第59話 『彼と彼女の後日談』
ゼロ距離少女——樋渡楓の前日譚は、そんな、仕込み落ちもどきの一言で幕が下ろされた。
途中、おっぱいだとか突然変異だとか、およそシリアスなシーンに相応しくない単語が聞こえたけれど、おそらく気のせいに違いない。
全体を通して、なかなか悪くないストーリーテリングだったのではなかろうか。
だけれど——今この場において、彼女に賛辞の拍手を送る者はいない。
それはそうだろう。ここにいるのは断じて観客などではないのだから——当事者なのだから。
物語の主役なのだから。
「——」
楓の独白を聞き終えて、智悠が真っ先に抱いたのは、たったひとつの感情だった。
それは例えば、『描写するのも憚られるようなガールズトーク』とは何だろうとか、自宅で彼女に抱きつかれた時に抱いた感慨は間違っていなかったのだとか、そんな些末なことではない。
それはもっとありきたりで、シンプルで、根源的な感情だった。
「いかがでしたか、智悠先輩?」
と、此度のストーリーテラーこと楓が、窺うような上目遣いでそんなことを訊いてきた。
智悠は顎にやっていた手を下ろすと、
「ん……ああ、悪くなかったんじゃないか。上手に喋れてたよ。偉い偉い」
「違いますよ。何で授業参観に来た父親風なんですか。そうじゃなくて、先輩のお気に召したのかってことです」
「ああ、そっちか」
「むしろそれしかないでしょう」
「……うん、それもわかったよ。——本当に、よくわかった」
「……そうですか」
訊ねてきたのは彼女の方なのに、楓の言葉にはどこか虚しさを感じさせる響きがあった。それは、まるで「わかって欲しくなかった」とでも言うように。
「流石はわたしの先輩ですね」
「そう言うと、まるでお前が優秀みたいに聞こえるんだけれど」
「そう言われると、まるでわたしが優秀じゃないみたいに聞こえるんですけど」
「ノーコメントで。……生憎、国語は得意科目なんだ。行間を読むのには慣れている」
そう、だからわかってしまった。
先の疑問の答えに辿り着いてしまった。
どうして楓が真実を黙っていたのか。
もっと言えば、どうして樋渡楓はこれほどまでに小日向智悠に固執しているのか。
——彼女が打ち明けてくれた楓物語に、わずかな、けれど確かな違和感があったから。
「……そんなところまでわかっちゃうんですか。できれば空気も読んで欲しかったです」
「空気は読むものじゃなくてなるものだぜ」
「自虐が酷い……」
憐憫の目でこちらを見てくる楓に苦笑を返し、智悠は改めて彼女が語った話を振り返る。
違和感とは、例えば事故が起こった後のこと。
その足で病院までやって来た楓は、自分にできることなど何もないと悟って踵を返したと言っていた。智悠の関係者ではない自分では、智悠と会うことなどできないのだと。
だけれど——関係と言うなら、二人の間には切っても切れないものがあるではないか。
それは奇しくも彼女自身が口にしていた——事故の当事者という関係が。
そのことを病院の関係者に話せば、少なくともあの時の智悠の容態を把握することは可能だったはずだ。
不自然な点は他にもある。
ミルクを助けたあの時、智悠は下校の途中だった——つまりは、制服を着ていたのだ。
当然、楓が通う高校と同じ制服を。
顔を覚えていたくらいなのだから、服装に目がいかなかったはずがない。そして制服を見れば、飼い犬を助けた男子が同じ高校だと気づいただろう。さらにネクタイの色を見れば、学年にも察しがつけられる。
だとすれば——たとえ事が終息した後でも、彼女は自力で『あの人』を探し出すこともできたはずなのだ。
この高校は各学年が七クラス、ひとクラスの人数は四十人前後。二年生に限定すれば、単純計算で該当者は二百八十人まで絞られる。
それでも大分人数は多いけれど、この場合、そこは大した問題ではない。それこそ登校初日にハナがやっていたように、空き時間に二年生の教室をひとつひとつ確認していけばいいだけだ。たった七回の作業量で事足りる。
だけれど、楓はそれをしなかった。
病室へも教室へも行かなかった。
