第52話 『問題の終わりと答えの始まり』
とかく『試験終わり』というのは、学生諸君にとっては得も言われぬ特別なひと時である。
この瞬間にしか感じられない、得られない感覚、感情、感慨が——そんな非存在が、そこには確かに存在している。
まずは、なんと言っても解放感だろう。
艱難辛苦極まるテスト勉強からの解放は言わずもがな、それは試験を控えた時期ゆえの、どこか張り詰めていて落ち着かない空気感からの解放をも意味する。
もう徹夜しなくていい。もう一切の娯楽を遮断しなくていい。もう不安に頭を悩ませなくていい。
もう何も考えなくていい。
全ては終わったことなのだから。
パスカルが聞けば卒倒しそうな体たらくを晒したところで、この圧倒的な解放感の前では人は皆無力。『考える葦』であるならば、『あえて考えないようにする葦』も正当化されて然るべきだろう。
続いて享受されるのは、満足感や充足感といった類のもの。
日夜机に向かい続けた時間が見事に結実し、確かな手応えを得た時のあの感覚は如何ともしがたい。加えて『ここ、ゼミでやったところだ!』という台詞が決められれば万々歳。
手っ取り早く『努力は必ず報われる』を体験できるとは、テストもなかなか馬鹿にはできない(ダブルミーニング)。
こちらは解放感とは違って限定的ではあるけれど——だからこそ、それが得られた時の快感は計り知れないものがある。
と、こんな具合で——兎にも角にも、テスト終わり。
それは青き春の時代にしか体験し得ない、享楽極楽喜悦愉悦、あらゆる『快』が綯い交ぜになる絶対時間なのだ——。
「——その気持ち、痛いほどわかるわ。私も今回の試験日程が終わった瞬間、軽く絶頂ってしまったもの」
「僕には先輩の気持ちが気持ちいいほどわかんないです」
七月二日。木曜日。
波乱の六月が終わり、暦の上では七月に入った。
梅雨明けにはまだ遠いくせに、夏の本格化に向けて気温もぐんと上昇していくこの季節。
クーラーを効かせた部室にて、小日向智悠と篠宮雪菜は、放課後の部活動——という名目のティータイムに興じていた。
雪菜が淹れてくれた紅茶を啜りながら、一定のペースで手元の文庫本のページを繰る。
思えばこの場所を訪れるのも、もっと言えば彼女と顔を合わせるのも随分と久しぶりだ。
テスト期間中は部活動自体が停止していたし、先の『波乱』の根源——勉強会もまた、雪菜とは別行動をとっていた。
そう思うと、この安らかな時間にもどこか懐かしさを感じる。
「——」
こちらと同じく活動を再開した野球部、バットの奏でる軽快な金属音が耳に心地いい。離れた音楽室からは、見事な統制がとれた吹奏楽部のアンサンブルが聴こえてくる。
それらをBGMに、紅茶の香りに包まれながら、十数万字の文字列が紡ぐ物語へと身を委ねる。
帰ってきた日常に郷愁めいた不思議な感覚を味わいつつ、智悠は手元の文庫本から視線を上げた。
「……で、何の話でしたっけ?」
「私のイグニーの話」
「マジでありそうな単語だな……」
「もしくはエグニーでも可」
「さっき『軽く』って言ってませんでした!?」
あまりの衝撃に矛盾したツッコミをしてしまったけれど、それも致し方あるまい。流石に、神聖な学び舎で美少女の口から『エグニー』はマズいだろう。
雪菜は読んでいた本に栞を挟むと、ちらと智悠に視線を向ける。それから呆れたような吐息を漏らして、
「何を言っているの。『エグ』は『エグザミネーション』の『エグ』じゃない。初歩中の初歩の英単語よ」
「いやそんな常識みたいに言われても、もともとが造語なんですけど……って、それだ」
「エグニー?」
「そっちじゃなくて。試験の方です」
智悠の方も文庫本を閉じ、こほんと咳払いをして仕切り直す。
「ほら、中間テストから今日で一週間じゃないですか。そろそろ結果が出揃った頃かなと思いまして」
何気ない調子で言うと、雪菜も「ああ」と応じる。
「そうね。私のクラスは全科目が返されているわ」
「僕もです」
——先週の水曜日から金曜日にかけて、三日間に及ぶ試験期間の全日程が終了した。
