第60話 『小日向真綾』
小日向真綾は妹である。
例によって例のごとく、ここで彼女のパーソナリティを詳らかに語ろうと考えている。考えているのだけれど、ここでひとつ、前もって断りを入れておきたい。
というのも、彼女——小日向真綾を語る上では、常のような冗長極まりない修飾語やレトリックはまったくもって必要ないのだ。むしろ邪魔になるくらいである。
そんなものがなくとも、彼女の有する顕在的あるいは潜在的な魅力の数々は、たったひとつの等式だけで余すところなく表現することが可能である。
すなわち、小日向真綾イコール妹。
小日向真綾は妹なのだ。以上、紹介終了。
職務怠慢などと言わないで欲しい。
むしろ小説家泣かせなことこの上ない。
こちらは持てる限りのボキャブラリーを駆使して、彼女を着飾る美辞麗句を並べ奉る気満々だというのに、そうは問屋が卸さないのだから。
まったく、筆を折りたくなってしまう。
心までは折られたくない。
なんて戯言を宣っている場合ではもちろんなく、この等式が実は未完成であることに注意を向けなければなるまい。
このままではオイラーの世界一美しい等式には遠く及ばない。
未完成の等式。完成していない等式。
凄く厨二心をくすぐられる。
中学時代の数学心を思い出さずにはいられない。
連立方程式の格好良さに性的興奮を覚えていたあの頃が懐かしい。
さて、諸君はお気づきだろうか。
厳密に言うと、小日向真綾はただの妹なのではない。
そう。
小日向真綾は——小日向智悠の妹なのだ。
この所有格があるのとないのとでは天と地ほどの違いがある。宇宙とマントルと言い換えてもいい。
あるいは小日向真綾と小日向智悠とも。
それは月とスッポンだろ、とツッコミを入れるのはなしだ。彼の精神衛生上よろしくない。
ところで、話の流れ上致し方なかったとはいえ、人、それも妹なる存在に対して『所有格』なんて非人道的な言葉を使ってしまったことは、ここに訂正してお詫びしたいところだ。
別に彼は彼女を所有しているわけではない。
かの妹は格が違うのだ。文字通り。
むしろ彼女の方が彼を所有しているとも言える。
小日向真綾が小日向智悠の妹であるのと同時に——小日向智悠は小日向真綾の兄なのだから。
兄。妹。兄妹。きょうだい。
小日向智悠はふと考える時がある。
産まれた瞬間から自分の近くにきょうだいがいるというのは、はたしてどんな感覚なのだろうと。
産声を上げる。
世界に誕生する。
お母さん。
お父さん。
そして——誰だコイツ?
それは、小日向智悠には絶対に味わうことができない感覚。抱くことができない感慨。
当たり前のことだけれど、小日向智悠には約一年間、小日向真綾の兄ではない時期があった。一人の小日向智悠でしかない時期があった。
しかし、小日向真綾は違う。
産まれた時から——あるいは産まれる前から、小日向真綾は小日向智悠の妹だったのだ。
妹であることを宿命づけられていた。
それは——いったいどんな感覚なのだろう?
十数年もの長い年月をかけて、共に生き続けてきた二人。
喧嘩もした。絶交もした。同じ回数だけ仲直りもした。
共に過ごした年月分だけ、彼女のことなら何でも知っていると自負している。
好きな食べ物。知っている。
好きな花。知っている。
好きな色。知っている。
好きな動物。知っている。
好きなアーティスト。知っている。
好きな服の系統。知っている。
好きな元素記号。知っている。
好きな四十八手。知っている。
好きなバストサイズ。知っている。
好きなアダルトビデオのシチュエーション。知っている。
知っているはずなのに——立ち止まって考えると、ふとわからなくなる。
彼女の感覚が——彼女の気持ちが。
家にいる妹。学校にいる妹。
彼女は何を学んでいるのだろうか。
彼女は何のために学んでいるのだろうか。
やりたいことは?
将来の夢は?
わからない。兄なのに。兄妹なのに。
そんな関係はもはや、他人なのではないだろうか。
血は繋がっているけれど。
あるいは血が繋がっているだけの——赤の他人ではないだろうか。