。
そこには狼の神がいた。狼の神を見たことがなかったけど一目見てわかった。その威圧、迫力、美しさ、恐ろしさ、何をとっても素晴らしかった。兜丸の言っていた通りだった。
持たせていた持ち物のおかげで神威のおおよその位置はわかった。細かいところまでは現地の精霊に教えてもらった。相変わらず好かれているらしい。
近くまで来た。そこには精霊たちがたむろしていた。気にはなるが恐ろしくて近づけないらしい。
道を譲ってもらい進む。狼の神の気配を感じ取れる。それは近づくほどに強くなっていった。神威が乗っ取られたのは明らかだった。それでも、それでもあきらめたくなかった。
少し開けたところに出る。どうやら神威はここで狼人間と戦っていたらしい。狼人間の死体が3つ転がっている。
神威の後ろ姿が見える。月の光を浴びているらしい。両手を広げている。黒い専用の外套着て、スキニージーンズとランニングシューズ。背格好は神威そっくりだ。髪の毛が白くなり大きな狼の耳が生えていることを除けば。
『やあ。三嶺の魔法使い』
こちらを振り向く狼の神。顔のパーツも全く変わっていなかった。大きな目に少し低い鼻。まつ毛は男のくせに長くて肌はとても健康的。いつもの彼だった。尖った犬歯と彼は絶対にできないような意地悪な表情を除けば。
『期待以上の体だ。とても馴染む。体の隅々まで私の血がいきわたる。まるで最初から私の体だったようだ』
それはお前の体じゃない。私はそう叫びたかった。
彼は体を手に入れ、魔力の生成については心配がなくなった。まだ全力は出せないだろうが徐々に力をつけていき、きっとまた神と呼ばれ始める日は近いだろう。
きっと今の状態でも私では勝てない。もう誰も勝てないのではないか?
つまりはもう誰も神威を救えない。
それでも私は彼を救いたかった。
一つだけ救える方法がある。神威の体を開放してもらう方法。それは狼の神に完全復活してもらえれば良い。
「狼の神よ。最後の情けです。私のもう一つの提案を聞いてはくれないでしょうか?」
『ふん。提案するからにはこの体よりも魅力的な方法なのだろうな』
「その通りでございます」
おとなしくここで降りれば命だけは助かる。だが降りない。次降りるときは彼と一緒だ。たとえそれが終着駅の地獄であったとしても。
「私が三嶺家からあなた様の力と記憶を取り返して見せましょう。」
『代わりにこの体を返せと?』
「はい。私ならあなたの力を取り返せます。私しか取り返せません。…あなたの力は素晴らしいです。しかし隠されたものを探すのは骨が折れるはずです。私にはその算段があります」
狼の神は喉奥からあざ笑うように笑い声を漏らした。なぜ笑ったのかはわからない。何か間違ったのか?
月を仰ぎ見ながら彼は契約内容について話し始めた。
『ならばこの月が満月となる10日後までに取り戻して見せよ。今日を1日目として奮戦する姿を我に示せ』
「そんな短い期間ではさすがに無理です!」
『ならばこの話はなし。』
足元を見やがって。きっと彼は私には期待していない。するわけない。ただの見世物として楽しむつもりだ。
それでもその条件を飲むしかない。彼を取り戻すならこの方法しかない。
「……わかりました。代わりに10日間は神威に体の主導権を返して下さい」
『いいだろう。……それとお前は神と契約するということだ。それはつまり命を差し出すことを理解しているな』
「しています」
もう一度喉奥から笑い声が顔を見せた。何か企みがあるのではないかと疑うような声だ。
『そこまで聡明なのにこのような契約を結ぶとは。やはり情とは持つべきではないな』
彼の足元から魔法陣が広がる。月をモチーフにして素晴らしい装飾が施されている。左右非対称なのにも関わらず術式として成立していることろからも彼の技量がわかる。
契約の魔法は簡単だ。両者の合意が得られていればいいので成立しやすい。さらにその魔方陣には術者の性格や経験、力量が現れる。
私は圧倒される。改めてその差を感じる。これが私には到達できない神の領域。
『我は狼の神。汝はあの月が満月となり沈むまでに、三嶺に奪われた我が記憶と力を取り戻し、我に献上するか?』
「誓います」
『この誓いが破られるならその命を持って償うことを誓うか?』
「誓います。また私からの願いとして10日間は体の主導権をもとの所有者である神威に返して下さい」
『ならば10日間は主導権を放棄しよう。ただし我の魂の危機が訪れた場合には我が対処させてもらう。これでいいか?』
「わかりました。この契約内容を支持します」
「よろしい。であれば我もこの誓いが果たされた暁にはこの少年の体の主導権を返還し、感謝を示そう』
神威が目を閉じながら崩れ落ちる。きっと主導権が返されたが精神が目覚めていないのだろう。
傍により抱きしめる。
激しい後悔しかない。私は十日後に死ぬことが決まってしまった。三嶺家に近づけば殺される。しかし近づく以外に道はない。
これは私の罪だ。たくさんの狼人間を殺してきた罪ではない。罪のない少年をこの世界に入れてしまった私の罪だ。もう引き返せない。
いや、きっと神威と契約した日から引き返せないのだ。これが運命なのだ。
神威を心配する精霊たちに囲まれながら私は泣いた。自分が死ぬ覚悟はできている。でも大切な人が死ぬ覚悟はできていなかった。
神威は白髪で狼の耳が生えたままだった。
今日は綺麗な三日月が憎かった。
一日目終了