第56話 『小日向智悠と樋渡楓と』
『感情が理性を凌駕する』という表現が許されるのならば、その反対に『理性が感情を凌駕する』という表現も正当化されて然るべきであろう。
ずっと考えていた。
圧倒的な矛盾を突きつけられたあの時よりも——ずっと前から。
我が家で互いの肉体を重ね合った時も。
カフェで偶然見つけた時も。
勉強会でその距離をさらに縮めた時も。
盛んな学生らしいラブコメディーにうつつを抜かす傍らで、冷静に、ずっと思考は働き続けていた。
樋渡楓。
美少女。
高校一年生。
妹の友達。
馬鹿。
そして——小日向智悠の小日向智悠による小日向智悠のための、後輩。
気がついたら側にいて、当たり前のように側にいて、どうしようもないくらいに側にいる、ゼロ距離少女。
ずっと考えていた。
我が家で互いの肉体を重ね合わせられた時も。
カフェで偶然見つけさせられた時も。
勉強会でその距離をさらに縮められた時も。
僕は彼女と——樋渡楓と、いつ、どこで、どのように出会ったのか。
その始まりの最適解を、探していた。
かつて、かの中二病は言っていた。
何にでも理由はつくものだと。
だから——今こそ理由をつけてみせよう。
思春期が魅せる、眩しいほどの感情に。
笑顔の裏に隠された、淡く激しい情動に。
——理性でもって、終止符を打とう。
* * * * *
七月三日。金曜日。
中間テスト後の一週間も終わりに差し掛かった、その日の放課後のこと。
小日向智悠は、一人の少女と共に家路についていた。
一人の少女。
本来であればこの下校時間、彼の隣を歩いている女の子は真白ハナのはずなのだが——、
「——まさかのまさか、その役目をこのわたしが担うことになろうとは。……はっ! これはもしや、ついにわたしが先輩のメインヒロインに!?」
本日のお相手は金髪碧眼の幼女ではなく、赤茶色のサイドテールを盛大に揺らす、ギャル風の女子高生だった。
少女——樋渡楓は「勝ったな!」とガッツポーズをとり、キラキラした目をこちらに向けてくる。
何かを期待する乙女の瞳。
智悠はそんな彼女をしらっとした目つきで見返して、
「いや、勝手に盛り上がっているところ悪いけれど、僕にメインヒロインなんていないよ」
「うわぁ、色々と酷い人だなぁ……」
一転してしょんぼりと肩を落とす乙女だった。
逆に半眼で睨めつけられてしまう。
「智悠先輩はそういうのに憧れとかないんですか? そうは言っても年頃の男の子なんですし」
「別にない」
「まったまたー。好きな女の子をメインヒロインに据えたラブコメを妄想したりしてるくせにー」
「してないわ。僕の物語には僕しかいない」
「おぉ、何かカッコいい……でも、それって実質ぼっちってことですよね。ぼっちひろ先輩」
「ぼっちひろ先輩って言うな」
二人が並んで歩いているのは、普段の智悠たち小日向家一行が使っている通学路だ。
バスに揺られながら最寄りの駅まで、そこからは通い慣れた地元の道を自宅の方へと向かって行く。
スーパーマーケットやゲームセンターなど、商業施設が立ち並ぶ駅周辺はそれなりの賑わいを見せている。
しかし、そこから少し離れれば景色は一変、緑溢れる田園風景の中へと入っていくのだ。
さながらグラデーションのように、ゆったりと都会的な喧騒から田舎の長閑な空気へ移ろっていくこの瞬間が、智悠は昔から好きだった。
「……それにしても、あの時はびっくりしましたよ」
種類のわからない蝉の鳴き声に郷愁めいた心地でいると、隣の少女の声が耳を打つ。
振り向くと、楓はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべていた。
「あの時?」
「今日のホームルーム後のことですよ」
言いながら、楓の笑みはさらに深まっていく。
「先輩ってば、いきなりわたしの教室に突撃してきたと思ったら、『一緒に帰るぞ』なんて誘ってくるんですもん。いくら何でも展開が急過ぎです」
「そうかな。いやまあ、多少強引だったところは認めなくもないけれど……」
「そこは認めましょうよ。何でちょっと不本意そうなんですか」
「人を誘うのに慣れてないんだよ。大目に見てやってくれ」
伊達にクラスで万年ぼっちを貫いていない。先ほど一年生の教室に彼女を誘いに行った時も、実は心臓はバクバクだった。
他のクラスメイトたちがいる手前、何とか平静を装うのに必死だった。いらない見栄を張った罰か、今思い出しても情けなさ過ぎる。
