霞がかる宇宙
ここ数日は天体観測をする天候に恵まれず、これまでに集めてきた星のイラスト集を見て過ごした。本棚にある、小惑星のイラストを数枚めくってはコーヒーに口をつけ、また置く。クサンティッペのページを開いていたところに妻が帰ってきたので思わず笑ってしまったが、いかんいかんと自分の頬を軽く叩き、平静を装った後に改めて口角を上げ、妻を出迎えた。
「おかえりなさい」
「祥は食べさせた?」
「多分。カレーが無くなってた」
妻はパンプスを脱ぎ、マフラーを投げて渡す。妻の鞄をリビングまで運ぶのも夫の務めだ。
「今日はカレー以外のものがいいのに。自分で作る」
「鍋にはまだカレーが」
「今日も疲れたの」
妻のいちこは脱いだストッキングをソファーに投げ、テレビをつけた。このストッキングは触ってはいけない。黒色が濃いので高いらしい。それから、ヘルニア用の腰巻を外すと同じようにソファーに投げる。これは、妻が風呂を上がった後に再びつけるので、風呂場にもっていかなくてはいけない。
彼女が言う自分で作るはお前が作れという意味だ。カレーを食べないということは、煮物料理は食わないというサインだろう。
「冷蔵庫には豚肉と鶏肉、卵とか入っているけど」
「鶏肉と卵は明日使うから入れといて」
ということは、豚肉の気分なんだな。豚肉とほうれん草を焼くためにフライパンに熱を通す。
いちこの見ていたバラエティ番組がコマーシャルに入ると、おもむろに立ち上がり、腰をさすりながらリビングを出て行った。途端に怒鳴る声が聞こえる。きっとドア越しに息子の祥一を叱っているのだろう。焼きあがった豚肉とほうれん草のソテー、ご飯と麦茶をソファー前のローテーブルに置くと、妻が帰ってきた。ソファーにどっかりと座り、
「私が作るって言ったのに聞いてなかったの?ほんと、あんたって人の話を聞かないのね」
「ごめん」
とこちらが謝った。そうして麦茶をかけられた。どうやら今までの所作に無礼は無かったらしい。怒鳴り声を向けられなかったからそれと分かった。ハンカチで濡れた髪を拭う。
「いい?あなたが情けないからよ」
これはおそらく、話を聞いていなかったことに対するそしりではなく、祥一が不登校になっている現状に対しての怒りだろう。
「後でまた、ちゃんと話をしてみるよ」
「今まで、ちゃんとしてきたような言い方ね」
そう言うと、コマーシャルが明けたので、後はテレビに見入って無言だった。時々ソテーに箸をつけては、
「ほうれん草は嫌いなのよね」
と愚痴をこぼした。今日は機嫌が良いようで、その後は整形したという噂が話題の男性アイドルが出ている恋愛バラエティーを、腰をさすりながらしかめ面で見て、何も言わなかった。
しばらくはこのまま放っておいていいだろう。一度自分の部屋へ帰る。机の上には、小惑星のイラストが開かれたまま、置きっぱなしだった。変わらない自室にほっとする、落ち着く。ソクラテスの妻、クサンティッペの名を取って名付けられたその小惑星のイラスト模様が妻に見える程度に気疲れしていた。
窓から見る夜空は変に雲が分厚く、風が強かった。今日は本当に目測でのコメットハントはできないだろう。部屋の隅の天体観測用の望遠鏡をちらっと見て、冷めたコーヒーを飲み干した。
ほっとしたのもつかの間、廊下で皿が割れる音がする。バラエティー番組が終わったのかもしれない。イラスト集を閉じて自分の頬を軽く叩き、平静を装った後に改めて口角を上げ、廊下に出た。
いちこが祥一の部屋のドアにすがっている。それから割れたお皿の破片が廊下に散らばっている。いちこが割ったか、祥一が割ったか。破片の模様と、付着している黄ばみから、あれはきっと祥一が食べたカレー皿だ。察しよう、考えろ。
予測するに、これは息子がカレーを残していたのではないか。
予測するに、これは自分でお皿を洗わない息子に腹を立てたのではないか。
おだやか振舞うように努めて、いちこに尋ねた。
「カレーに何かあったんだね」
