フェアウェル・ソング
仰げば尊し……今こそ別れめ、いざさらば
「おじいちゃん、卒業セレモニーのためにピアノ借りるね」
私と違って、南部訛りの少ない口調でおねだりを言いながら、孫娘が我が家へ遊びにやって来た。
彼女のお目当ては、妻が作るジョニーケーキと、このリビングにある古いピアノだ。
「今度ハイスクールの卒業セレモニーの時にみんなで唄う、お別れの歌を探しているんだ」
「お前がピアノを弾くのかい? ジョディ」
「うん。おじいちゃんも聴きに来る?」
私は座っている車いすのひじ掛けを叩きつつ、笑顔で返す。
「ハハ、こんなんじゃなかったら行きたいものだよ。よかったら、ここで聴かせておくれ」
「うーん。でもまだ、曲が決まってないんだよねー」
ジョディは、勢いよくソファに身体を投げ出しつつ、抱えていたPCタブレットをテーブルに置く。
「あら、早かったわね。もうじき焼けるからね、ジョニーケーキ」
キッチンから妻が顔を出しながら、ジョディのもう一つのお目当ての進捗具合を伝えてきた。
「おばあちゃん、サンキュ! 早く食べたいな」
ジョディからも笑顔がこぼれる。
卒業というとこのコも、もう十八才になるのか、早いものだ。
ジョディはいくつかの曲名らしきものを言いながら、画面をいじっている。
もう私には仕掛けもわからない器械を軽々と扱いながらジョディが、老兵に意見を求めてくる。
「ねえ、これなんかはどうかな? 『ソング・フォー・ザ・クローズ・オブ・スクール』っていう曲。日本の卒業セレモニーでは定番な曲らしいよ」
ジョディは動画サイトの再生ボタンを押す。
「ジョディ、お前のおじいちゃんは補聴器だから、よく聴こえないだろうけどなあ……」
私は笑顔とともにジョーク交じりの返事をした。
ピアノの前奏から始まり、男女のコーラスで英語の歌が聴こえてきた。
あ……。
突然に私の中の時間が、全て止まった。
見えるもの、触れているもの、呼吸することすら。そして、孫娘に向けた笑みまでも。
悠然としたメロディーが、美しいコーラスで聴こえてくるこの耳にだけ、唯一感覚があった。
ああ、この歌は……。
私には忘れられない歌がある。
まだ若く、青二才と呼ばれる年齢だった時に聞いた歌だ。
当時、私は戦場にいた。
栄えある合衆国海兵隊の兵士として。
「もう、この島の戦闘も終わりだな」
ヘルメットをあみだに被ったショーンが、波が洗う足元の岩を用心しながら口にする。
ペリリュー島の作戦からずっと一緒に戦ってきた戦友だ。
「ああ、ここのジャップは思いのほかタフだったけどな」
私はショーンに返答しながら、もう一人の同行者がどんな表情をしているのか気になって、顔を向ける。
モリオ。隊内では少なからぬ侮蔑をこめて、「ミックス」と呼ばれている。
服装や装備は立派な合衆国海兵隊兵士だが、彼の顔つきは、我らが敵手たるジャップにそっくりだ。
まあ、当たり前と言えば当たり前だ。彼は日系二世なのだから。
語学兵としてこの戦場へ来て、今は敵の敗残兵に投降を促すというやっかいな任務を押し付けられている。
私とショーンはそのモリオの子守ーーでなく、護衛として同行している。
追い詰められた敵が最後に逃げ込んだのは、海沿いの断崖だった。そこにある自然洞窟を片っ端から捜索し、爆破して廻っている。
滅多に投降はないが、時々薄汚れた一般民の一群が穴から湧き出てくることもある。
その他は我々には理解できない文化だが、無数の自殺した死体があちらこちらにある。
しかし、油断はできない。市民が出てきた穴倉から突然狙撃されることもあったし、ケガ人を助け起こそうとした途端に敵の手榴弾が爆発することもある。
ジャックもマーカスも、「ブッチャー」アレックもそんなことで死んだ。
その度に「ミックス」は、上官がいないところで戦友たちに小突かれたり、物を投げられたりしていた。
しかし表情の乏しい人種の血をひいているからか、そんな時に彼が、悔しがっているのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、私たちにはてんでわからなかった。
今も表情を変えずにこの海沿いの断崖を見上げている。
我々三人から少し離れて、同じ隊の兵が何人か歩いている。
要は我々は体のいい囮ってわけだ。
海へ突き出た大きな岩を乗り越えた。
そして、それは突然のことだった。
目の前の岩陰にいたのは四人のジャップ。
紺色の上着に幅広のズボンをはいた少女と思しき三人と、やつれてボロをまとった中年の一人の男だった。
緊張が走る。
私とショーンは素早くライフルを構える。
中年の男が何かを大声で喚く。
何を言っているかわからない。
私とショーンも大声で叫んで威嚇する。
私たちも、自分たちで何を言っているかわからない。
この場で一人だけ喚かないでいた男が我々の前に立ちはだかる。
「どけ、ミックス」
ショーンが叫ぶ。
モリオはゆっくりと、何かを喚き続けている中年の男の方へ歩み寄った。
『ダイジョーブ、ダイジョーブ』
モリオはいつもと同様に、最近私も憶えた日本語で彼らに声をかける。
中年の男は、怯えて固まっている三人の少女の前に立ち、涙を流しながら必死に何かを訴えている。
モリオは何度か頷きながら聞いていた。
『オーケー、オーケー』
