第61話 『返ってきた日々』
七月六日。月曜日のことである。
ひと夏の波乱とともに中間考査が終了して、そろそろ二週間。
先週までの教室は、やれ誰々の点数が良かっただの、誰々がカンニングしていただの、誰々先生が試験監督中にエロサイトを閲覧していただの、テストに関する話題で持ちきりだったけれど、流石に二週間ともなればある程度ほとぼりも冷めてくるものだ。
ちなみに最後の話題は、氏名の書き忘れで零点にされた男子生徒が腹いせに流布したデマである。悪質極まりない。
試験特有の鬱々とした雰囲気と緊張を孕んだ熱気もとうに過ぎ去り、智悠が所属する二年B組には日常が戻っていた。
朝のホームルーム前。
続々と登校してきたクラスメイトたちが、思い思いに集まって談笑に花を咲かせている。
耳を欹てて聞いてみると、昨日見たテレビ番組の話とか、昨日見たアダルトビデオの話など、そこかしこで繰り広げられているのはどれも他愛の無い会話ばかりだ。おかしい。ここにいる人間はもれなく全員十八歳未満のはずなのだけれど。
性欲は年齢を超える。何も言うまい。せめてちゃんと購入視聴していることを祈るばかりだ。
違法アップロード、ダメ、ぜったい。
それにしても、この調子でこの学校の風紀は大丈夫なのだろうか。まだ見ぬ風紀委員長の苦労が偲ばれる。
脳内で我が校の風紀委員長(※三つ編みメガネ巨乳)へ届かぬ思いを馳せていると、隣の席——ひとつの机を取り囲む女子グループの会話が耳に飛び込んできた。
「そういえばハナちゃんはさ、もう種目何にするか決めたの?」
「うーん。実はまだちょっと迷っていて……。何が良いのかわからないんです。私、あまり運動が得意な方ではないので」
「運動かー。私も正直微妙なんだよねー」
「そうなんですか?」
「ユーアーマイそうそう。四月の体力テスト、反復横跳び二回だったし」
「どうやったら反復横跳びのカウントシステムで二回なんて結果になるのよ」
「じゃあさじゃあさ、ここにいる皆で同じ種目に出ようよ。どうせ今年も団体競技メインでしょ?」
「あ、それいい! 私長座体前屈なら得意だよ!」
「なんで長座体前屈を団体競技だと思っているのよ。というか長座体前屈が種目になるわけないでしょ」
「あの、長座体前屈って何ですか? 名前からして凄く難しそうなのですが……私にも出来るでしょうか……」
「ほら、ハナちゃんが真に受けちゃうから。早くあんたは体力テストから離れなさい」
「体力テスト? ああ、いたねー、そんなヤツも」
「ちゃんと離れるな。離れて久しい元カレみたいに語るな」
「皆ちょっと待って。さっきから隣の男子がうちの風紀委員長でエロい妄想してるんだけど」
どうやらこのクラスには一人の超能力者と一人の馬鹿がいるらしかった。というか何故バレた。
反射的に振り向くと、件の集団——グループの輪の中心にいた一人の女子生徒と目が合う。
浅葱色の瞳が、朝の日差しを反射して燦々と煌めいた。
「智悠さんも、楽しみですね!」
そう言って花の咲くような笑顔を向けてくるのは、皆から『ハナちゃん』と呼ばれていた金髪の美少女。
真白ハナ。
数ヶ月前にこのクラスに編入してきた転校生。
その正体は、『慈愛』を司る見習いの女神様。
本名を、ハナ=エンジェライトという。
彼女の正体を知っているのは、この世界広しと言えども小日向智悠一人だけ。
遡ること数ヶ月前、交通事故で命を落とした智悠は、天界と呼ばれる幻の花園で彼女と出逢った。
とある心残りから生き返ることを望む彼に、女神であるハナは、これまたとある任務を課したのだ。
その任務とは、この世界で悩める者たちを救うこと。いわゆる人助けというヤツである。
人を助け、助け、助けて、自らの存在価値を証明する。
見事お眼鏡に適えば『慈愛』の女神の名のもとに、小日向智悠を現世に生き返らせてみせると。
期限はきっかり一年間。
それまでこの世界に存在する智悠の身体は、あくまで仮の生命を与えられた状態であるらしい。
今、確かに動いている心臓も。脳も。身体も。
超常の力で一時的に生き永らえているに過ぎない。
小日向智悠が。
一年後には、消えて無くなるかもしれないのだ。
「……まあ、それもこれもすべてはハナが画策したことだったんだけれど」
死者の蘇生も任務の内容もクリア条件も、すべてこの見習い女神が計画・実行したアイデアだ。