「なんで聞いてないのよ!この子、将来について何も考えてないって言ったのよ!」
予測するに、これは将来どうするのかを尋ねた母へ、息子が返事を返さなかったということだ。部屋の外に置かれていたカレー皿をドアへ叩きつけたのだろう。
「腰が痛いの!ヘルニアだって言ったでしょう!」
そう言うと、いちこはリビングへ帰っていった。
「祥一、今割れたお皿を片付けるから出てくるなよ、危ないから」
部屋の中で、大きく息を吐くのが聞こえた。
「何も言ってないよ」
「分かってる」
そうして、椅子が少し軋む音がした。
自分の頬を軽く叩き、平静を装った後に改めて口角を上げる。お皿を新聞紙で包んで、台所脇のごみ箱に捨てると、いちこはソテーを食べながらニュースを見ていた。時々腰をさすっている。ニュースでは、この町付近の風の勢いが著しいことを伝えていた。変に雲が分厚いことと関連しているのだろか。風による被害が出なければいいのだけれど。
「祥、明日は学校に行けるって?」
「難しそうだよ」
「風がなんか危ないみたい」
「怖いね」
そう返すと、妻はキッとにらんできたが、何かを勝手にあきらめたようで、ため息をついた。子供並みの感想しか言えない夫に、言葉も無かったのだろう。妻が食べ終わったお皿をローテーブルから取って洗う。天気予報が終わると、妻はお風呂に入った。ニュースキャスターの容貌が好みではないらしい。
今のうちに祥一と話をしよう。そう考えて麦茶を注ぎ、彼の部屋のドアを叩いた。彼は無言でカギを開けると、目を合わせずにベッドへ腰かけた。息子に麦茶を渡すと一気に飲み干して、ノートパソコンがおいてある机の上にコップを置いた。自分は床であぐらをかく。少し人の匂いが強いその部屋を見回すとノートパソコンの画面が点いている。パソコンに接続しているヘッドホンからは微かに音が漏れていた。
「何か聞いてたのか?」
「うん」
「何を?」
「CM」
「へえ?」
「ネットで動画を見てたら広告が流れて、それが小学生の頃に買ってほしかったおもちゃの再販で。物は今手に入らないって分かってるけど、今欲しいものの広告を集めてたら、それを頼りに、この部屋にじっといる意味が後から作れるって思ったから」
予測するに、これはつまらなくて後悔すると分かっている日々に、後から振り返って「何かが欲しいという欲を持っていた」という思い出が欲しい、ということか、多分。
「何も答えないって僕にお母さんキレてたけど、何か言ってたの?」
「将来のこと、どうするんだって。でも、ヘッドホンしてたから聞こえなかったんだろ?」
「うん」
「どうする?」
「僕の将来?」
「いや、お母さん」
「お母さんは整形アイドルしか興味ないから、録画を流しておけばいいよ」
「将来は?」
「わかんない」
「まあ」
ゆっくり考えればいいさ、と続けようと思ったら、ぐらりと壁が揺れる。地震か何かか、と思って天井を見るが、揺れが続く気配なんて察することはできない。それからふっと電気が消えた。
窓から光は射して来ない。街灯も消えているのだろうか。雲が出てきていたから、月明かりも見込めないだろう。
暗い。静か。
ふと、コメットハントをしているときのことが頭によぎった。望遠鏡をのぞいているときの、暗さを積極的に見ようとする心の安寧。リアルタイムで見えた、過去の星の光を思い出した。
ぱっと、目元が明るくなる。ああ、祥一が携帯のライトを点けたらしい。途端に遠くからばたばたと足音が聞こえてきた。部屋のドアを強引に開け、この部屋にライトがもう一つ増えた。
「祥、大丈夫?布団を被んなさい!」
「え?」
「地震かもしれないでしょう!」
そうして、一つの掛け布団を三人で羽織った。
ごうごうと音がするたびに、いちこの爪が肩に食い込んだ。祥一は、布団の隙間からパソコンの方を見ていたが、ゴトッという音と共に、
「あっ」
と声を漏らした。
「なんの音?」
といちこが聞くと、
「ヘッドホンが落ちた音だよ」
と返した。ノートパソコンがバッテリーで動いていたらしい。そして、コマーシャルが延々と流れ始める。ヘッドホンの端子が抜けたのだろう。