何も動くことなく、一ヶ月の時を過ごした。
無論、そこまでする気概はなかったと言われればそれまでの話だが——おそらくそれは違う。
それはこの一月の間、楓とともに過ごしてきた物語が証明している。
彼女が、そんな情の薄い人間ではないことを。
そう。だからこそ——、
「この違和感ある事実が——その裏にある心が、お前が真実を黙っていたことの理由だ」
それはかつての彼女が抱いたモヤモヤの正体であり、奇しくも他ならぬ彼女自身が先に口にした言葉であり。
——笑顔の裏で、ずっと樋渡楓が抱え続けてきたであろう感情だった。
「……ごめんなさい」
と。
智悠が導き出した答えを受け、楓はそう言って頭を下げた。目を瞑った横顔に影がさす。
「全部、お話しした通りです。あの事故は、元はと言えばわたしの不注意が原因でした。……つまり、先輩があんな目に遭ったのはわたしのせいなんです」
「——」
「本当は、先輩んちで会った時に全部打ち明けて、謝るつもりでした。でも駄目だった……いざ話そうと思ったら、急に恐くなっちゃったんです。……本当のことを言って、嫌われたらどうしようって」
楓は続ける。
「先輩と会う度に、先輩と話す度にその気持ちはどんどんどんどん膨らんでいって、すると余計に話せなくなって。自分勝手ですよね。……本当に、自分勝手。……でも、それも今日でやめます」
楓は続ける。
「智悠先輩——小日向智悠先輩。今まで本当のことを黙っていてすみませんでした。ずっと騙していてすみませんでした。——酷い目に遭わせてしまって、すみませんでした」
楓は続ける。
「もう、迷いません。どんな言葉も受け入れます。どんな非難も受け止めます。そうされるだけのことをしたんですから。なぁに、これも『忠犬プレイ』の一環だと思えばチョロいもんですっ!」
そして楓は頭を上げ、精一杯の笑みを浮かべてみせた。
ああ、まただ——またこの笑顔だ。
全てを諦めて、何もかもを投げ捨てて、一切を終わりにしようとしているような、儚くて切ない微笑み。
物理的な距離は離れていないはずなのに、遠く、遠く感じられる歪な微笑み。
その不細工な笑顔はあまりにも不自然で、あまりにも彼女に不似合いだと思ったから——智悠は口を開いた。
「……お前の気持ちはわかった。じゃあ、僕からも言いたいことを言わせてもらう」
「——っ」
智悠の重苦しい呟きに、楓がびくりと身を震わせる。堅く閉じられた瞳が、彼女の本心を如実に物語っていた。
それに智悠は、やはり苦笑し。
大きく息を吸い、田園地帯いっぱいに響き渡るような大声で、言った。
「——すっきりした!」
——それは、楓の話を聞き終わってからずっと抱いていた、たったひとつの気持ちだった。
* * * * *
思えば、これまでずっと、樋渡楓には主導権を握られっぱなしだった。
いきなり抱きついてきたかと思えば、自慢のお胸で危うく窒息させられそうになったり。
その記憶も新しい翌日に再会し、勉強を教えるよう懇願されたり。
誠意やお礼とかこつけて、勉強会でも彼女はやりたい放題だった。
だからだろうか。
今の彼女の顔を見て、これほどまでに痛快な気分になってしまうのは。
「……は?」
智悠の一言を聞き、楓の口から間の抜けた声が漏れ出た。小さな口はぽっかりと開かれ、大きな瞳はさらに見開かれている。
阿呆面とは、まさにこの表情を指して言うのだろう。
「……い、いや、あの、先輩……?」
驚き過ぎて二の句が継げずにいる楓をスルーして、智悠は言葉を紡ぐ。
「あー、すっきりした。いやさ、ずっと、ずぅーっと不思議だったんだよ。お前という人間がさ。どうして初対面のはずの僕に絡んでくるのか、ずっと謎だった。ぶっちゃけちょっと怖かった」
智悠は続ける。
「僕はこいつといつ、どこで、どうやって出会ったんだろうってずっと考えてた。でも、違ったんだな……僕はお前と出会ってなんていなかったんだ。会うことはあっても、出会ってはいなかった。水卜の奴の言う通りだ。全くあいつは何者だよ……まあ十中八九、適当にそれっぽいこと言っただけだろうけど」
智悠は続ける。
