第58話 『ゼロ距離少女の前日譚』
あの子の散歩は、小さい頃からわたしの日課なんです。
あの子っていうのは、もちろん犬のことですよ。確か、わたしが小学生の頃にうちに来て——先輩が助けてくれたわんこです。
名前は愛しの智悠先輩にあやかって、『ちっひー』っていいます……はい、嘘です。流石にそれは無理がありすぎますね。
小学生の時には先輩の存在なんて全然全くこれっぽっちも知りませんでしたから。地区も違いますしね。
先輩が言うところの、時系列の論理ってやつですか。
はい、本当はめちゃめちゃ無難に『ミルク』です。ミルクくん。真っ白い毛並みが印象的だったので。安直ですけれど、まあ、ペットの名前なんてそんなものじゃないですか?
……え? わたしが言うと卑猥に聞こえる?
それは流石に先輩の思考回路の方がおかしいんじゃないですかね……だって、当時のわたしは小学生ですよ。
純真も純真、超純真。おっぱいもまだ膨らみかけで、自分の身体が変化していくのが怖くて眠れなくなったくらいピュアな子でした。
お母さんはどちらかというと小ぶりな方ですしね。そうなんです。何を隠そう、わたしのこの自慢のおっぱいは中学からの突然変異……と、そんなことは置いといて。
話を戻しましょう。姦話休題、なんちゃって。
ミルクの散歩は、小さい頃からわたしの日課なんです。
夕方学校から帰って来ると、あの子、玄関で待ち構えているんですよ。「やっと帰って来たな。さあ、早く行くぞ」って。
なので、その足で一緒に外に出るんです——ちゃんと、リードを繋いで。もはやルーチンワークですね。
あの日もそうでした。
いつものように帰って、いつものようにリードを繋いで、いつものようにあの子と外に出て。
いつものようにいつものコースを、いつものようにお散歩していました。
だけれど——いつもじゃないことが起こった。ルーチンワークにイレギュラーが起こった。
ミルクが急に暴れ出したんです。
お散歩が大好きなあの子ですけれど、普段は割とおとなしい方なんですよ。なのに、何故かあの日に限って。
ほんと、犬の考えていることはよくわかりません。え? お前に言われたくない? 何を言っているんですか?
いきなりだったのでわたしもびっくりして、うっかりリードを離してしまいました。
何とか捕まえようとしたんですけど、あの子、超すばしっこくて。「待って」って叫んでも全然止まってくれなくて。
——何となく、嫌な予感はしていました。飼い始めた頃から、わたしの言うことはあまり聞いてくれない子でしたから。
そのまま道路に飛び出して。
トラックがやって来て。
そして——男の子が飛び出した。
——冴えない顔してるな、なんて場違いな第一印象を抱いたことは憶えています。
* * * * *
……先輩には申し訳ないんですけれど、その直後のことはよく憶えていないんです。何せ、本当に一瞬の出来事でしたから。
かろうじて記憶にあるのは、これまでの人生で聴いたことがないくらい大きな音がものすごく近くで聴こえた、くらいでしょうか。
急停止したトラックに、すぐ側で倒れたまま微動だにしない男子。
わたしは何が何だかわからなくなってしまいました。それが初めての経験だったので。
事故現場に出くわしたのも——その事故に、自分が関わったのも。
「ワンワン!」と足下で鳴き声がして、見れば、ミルクがお座りしながらこっちをじっと見詰めていました。
さっきまではあんなに逃げ回っていたのに。
トラックに轢かれそうになった事実なんて、まるで知らないみたい。暢気なペット野郎ですよ、まったく。
とにかく、ミルクの声で我に返ったわたしが次にやったことはひとつ。そう、もちろん通報です。
生まれて初めて119番にかけました。楓ちゃん、またもや初体験です。膜、ではなく殻を破りまくりです!
……そこは笑ってくださいよ。そんな、「破瓜じゃなくて馬鹿だな」みたいな目で見るのはやめてください。
えーっと、救急隊員の人は何て言っていましたっけ……確か意識不明とか心肺停止とか、そんなワードが聴こえたような気がします。物騒ですね。
でも、こうして今ここにいるってことは、あの時も先輩は生きていたんですよね。……あれ、先輩? どうして急に目を逸らすんですか?
え? 罪悪感って何のことですか?