「なんか、おもちゃのコマーシャルばかりね」
今、欲しいもののコマーシャルばかりを集めているんだから、子供としては当然か。でも、いちこはそれを知らない。教えるのも、息子の秘密を勝手に暴露してしまうみたいで、黙っていた。
そのうち、電化製品のパートが始まったかと思うと、毎週パーツが送られてきて、自分で組み立てるタイプの商品コマーシャルが流れてきた。完成すると、天体望遠鏡が完成するらしい。
「天体望遠鏡か」
「うん」
「興味はあるか?」
「まあ」
「お父さんの部屋に天体望遠鏡あるけど」
「え、知らなかった」
いちかが得意そうに続ける
「知らなかったの?お父さん、天体観測が趣味なのよ」
「だから、望遠鏡が」
「風が治まったら、見てみるか?」
「僕が欲しいのは、自分が組み立てる望遠鏡だけど、でも、まあ、どんな感じかは試したい」
「そうか、そうしような」
「早く電気点かないかな。あ、そういえばさ、ブレーカー大丈夫かな?」
「え、ああ、そうか。落ちてないか見に行かないとな」
いちこはライトが点いた自分の携帯を黙って差し出すと、
「気をつけてね」
と言った。
布団から這い出して、暗い廊下をライトで照らしながら玄関の方へ歩く。こういう、視界が制限された暗いところは安心できる。天体観測で慣れている。でも、今は明るい布団の中へ急ぎたかった。ブレーカーは落ちていなかったので、背伸びして手を伸ばし、落とした。
祥一の部屋へ戻ると、すすり泣く声がした。高い音ですすり泣いている。いちこか?鬼の目にも涙、クサンティッペの目にも涙かと動揺した。
予測するに、これは先ほどの怒鳴り怒鳴られの件を二人きりの間に和解したのだろうか。まさか、いちこが謝った?祥一が将来の展望を答えた?
口角を上げて布団の中に入り、ブレーカーを落としてきた旨を伝えると、
「お母さん、かがんだから腰が痛いって」
と祥一が言って、うつぶせになったいちこの腰を、母の指示のままにじんわりと押してあげていた。
強かった風は段々と弱まってきた。いちこの腰の痛みも段々と弱まってきた。
そっと布団から出て、窓を見ると雲が晴れていた。もう大丈夫だろう。ハンターの勘が言っている。
「もう、大丈夫だと思う」
そう言うと、それを聞いて祥一が出てきた。
「SNSでも、治まったって言ってるよ。あとは、電気も復旧を急いでいるみたい」
「なあ、祥一、今のうちに望遠鏡覗いてみるか。どんな感じか試してみるか」
母の方を気にして振り返ったが、いちこは、
「行ってきなさい。あとは放っておいて」
と言った。
自分の部屋に息子を通し、ベランダに出る。雲はなく、星がよく見える。普段は町の明るさにかき消されている、等級が低い星まで肉眼で見えた。
ベランダに望遠鏡を運ぶと、見方を簡単に教え、あとは祥一の好きにさせた。
「見える」
と祥一が言った。
「見えるよ」
と答えた。
イラストでもなく整形もしておらず代用品でもない星がそこにある。
今は繕う必要のない家族が月明かりに照らされていると感じる。
頬を緩め、口角を下げた。
「あっ」
「どうした?」
「何か通り過ぎた!」
「流れ星か?」
よく見ると、もう一度星がゆっくりと流れた。あの星が、風と雲を切り開いたのかもしれない。もちろん、順序は逆なのだが、自分の思い出にはより気持ちが明るくなるように刻み込まれた。
やがて、周囲の家々の電気がついていく。等級の低い星から街の明るさに掻き消え、霞がかかったように白く夜空を覆った。
「ちょっと、どこに行ってるの!」
いちこの怒鳴り声がする。祥一と目を合わせて急いで望遠鏡をしまい、部屋へ入る。
「お父さん、あのさ」
「どうした」
「組み立ての、僕だけの望遠鏡買ってくれたらまた頑張ってみるよ。大事にする」
「わかった。お母さんを頑張って説き伏せるよ」
祥一が行った後を追う。いかんいかんと自分の頬を軽く叩き、平静を装った後に改めて口角を上げ、妻の元へと急いだ。