楓はズビシッと智悠を指差して、
「まったく、本当にそれなですよ。強引だったこともそうですけど、みんなが見ている前であんなことをするなんて。おかげさまで、来週はクラスの女の子たちに色々訊かれること間違いなしですっ」
「マジか、それは悪いことをしたな……すまん。何とか適当にやり過ごしてくれ」
「いっそ清々しいくらいの他力本願ですね」
後輩は先輩に呆れたため息を吐き、こちらに向けていた手を口元に当てた。
「わかりました。ちゃんと『前世で死に別れたはずの人と現世で突然の再会、双方の親の取り決めで許嫁になり今はひとつ屋根の下で一緒に暮らしている』って説明しておきます」
「全部乗せするな」
「あれ、『前世で死に別れたはずの人と現世で突然の再会、両親が再婚して義理の兄妹になり今はひとつ屋根の下で一緒に暮らしている』の方が良かったですか?」
「良くない。お前、実の妹と友達のくせにそういうこと言うなよ……」
「なら『前世で死に別れた」
「まず真っ先に僕を殺すな」
暦の上では七月に入り、日も大分長くなった。夕刻が迫ったこの時間帯でも、あたりはまだまだ明るい。
梅雨明けはまだ先なので気候は穏やかとは言えないけれど、それでもふとした瞬間に夏らしい涼しげな風が吹く。
その向かい風と重なるように、犬を散歩させる女の子とすれ違った。
この近くの小学生だろうか。花柄の可愛らしいリードを手にぐるぐる巻きつけて、はしゃぎ回る犬に懸命について行く姿が何とも微笑ましい。
「それで」
と。
女の子と犬のペアを目で追っていた楓が、スッとこちらを振り向いた。
話題が変わる気配。
「その強引な先輩が、一体わたしに何の用ですか? どうしてわたしは、こうして先輩と一緒に帰らされているんでしょう?」
案の定、楓は本題に切り込んできた。
普段ならこういった閑話休題は智悠の役割なのだが、今回ばかりは彼女にとっても予想外の展開だったのだろう。
彼のための後輩を自称するゼロ距離少女。
これまで智悠は、女の子の魅力をフルに活用した彼女からの誘惑を事あるごとに押し返してきたのだ。
そんな『彼』からの急なお誘いに、彼女が困惑するのも無理はなかった。
「いや、まあ、その、何だ……」
咄嗟に適切な返答が思いつかず、言葉に詰まる智悠。
そんな彼の様子に楓はハッとした表情となり、
「まさか、このままわたしを家に連れ込むつもりですか!? 今度はベッドの上であの日の続きをしようと!?」
「は?」
「なーんだ、邪険に扱っているようで、実は楓ちゃんのナイスバディな魅力にノックアウトされてたんですね! んもー、先輩ってばむっつりスケベなんだからー!」
「いや、全然違うんだけど……」
「わかりました。先輩がそこまで言うなら、わたし樋渡楓、大人の階段を上る覚悟はできてます。今日こそがテスト最終日、保健体育の実技試験! 身につけた知識と技を存分に披露してみせましょう!」
「お前はまずけじめを身につけろ」
妹にやるように、軽く小突いて強めに「違う」と窘める。
「いたいいたい」
楓は小突かれた頭をわざとらしくさすりながら、ぷくーっと頬を膨らませた。
「んもぉー、先輩ってこういうノリはすこぶる悪いですよね。普段は結構ノってきてくれるのに」
「お前のノリが良すぎなんだよ。ったく……貞操観念はしっかりしとかないと、後々後悔するぞ」
「あっ、そのへんは大丈夫です。私がこういうムーブをかますのは先輩だけですので。むぎゅっ」
「寄せて上げるな、胸を」
ブラウスの深い谷間から目を逸らすように、意識して半歩先を行く。
「むー」
自慢のお胸をないがしろにされた後輩は、またもや不満げな様子だった。
「これもダメ……。前々から思ってましたけど、先輩には性欲というものがないんですか?」
「何だよ急に」
「だって、そうじゃないですか。可愛くておっぱいが大きい女の子がこんなにしているのにスルーするとか、並の男子なら考えられませんって」
「大盛の男子なんだろ。こう見えて、僕も食べ盛りの男子高校生だし」
「大盛ならここにありますよ」
再び寄せて上げる楓。
「だからやめろって」
「ほらまた……。まったく、わたしが『おっぱい』って口にする度に顔を真っ赤にしていた先輩はどこにいってしまったんですか」
「記憶を捏造するな。僕にそんな初心な時代は存在しない」
「それもどうかと思いますが……」
困惑したような声は聞こえないふりをして、顔が見えないのをいいことに智悠は軽くため息を吐いた。