「兎にも角にも、ようやく答えがわかったよ。ありがとうな、本当のことを話してくれて。あー、すっきりしたすっきりした。よし、じゃあ帰ろうぜ」
そう言って歩き出した智悠に、
「ちょ、ちょっと待ってください!」
楓が慌てて待ったをかけた。
振り返ると、勉強会での智悠がそうであったように、楓はこめかみを手でグリグリしながら何やら唸っている。
「あ、あれ? おかしいなー? 確かわたし、先輩に怒られる覚悟で話したんだけどなー? 『お前のせいで酷い目に遭ったんだぞこのおっぱい犬』って、学年二十位の語彙力で罵詈雑言浴びせられる覚悟でネタバラシしたんだけどなー?」
「学年二十位は『おっぱい犬』なんて言葉は使わない。というか誰も使わない」
「何なら『許して欲しいなら……わかってるよな?』とか言われて、このまま先輩んちで原義通りの初体験をすることになるのかと」
「破瓜じゃなくて馬鹿だな。いいから早く行こうぜ。いつまでも立ち止まってると変な目で見られる」
「それは先輩のせいじゃないですか! え、ちょ、ほんとにっ!? ほんとにこれで終わり!? そんな軽い話じゃあ……」
「——そんな軽い話なんだよ、樋渡」
「——」
唖然とする楓に、智悠は優しく語りかける。
「最初に言っただろうが。『どうして、話さなかったんだ?』って」
はじめから。
はじめから、智悠の思いはそれひとつだった。
「お前が話してくれたおかげで、その理由がわかった。心がわかった。樋渡楓という人間が——わかった。それで十分なんだよ。言うなら、どうしても思い出せないテストの解答をようやく思い出せた、みたいな感じだ」
ただそれだけの物語だった。
『何故かは知らんが俺に懐いてる後輩女子』が、『僕に懐いてくれる後輩女子』になる——ただそれだけの物語。もっとも、R指定がつく懐かれ方は御免蒙りたいところだが。
「というか、お前は僕を騙してたみたいに言っていたけれど、それは違うだろう。違うからこそ、お前はあの時、思わず犬のことを口走ったんじゃないのか?」
「そ、それは……」
思い当たる節があるのか、口ごもる楓。
そんな彼女の目を真っ直ぐに見て、智悠はぴしゃりと言い切った。
「だから、それを聞いて僕が怒るとか、そんなことはどうでもいい。お前が謝らなきゃいけないとか、そんなことも関係ない。言っただろう。全部終わった前日譚で、僕が——僕たちが生きているのは、始まった後日談なんだ」
だから。
「——だから、僕に恩を返さなきゃとか考えているのなら、それはとんだお門違いだ」
「——……先輩は、怒ってないんですか?」
「怒ってない。強いて言うなら、叱ってるんだ。そんでこの場合、僕が伝えたいことは……」
そこで一度、言葉を区切ると。
「——『ごめんなさい』よりも『ありがとう』の方がずっと嬉しいってことだよ。少なくとも、僕の場合はね」
「——ぁ」
この日初めて、楓は何にも飾らない顔になった。それはまるで、憑き物が落ちたかのような表情で。
不細工だった笑顔の仮面が、ベリベリと、ベリベリと剥がれ落ちていく。
そうして素の顔に戻った後輩と改めて向かい合い、智悠は慣れない微笑を浮かべた。
「だから、この件はこれでおしまいだ。そして、また始めよう。とりあえずは……そうだな」
今の二人を繋ぐものは、ひとつしかない。
「——中間テストの反省会からでも」
「——はいっ!」
先輩男子からの拙いお誘いに、楓はいつも通り、元気に明るく頷いてみせた。
——おそらく。
この時初めて、小日向智悠は樋渡楓との出会いを果たしたのだろう。
頷きを返し、智悠は歩みを再開する。
そんな彼の背中を嬉しそうにてててっと追いかけて、楓は隣に並んだ。
「あ、そうだ、先輩。中間テストで思い出したんですけど、先輩にお見せしたいものがありまして……」
と、楓が鞄から取り出したのは、手のひらサイズの一枚の紙切れ。
「ん……ああ、個票か」
渡されたそれは、中間考査の結果が載せられた個票だった。右上には小さく『樋渡楓』の文字がある。
そういえば、楓の結果はまだ聞いていなかった。ただ、ハナは全科目で平均点を突破していたし、本人曰く手応えもあったらしいので、大した問題はないだろう。
