幕間 『学年二位の懊悩』
——ちゃぽん。
それほど広くはない浴室に、水滴の落ちる音が響いた。
「——」
普段は下ろしている長い黒髪をタオルで器用にまとめ、少女は白く濁った湯舟へとゆっくり身を沈めていく。
途端、温かく薄い膜で全身を包まれる感覚。
「——ふう」
その得も言われぬ心地よさに身を預けながら、少女——篠宮雪菜は短い息を漏らした。
入浴は雪菜の好きなことのひとつだ。特に最近は、学校から帰ると早々にお風呂へと直行しているくらい。
今年の梅雨は例年に比べて長引いており、蒸し暑くジメジメした空気は鳴りを潜める気配もない。いくら部活動で帰りが夜近くの時間帯になるとはいえ、歩いているだけで全身が汗だくになってしまうのだ。
そんな状態では、とてもじゃないが快適なおうち時間は過ごせない。そんなわけで、帰宅後の入浴タイムはもはや雪菜のルーチンワークになりつつあった。
「——」
乳白色に染まったお湯を片手で掬い上げ、もう片方の肩から肘、指先へと丁寧にかけていく。終わったら反対の腕を持ち上げて、もう一往復。
肌に塗り込むように指を這わせると、触れた箇所から入浴剤のほのかな香りが鼻腔をくすぐった。
お気に入りの入浴剤だ。香りを嗅ぐだけで身体の内側から疲労が抜けていく感じがする。気持ち良い。
続けて、肩から二の腕にかけてのマッサージ。掌に伝わる固い感触から、思いのほか自分の身体が凝ってしまっていることに気づいた。
「ここしばらく、忙しかったからかしらね……」
色々あった中間試験は無事終わりを迎えた。けれど、それからまだ一週間しか経っていない。試験期間中に蓄積された疲労が、今になって一気に襲ってきたのだろうか。
こと勉強に関しては優等生である雪菜は、テスト勉強というものをそれほど苦にはしていない。しかし、今回に関してはいつもと事情が違っていた。
なにせ自分の勉強と並行して、どうやって高校に入学したのか検討もつかないような教え子の面倒をも見ていたのだ。慣れないマルチタスクに、知らず知らずのうちに疲れが溜まっていたのだろう。
一応は部活停止期間だったのだから、今回の依頼を雪菜は断ることもできた。受験生の手を煩わせる負い目もあるだろうし、仮に断ったとしても彼女たちは納得していたはずだ。
しかし、彼女は断らなかった。断るわけがなかった。
そうして雪菜は、持てる力を総動員して今回の依頼に当たった。真綾が着実にステップアップできるように緻密な学習計画を立て、自らの知識と勉強法を叩き込んだ。それが合わないと悟るやいなや、インターネットを駆使して彼女に合った勉強法を調べ上げた。
その類稀なる努力の結果、赤点まみれだった真綾の脳味噌を平均点レベルにまで押し上げたのだ。
それもこれも全ては、今回の件が他ならぬ彼からのお願いだったから。
「——智悠君」
頭に思い浮かんだ愛しい後輩の名前を呟く。その声色がひどく切なげに響いて、自分で自分の発した言葉に驚いた。
普段から智悠のことばかり考えている雪菜だが、こうして一人でいる時に物思いに耽るようなことなどほとんどない。むしろ、明日はどんな冗談でからかってあげようかと、ドキドキワクワクするのがいつもの彼女なのだ。
それなのに、今しがた彼の名を呼んだ自分の声は憂いに満ちていて。それはひとえに、今日の出来事が原因に違いない。
「今頃は、樋渡さんと一緒にいるのかしら……」
ホームルーム終了後に、智悠から楓に用があるから今日の部活動は休む旨の連絡があった。ハナも何やら予定があるようだし、一人で部室にいても仕方がないので、顧問の許可を取って今日の有志部は臨時休業にしてしまったのだ。
それにしても、楓に用事とは一体なんだろう。
中間試験は一週間前に終わっているし、今更あの二人が会う必要などないはずだ。それも、わざわざ部活動を休んでまで二人きりで。それに風の噂で聞いたところでは、あの奥手な智悠が一年生の教室まで誘いに行ったらしい。
まさか、勉強会を経て交流を深めた二人はしだいにお互いを意識するようになり、やがては男女の仲に発展して——、
「——っ!」
脳裏に浮かんだ最悪の想像を振り払うように、雪菜は湯舟から立ち上がった。勢いで、頭に巻いていたタオルがはらりと落ちる。
それにも構わずつかつかと湯舟を離れ、雪菜は頭からシャワーを浴び始めた。ハンドルを回し、温かな滝へとその身を委ねていく。
——この時間こそが、雪菜がお風呂を好む理由のひとつである。
こうしてシャワーを頭から被っていると、徐々に思考がクリアになっていく。憑き物が落ちるとでも表現すれば良いのか——頭にかかった靄が晴れ、お湯とともに綺麗さっぱり流されていく感覚。