そして思う——彼女の疑いは見当外れだ。
小日向智悠にだって、性欲の一つや二つくらいある。
その証拠に、中間試験前日——図書室で『お礼』と称して半裸の彼女に迫られた時は本当にまずかった。
司書の先生たちが帰ってこなければ、あのまま一線を越えていたかもしれない。
扇情的な下着だけの姿に柔らかそうな胸元、熱を孕んだ艶っぽい吐息。思い出すだけでドキドキする。
つい先日あんなことがあったばかりなのに、何故当の楓はこんなに平然と、新たな色仕掛けをしてこられるのだろうか。さらさら理解できない。
そう——理解できない不可解。
これこそが智悠の自制心の正体だ。
とかく、解らないというのは恐ろしい。
どうして彼女は平然としていられるのか。
どうして彼女はこうも無防備に迫ってくるのか。
どうして彼女は小日向智悠に固執するのか。
彼女の——行動原理は何だ。
その疑問を放っておけない理性が、智悠の情欲をすんでのところで堰き止めている。
「まあ、身近に雪菜先輩っていう爆乳の持ち主がいるから、それ以外の巨乳が霞んで見えているところもあるけれど」
というより、こちらが本丸かもしれない。
何せ、楓が大盛なら雪菜はメガ盛である。
値段もカロリーも倍以上だ。
いくら食べ盛りの男子高校生でも、迂闊には手が出せない立派な山脈。
無論、手を出すつもりなど毛頭ないが。それでは食べ盛りならぬただの盛りである。
クラスでは除け者の智悠といえど、獣ではない。
「先ほどから、わたしのおっぱいに関してものすごく失礼なことを言われている気がするんですけど」
「気がするってことはそうじゃないってことだろ。そんなことより樋渡、お前の家もこのあたりなのか?」
「露骨に話題を逸らしましたね……まあいいですけど。ええ、そうですよ。わたしの家もこの辺です。先輩の家と地区は違いますが」
「ふーん……」
とりあえず訊いただけの質問だった。
ぼっちひろ先輩の拙い誘いに応じ、こうして律儀に帰路を共にしているのだ。彼女の家も小日向家と同じ地域にあることくらい容易に想像がつく。
今の今までまったく知らなかったが。インターネットが発達した現代、リアルのコミュニティの繋がりなどこんなものだろう。
とはいえ——これで。
条件は、大方、出揃った。
だから——そろそろ、幕引きといこう。
始まりの不確かな物語に、確かな終わりを与えよう。
「それより先輩、いい加減そろそろ教えてくれてもいいんじゃありません? 一体わたしたちは何を——」
「——着いたぞ」
機を見て再び本題に戻ろうとした楓を遮り、智悠はそこで足を止めた。
「え……」
つられて楓も立ち止まり、困惑した様子であたりを見回す。
「ここって……」
智悠が楓を連れてきた場所。
そこは智悠の家でなければ楓の家でもなく、ましてやベッドの上でももちろんなく。
——そこは、道路だった。
左右遠方を田園風景に囲まれた、何の変哲もない、ただの往来。
見慣れ、歩き慣れた通学路の一角。
——だが、智悠にとって今やここは、ただそれだけの場所ではなく。
「……樋渡。実は僕、この場所で交通事故に遭ったことがあるんだ」
智悠は言う。視線は路上を向いたままで。
車がやってくる気配はない。今この瞬間、この場所には二人しかいない。
「……」
先輩の唐突な独白に、楓は何も言わない。
ただ黙って、続きを待っている。
「二ヶ月くらい前、道路に飛び出した犬を助けようとして……トラックに撥ねられた」
「……はい、知ってます」
そう、知っている。
彼女はそれを知っている。
「何とか一命は取り留めたけれど、結構な重傷だったらしい。……ああ、でも、今は何ともないぞ。後遺症もない。むしろ、事故に遭う前より元気なくらい」
後半は本当のことだが、前半部分には些細な、されど大き過ぎる嘘がある。
実際の智悠はあの事故で命を落とし、金髪碧眼にして巨乳でロリな女神様に天界へと召喚された。
そして人生が終わり——人生が始まった。
「そう、ですか……」
楓は言う。それはとりあえず発しただけのような、酷く乾いた言葉だった。
「——」
目を閉じる。あの日のことを思い出す。
田畑。自転車。犬。トラック。
やがて聴こえてくる耳鳴りのようなブレーキ音、誰のものかもわからない悲鳴——否。
誰のものかは、わかっている。
「……ところでさ、樋渡——樋渡楓。つかぬことを訊くけれど」
そして、智悠は振り返った。
樋渡楓を振り返った。
「——お前んちの犬は、元気にしているか?」