……まあ、いいです。話を続けましょう。
救急車が行ってしまって、トラックの運転手は警察の人と何か話し出して……わたしは一人、その場に取り残されました。
救急車を呼んだ以上、わたしに他に何ができるでもなし。そのままミルクを連れて帰ろうとしたんですけど……わたしの足は、何故か動きませんでした。
磔になったように。
その場から動きませんでした。
こう、何というか……胸のあたりがモヤモヤするというか、嫌な感じがするんです。
それがずっと消えてくれなくて……気がついたら、病院の前まで来ていました。
このあたりでは一番大きい総合病院です。救急車で運ばれるとしたら、多分ここだろうなと思ったので。
……ただ、いざ病院に来たところで、やっぱりわたしにできることなんて何もありません。よく考えてみれば当たり前ですよね。
先輩の身内でも友達でもなければ後輩ですらないわたしは、先輩に会うことすら叶いません。そもそも、あの時の先輩がどういう状況だったのかもわからなかった。
生きてくれているのか、それとも——。
せめて無事でいることだけを祈って、諦めて今度こそ帰ろうとしたその時——あの子が現れたんです。
わたしのすぐ側を走り抜けて、わたしが入れなかった入口へと駆け込んでいきました。
はい、そうです。
此度のキーパーソン——まーやちゃんの登場です。
* * * * *
その時は、その子がまーやちゃんだってことは認識していませんでした。
何でしたっけ……ああ、そうだ。
認知されないことは存在しないことと同義、ですね。
まあ、その時のまーやちゃんは確かに存在していましたけど。
存在感がありまくりでした。
というのも、病院に駆け込むなり、受付のお姉さんに泣き叫んでいたんです。
「……いちゃんが……らっ……ひか……いて……」とか何とか、声がわたしの方まで漏れ聞こえてくるほどでした。はっきりとは聞き取れませんでしたが。
息が切れてて、汗もだっくだくで……ここまで全速力で走ってきたんだろうって、はっきりとわかりましたね。
どこかで見た顔だなーとは思ったんですけど、まーやちゃんだとは気づきませんでした。まして——それが、わたしが追い求めていた相手の妹だとは。
クラスメートじゃないのかって?
いやいや、仕方ないでしょう。まだ高校に入って——まったく新しい環境になって一ヶ月だったんですから。わたしだって、まずは自分の地盤を固めるのに必死だったんです。クラスメートの顔だって、友達になった人くらいしか覚えていませんよ。
あ、その辺は先輩もわかってくれますか?
僕もクラスメートの名前と顔が未だに一致しない……って、いや、流石にそれはないです。先輩はもう少し人間関係を頑張ってください。もう七月ですよ。
ぶっちゃけ先輩はその気になれば……って、ああ、今はわたしの話ですか。
わたしの話——わたしの人間関係の話。
泣き叫ぶまーやちゃんを残してようやく家に帰ったわたしは、次の日からも普通に学校に行くことになります。
そりゃあそうです。愛犬が道路に飛び出そうが、それが原因で事故が起きようが、日常は待ってくれません。彼にもきっと訪れるはずの明日を——訪れてほしい明日を、わたしは過ごします。
祈りながら。
過ごします。
そうして月日は流れて——六月。
わたしの人間関係に、劇的な変化が起こりました。
月に一度の席替えで、小日向真綾——まーやちゃんと隣になったんです。その時には、病院で見かけたことはすっかり忘れていましたけど。
何かと馬が合ったわたしたちは、すぐに仲良くなりました。
……およ? どうしたんですか、先輩?
そんな、『推理が外れた』みたいな顔して。
……ははーん、わかりました。楓ちゃん、この問題は解けちゃいました。
先輩もしかして、わたしが先輩に近づくために妹であるまーやちゃんに接触した、とか思ってたんでしょう?
あ、その顔! 図星ですね!
違いますよー。大体、わたしは先輩の名前すら知らなかったんですよ? 先輩とまーやちゃん、顔もあんまり似ていませんし。
そんな発想が浮かぶとか、先輩ってやっぱり性格悪いですよねー。友達を作るためには、まずその性格をどうにかしないといけませんね!
はいはい、まーやちゃんに関しては、他意はまったくありませんよ。まーやちゃんに関しては、ね。
さてさて——いよいよクライマックス。
長らくお送りしてきた楓物語も、これがついに最終章です。
ある日の放課後のこと。
晴れて友達になったわたしたちは、まーやちゃんの家で一緒に遊ぶことになります。
家に向かう道すがら、世間話の延長で知りました。まーやちゃんにひとつ歳上で同じ高校に通うお兄ちゃんがいることと、その名前が『小日向智悠』だってことを。
そして——ついにその時は訪れます。
まーやちゃんの部屋で、描写するのも憚られるようなガールズトークをして。
何時間か経ったあたりで、「暗くなってきたねー」なんて、何の気なしに窓の外を見て。
——心臓が止まるかと思いました。
わたしが目撃したのは、うちの制服を着た男子が家に入ろうとしているところでした。
その人の顔に、見覚えがあったんです。
どこかで見た顔——どころではありません。
それは一ヶ月もの間、片時も忘れることのなかった顔。
身を挺してあの子を助けてくれた、冴えない顔。
玄関のドアが開く音がして、まーやちゃんが「お兄ちゃん帰ってきたみたい」って言った時——全部を思い出し、全部が繋がりました。
あの人とまーやちゃんが兄妹だということ。
一ヶ月前、病院で見かけた女の子はまーやちゃんだったこと。
あの時のまーやちゃんは、事故に遭ったお兄ちゃんを心配して病院に駆けつけたこと。
あの時のまーやちゃんの言葉が、「お兄ちゃんがトラックに轢かれたって聞いて」だったこと。
そして何より——あの人が生きていてくれたこと。
そう思った途端、色々な気持ちが一気に溢れてきて——部屋のドアが開いた瞬間、わたしは飛び出していました。
ようやく知ることができた、その名前を叫びながら。
あの時出会った彼に。
あの時会えなかった先輩に。
ダイブしたんです——さながら法定速度ぎりぎりのトラックのように。