悩みごとや心配ごとを整理したい時にこうしてシャワーを浴びることもまた、雪菜のルーチンワークなのだった。
「——」
ゆっくりと研ぎ澄まされていく頭で、雪菜は考える。
大丈夫。冷静になれば何の問題もない。
そもそもあの朴念仁の智悠に限って、誰かとどうにかなることなどあるはずがないじゃないか。そんな青春の甘酸っぱさなんて、得意の皮肉で一笑に付すのが小日向智悠という人間だ。
大方、今回の中間考査の振り返りでもするつもりなのだろう。曲がりなりにも教師役を引き受けた以上、本番だけでなくアフターケアまで責任を持つべき——なんて、いかにも彼が考えそうなことだ。
普段は面倒くさがりで無気力なのに、変なところで律儀な男なのだ、あの後輩は。きっと楓も今頃拍子抜けしているに違いない。
アフターケア——そう、まさに『アフターケア』だ。
だからこそ——今回の彼は、あんな行動をとったのだろうから。
律儀で、真面目で、頑固で——ひどく優しい。
そうして推測の域を出ない強引な論理で自らを納得させ、しかしそれが特大のブーメランになっていることにはあえて気付かないふりをする雪菜だった。
「……それにしても、智悠君の勉強法はなかなか興味深かったわね」
昨日の放課後、部室で彼から打ち明けられた話を思い出す。
テスト作成者の癖を見抜くなんて、そんな斜め上のテスト対策をしている生徒がこの学校にどれほどいるだろうか。少なくとも、雪菜には思い付かなかった。
それは単純に、普通に勉強しているだけで点数がとれるからというのもある。しかし——まさか、テスト範囲表から『テスト範囲』以外の情報を読み取るとは。
口にするのは容易い勉強法だけれど、実行するのはかなり難しい。まず、全科目分の教師の特徴を把握するだけでもかなりの労力を費やすはずだ。あの男、普段は他人なんて興味ないなんて面をしているくせに、実はすごく周りを観察しているのでは。
しかも、その癖をテスト範囲と照らし合わせ、実際に出されるであろう問題形式にまで落とし込むなど——正論を言えば、その時間を普通の勉強に充てた方がはるかにマシである。
それはもはや受験対策の域だろう。雪菜自身、半年後に受験を控えた受験生だからわかる。例年の問題傾向を掴んで対策を練るのは、むしろ過酷な受験競争を勝ち抜くための常套手段だ。
けれど——まさかそれを定期テストで、しかも人間相手に『個人』レベルでやっているなんて。
一周回って、実はあの後輩が一番馬鹿なんじゃないだろうか。
「そう言えば、真綾さんがよく言っていたわね。智悠君は定期テストの点数だけはいいと」
当時は『賢さ以外に取り柄がない』ことへの皮肉かと思っていたが——これは字面通りの意味だったのか。
智悠の方法は、人となりを知ることができる、例えば学校の先生のような問題作成者にしか通用しないから。
「……ふふっ」
思わず笑いが込み上げてくる。なんとお粗末な伏線か。十中八九、真綾自身は前者の意味合いで言っていたに違いない。
それはともかくとして、ああ——やはり。
やはり智悠は面白い。
想像の斜め上をいく発想の凄さが。
それを鼻にかけることなく、人知れず愚直にこなしている健気さが。
それなのに、結局は可もなく不可もない微妙な成績に収まっている不器用さが。
それに——頼まれたら断れず、受けた以上は徹底して役割を全うする優しさが。
この胸を打って、心を掴んで離さない。
「——」
シャワーを止め、曇った鏡を静かに拭う。
そこに映るのは一糸纏わぬ自分の姿。
濡れていてもなお衰えない、高校生離れした美貌。
昔は大嫌いだった身体——今は、この世で二番目くらいには好きになった身体。
芸術家も唸る美術品のように均整のとれた顔。
毛先まで手入れの行き届いた艶やかな黒髪。
女性らしい凹凸に富み、豊満かつ引き締まった奇跡のプロポーション。
最高級のシルクのようにきめ細やかな白い柔肌。
十人中十人が振り返るほどの美少女——しかし、その心が向けられるのはたった一人。
篠宮雪菜。
学年二位——人呼んで『無冠の女帝』。
そんな不名誉な称号はどうでもいい。全然、全く、これっぽっちも気にしていない。
今更、あの女相手に勝てるなどと思い上がっていない。
だけれど、これは——この想いだけは。
一番を目指す道は、諦められない。
「——よし」
軽く頬を叩き、浴室を後にする。
部屋に戻ったらいつも通り、次に会ったらどんな冗談でからかおうか考えよう。今度はどんなツッコミで私を楽しませてくれるだろうか。想像するだけで胸が高鳴る。
丁寧に髪を拭くタオルの隙間から、ちらちらと覗かせる口許は笑っていて。
鏡に映った表情は女帝とは程遠い、まさしく乙女のそれなのであった。