その理由はただ一つ——退屈な天界を抜け出し、人間が暮らす世界を謳歌するため。
智悠の動向を監視するお目付け役——という名目で、人間界を余すところなく満喫する。
つまるところ、女神の私利私欲に小日向智悠は半ば強制的に巻き込まれたのだ。世の理を捻じ曲げ、その共犯者に仕立て上げられた。
そのことについて、別に彼女を恨んだりなどはしていない。真実を明かされた当初は驚いたけれど、今ではすっかり受け入れている。
裏にどんな思惑があろうと、それしか方法がないのならそれを選択するまでだ。
「……ああ、そうだな」
ハナの笑顔に、もはやすっかり板についてしまったタメ口で返す。
板についたと言えば、最近のハナはこと学校という空間にかなり馴染んできたように思う。
転入して間もない頃は事あるごとに変なことを口走りそうになり、その度に何とか誤魔化しては不思議ちゃん扱いされていたけれど。
先のクラスメイトとのコミュニケーションからも推察できる通り、今や人間界の常識にも慣れ、何の違和感もなく『女子高生』をやっている。
確かに外見的には金髪碧眼のロリ巨乳という圧倒的なフィクション要素は健在だが、それもやがては受け入れられていくのだろう。当たり前になっていくのだろう。
とかく、世界はそういう風に出来ている。
「というか、もはや僕よりもよっぽど充実したスクールライフを送ってるまであるな……」
多くの女子たちに囲まれながら談笑する姿を見て、思わず漏れ出た独り言。
何だろう、この気持ちは。
まるでまだまだ幼いと思っていた自分の娘が、いつのまにか立派な女性になっていたかのような。
「皆ちょっと待って。さっきから隣の男子が私たちのハナちゃんを娘の結婚式を目前に控えた父親みたいな目で見てくるんだけど」
だから何故バレる。
そして何故頑なに『隣の男子』呼ばわりをする。
もしかして名前を覚えていないのだろうか。
同じ穴の狢同士、仲良くできそうな気がする。
突き刺さる女子連中の視線が痛い。最も痛いのは他でもない智悠自身なのだが。
あらゆるものから逃れるように、智悠は窓の外へと目を向けた。
「——」
今朝のニュースでは梅雨明けはもう少し先とのことだったけれど、今日は朝から雲一つない青空が広がっている。
遠く見えるグラウンドからは、生徒の集団がぞろぞろとこちらに歩いてくる姿が確認できた。あのユニフォームは陸上部だろうか。朝練が終わって部室棟に戻るところのようだ。
試験前には気にも留めなかったはずのありふれた朝の一コマが、今日はやけに目につく。
教室だけでなく校庭にも、学校のいたるところに日常が返ってきた。
七月もすでに六日が過ぎている。あと二週間もすれば夏休みだ。
思えば二年生に進級してから色々なことがあった。先の蘇生云々の話は言わずもがな、黒髪痴女が牛耳る有志部なる部活動に入ったのも遥か昔の出来事のようだ。
その活動の一環で患い少女やイマドキJKと対立したり、ゼロ距離少女と腹を探り合ったり。
これほどまでに濃密な時を過ごしてきたのだ、今後しばらくは平穏な高校生活を送りたい。
何事もなく、ただただ戻ってきた日常を謳歌したい。
——そんな智悠のささやかな願いは、ものの見事に打ち砕かれることとなる。
「はーい、皆さん席に着いてくださーい」
ガラリと音を立てて教室に入ってきたのは、二年B組の担任教師——姫川凛依。
年齢不詳、女子大生レベルの若々しさを誇る美人女教師。いつものように人好きのする柔和な笑みを浮かべて、凛依は教壇に立った。
ぞろぞろと着席する面々を見渡して満足げに息を吐くと、
「えー、それでは皆さん。改めて、中間テストお疲れ様でした。各々自分の現状をしっかりと受け止めて、これからも勉強に励んでください」
教師らしい激励の言葉を投げかけた後、出席簿をゆっくりと教壇に置いた。
「さて、あと少しで夏休みですね。早速予定を立てている人たちもいることと思います。でも、皆さんも知っている通り、まだひとつ大きなイベントが残されていますね」
予兆はあった。
つい先ほど、ハナたちのグループが話していたではないか。
凛依はチョークを手に取ると、黒板に丸く可愛らしい文字を書き連ねていく。
それからパンパンッと軽く手を叩くと、
「それでは、今日のホームルームはクラスマッチの出場種目を決めたいと思います!」
そう言って、今日の天気に負けず劣らない満面の笑みを浮かべた。