男になだめる様に答えていたモリオは、銃を構えたままの我々の方を向いて、男が必死に喚いていたことを要約して話し出した。
彼女たちはこの島のハイスクールガールズで、日本軍によって臨時のナースアシスタントとして従軍させられていた。そのため、本当はこの春に卒業だったのだが、まだきちんとした卒業セレモニーができていない。今ここで略式でやっていたが、そのために、あと五分だけ時間をくれとのことだった。
隣で、銃を下したショーンが言う。
「三分だけだ」
ショーンはポケットから煙草を取り出し、咥えて火をつけた。
私も銃を下ろし、奥の三人の少女に笑いかけた。
モリオから聞いたのだろう、中年の男は我々に頭を何度も下げながら、三人の少女の方へ後ずさった。
男から説明を受けたらしい三人の少女も表情は変えないながらも、軽く我々に頭を下げる。
大きく息を吐いた中年の男が何かを合図した。
その合図と同時に三人の少女が突然に歌を唄いだした。
波音の伴奏の中で聴こえるその日本語の歌は、ゆっくりとしたテンポだが少し悲しげでいて、それでいて誠実さや慕情を崇高に訴えてくるような歌だった。
煙草をくゆらせているショーンは、目を閉じながら岩に持たれて聴き入っている。
私も銃を肩にかけて、波が打ち寄せる断崖の前で真摯に歌を唄う三人の少女という名画から目を反らさず、その歌声に聴き惚れていた。
ふと気がつくと、さっき我々が乗り越えた岩の上には、後続の戦友たちがしゃがんだり、お互いに肩を組みながら、この場違いな合唱隊の歌を静聴していた。
その歌は三コーラスまであったようだ。最後は同じ言葉で締めくくっていた。
彼女たちが唄い終わった時、誰かが一つ、手を叩いた。
それを合図としたかのように、我々みんなが、この天使たちに拍手や口笛を送った。
私も、彼女たちの美しい歌に心から手を叩いて讃えた。
しかし、少女たちは笑顔一つ見せず、真っ赤な目をして中年の男に深々とお辞儀をした。
男も三人の少女に頭を下げて応える。
私は気づかなかったが、三人の少女の足元にはアルミ製コッヘルの蓋が三つ置いてあった。
少女たちは急にいっせいにしゃがみこんで、それを手に取り中の水を一気に飲み干した。
ショーンの開いた口から煙草が落ちる。
それを横目で見た時、私も悟った。
「ストップ! 」
ショーンが叫んだが、間に合わないのは明白だった。
少女たちは次々と倒れた。
ついさっきまで、美しい歌声を発していた唇から赤い血がしたたり落ちている。
私は身動きもできず、この一瞬の出来事を、まるで映画か夢の中の出来事のように眺めて、立ち尽くすだけだった。
日本軍が自殺用のシアン化カリウムを、兵や市民に配布しているという情報は確かに聞いていた。
ショーンが、少女たちの傍らで膝をついて蹲りながら泣き続けている中年の男の背中を、ライフルの銃床で殴りつけた。
後ろから来た隊の者が、その男を引っ立てて連れて行こうとする。
私はフラフラと、もう一人身じろぎせずに立ち尽くしていた男の横に立った。
「さっきの……日本語の歌、最後の……リフレインの言葉の意味は?」
モリオは少女たちの遺体を見下ろしながら、静かに答えた。
「『イザ、サラバ』……意味は『セイ・グッバイ』……」
私は、モリオの横顔を見つめる。
この男はこうなることを知っていて、彼女たちに卒業セレモニーをさせたのではないかとも思ったが、あえて問い質すことはしなかった。
ただ、この歌が私の頭の中でしばらく鳴り響いていた。
もう何十年も前に一度だけ聴いた歌だったので、普段の生活の中で曲を思い出すことは無くなっていた。
しかし、もう一度聴くことがあれば、必ずわかるとも思っていた。
「あれ? おじいちゃん、大丈夫? 」
ジョディが全身硬直したままの私を心配そうに見つめている。
私はやっとの思いで、深く重い息を吐く。
「ああ、ちょっと昔のことを思い出してな」
「そっか、この曲知っているの? 」
ジョディは、動画を止めて聴いてきた。
「うん。昔聴いたことある曲にちょっと似ていたからね」
「ふーん。この歌日本では有名らしいけど、原曲はこの国の曲らしいよ」
そうか、あの娘たちが最期に唄った歌は当時の彼女たちにとっては敵国の歌だったのか。
しかし、関係ないな。
どこで作られた曲だったのかなんて、あの島での、あの奇跡的な一瞬の邂逅の前では何の意味もなさない。
彼女たちの人生は悲劇でしかないが、少なくとも、せめて卒業だけはできたのだと思いたい。
心ならずも卒業セレモニーに居合わせた身としては。
「車いすでもよければ、ジョディの卒業セレモニーに立ち会いたいなあ」
「ホント! じゃあ、もっと元気になるような曲にしようっと」
ジョディのこの笑顔は大切だ。
あの時の少女たちは、最期までけして笑顔を見せることはなかった。
妻がキッチンから皿を抱えて出てきた。
「はい、出来上がったわよ。おばあちゃん特製のジョニーケーキ!」
歓声を上げるジョディを眺めながら思った。
やはり、卒業とは別れだけでなく、新たな門出ででもなければならないはずだ、と。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。
投稿していいものかと悩んだため、期間限定掲載とさせていただくかも、です。
短くてもご感想などいただけると嬉しいです。
本当の本当にありがとうございます!