そう思いながら、各科目の点数に目を走らせた智悠は——、
「……は?」
ぽかんと口を開けた阿呆面のまま、その場で固まってしまった。
個票に並んだ点数は、全てが三十点未満——つまりは赤点だった。
平均点突破どころではない。
全ての点数が、その半分にすら達していない。
もう一度、今度はひとつひとつ丁寧に確認していく。しかし現実は無情にも、結果は同じだと伝えてくる。
現国も、古文も、数学も、英語も、世界史も、現代社会も、物理基礎も、生物基礎も、全てが赤点。
その小さな数字たちに逆らうかのごとく、学年順位の方は見事に三桁の大台を叩き出していて。
「え、いや、ちょ、え……?」
受け入れ難い現実に、ただただ頭が混乱する。
——テストに十全を期すため、智悠は勉強会で秘密裏に『テスト対策法』を伝授した。それが見事にハマり、ハナは全科目平均点以上という快挙を成し遂げたのだ。
それが楓にはハマらなかったのだろうか。いや、もしそうだとしても、流石に全科目赤点はあり得ないだろう。雪菜と話したように、彼女の基礎学力は着実に上がっていたのだから。
というか、他でもない楓自身が報告してくれたではないか。『手応えしかない』と。
それに何より——試験前日、智悠は言った。
精々いい点を取ってくれ。
それが唯一望むお礼だ。
もし樋渡楓が小日向智悠を求め続けた理由が、智悠が推測した通りなら——この結果はあってはならない。
とすると、これは——、
「——先輩」
俯いて、再び思考の海に沈み始めた智悠を呼ぶ声がする。
視線を上げると、ゼロ距離に可愛らしい顔があった。
「——っ!」
思わず身体を仰け反らせる。
すると空いた距離を埋めるように、楓は一歩、こちらに歩み寄った。
そして——、
「……智悠先輩。あの時は、わたしの大切なものを守ってくれて、ありがとうございました。……それから」
さらに一歩、二歩と距離が詰められる。
これまで離れていた分を、全部取り戻さんとばかりに。
再び身を引こうとするも、何故か足は動いてくれなかった。
魔法にかけられたように。
魔性に魅せられたように。
動かなかった。
楓は、そんな智悠の耳元に唇を近づけると——、
「——これからもよろしくお願いしますね。せんぱいっ♡」
「——」
クスリと。
ゆっくりと身を離していくゼロ距離少女は、それはそれは似つかわしい、悪戯っぽい笑みを浮かべていて。
小悪魔が向ける蠱惑的な瞳が、甘く揺蕩う香りが、脳を蕩けさせ、智悠の思考は一瞬にして奪われていく。
そうして、空っぽになった頭の片隅で悟った——この少女は自分なんかより、一枚も二枚も上手なのだと。
もはや何も考えられない。
では、そんな不甲斐ない彼に代わって、ここにひとつの問いを設けよう。
——問題。
樋渡楓。
美少女。
高校一年生。
妹の友達。
馬鹿。
『自称』小日向智悠の小日向智悠による小日向智悠のための後輩。
そして——かつて智悠が、大切なものを守った少女。
いきなり馬乗りで身体を密着させてきて、勉強を教えるようねだり、勉強会ではふざけ放題、しきりに乳を揉ませようとし、頭を撫でると赤面して、授業料と称して半裸を差し出す、それなのに肝心のテストは赤点まみれ——そんな彼女の行動原理を五字以内で答えよ。
——ただし、句読点は含まない。
第4章『ゼロ距離少女ははなせない』無事完結! お読みいただきありがとうございました。
最後の一文で落としたかった、ただそれだけの物語——いかがでしたでしょうか。楽しんでいただけましたら幸いです。
続く第5章に関しましては、更新は未定となります。これには深遠かつ壮大な理由がありまして、端的に申し上げますと、どんな話を書くか全く決まっていないからです。
その代わりではありませんが、幕間を1、2編ほど書こうと思っています。残された問題を回収する、彼女と彼女のお話です。今後も読んでくださる方はお楽しみに。
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