この学校では、試験期間の後一回目の授業は全て答案返却と問題解説の時間にあてられる。時間割の都合はあるが、一週間もすれば大方の試験結果はわかるシステムになっているのだ。
教室でも、最近はテスト結果に関する話題で持ちきりである。クラスに友達のいない智悠は、一人己の点数と向き合うだけの時間だけれど。
兎にも角にも、そろそろ有志部でもテストの話題を出してもいい頃合いだろう。
「先輩はどんな具合でした?」
訊くと、黒髪の上級生は何てこともなさそうに、その細い肩を竦めて答えた。
「まあ、いつも通りね。大して変化はないわ」
「となると……また学年二位ですか。相変わらず凄いですね」
「……何だか含みのある言い方ね」
「他意はないですって」
感嘆の声を漏らす智悠、その賛辞の言葉に額面以外の意味はない。
篠宮雪菜——万年二位の『無冠の女帝』。
万年二位と聞くと多少の残念感は否めないが、それでも絶対評価では十分過ぎるほどの偉業なのだ。
入学以来、その地位を譲ったことがない秀才。今回の中間考査でも、その明晰な頭脳を遺憾なく発揮したらしい。
「でもそうなってくると、どうしても一位が気になりますね。噂では一位も入学以来替わっていないみたいですけど、本当なんですか?」
「本当よ。入試も含めて、現生徒会長がずっと独占しているわね」
「マジですか……」
智悠のような凡人からすると二位の雪菜だけでもお腹いっぱいなのに、もはやそこまでくるとわけがわからない。
確か、我が校の生徒会長も女性だったか。集会や式典で何度か姿を見ている記憶はあるが、はっきりとは思い出せない。正直名前もうろ覚えだ。
今度見かけた時には、是非ともその英傑ぶりを拝もうと心に決める。
まだ知らぬ女傑に思いを馳せていると、
「ところで」
と、雪菜が怪訝な顔を向けてきた。
「テスト、智悠君はどうだったの?」
「僕も大台の一桁順位……と言いたいところですけど、残念ながらいつも通りです。可もなく不可もなくって感じ」
智悠の成績も今までと比べて大した変化はない。大抵は平均点レベルで、得意な科目は結構取れている。良く言えば要領が良く、悪く言えば凡庸。
それを聞いた雪菜はふふっと微笑んで言う。
「智悠君らしいわね」
聞く人が聞けば馬鹿にされているように感じる台詞だが、そんな気はしない。彼女がそんな意図で言ったわけではないとわかっている。
けれどそれはそれで、何だか見透かされているような気がして気恥ずかしい。難しい男心だ。
「まあ、『頑張って』と言われましたしね。僕も適当に頑張ると宣言した以上、それなりには」
若干の照れを含んだ後輩の言葉に、黒髪美女の微笑みはさらに深まった。
そうされると、今度は背中の辺りがむず痒い。それを誤魔化すように軽く咳払いし、話題を変更する。
「……というか、今回の懸念はそこじゃないですから。あの二人の方が問題です」
「ああ。真白さんと——樋渡楓さん」
雪菜の言葉に、首肯をもって返事とする。
そう。彼女たちの全教科赤点回避——それこそが、今回智悠が請け負った使命である。
そのためであれば、自身の結果など瑣末な問題だ。
自分の成績を度外視してでも、それを完遂すべき理由が智悠にはある。進級だろうが進学だろうが、それができる『命』があってこそなのだから。
彼女たちからの依頼は、確実に果たさねばならない。
「……驚いた。随分と熱心なのね」
そんな裏事情を知らない雪菜は、智悠の態度に驚き半分感心半分といった様子だ。
しばらく目を瞬かせていたかと思えば、再び桜色の唇が弧を描く。
「まあ、それもあなたらしいと言えばらしいけれど。部長として誇らしい限りだわ」
「いやいや……」
何だか変な誤解をされている気がする。だけれどここで下手に訂正するとややこしいことになるだろうし、かと言って本当のことを話すわけにもいかない。
「できれば、その情熱を私との夜に向けて欲しいところね」
「僕は夜は静かに過ごしたい質なんで」
あに図らんや、いつも通りの変態な先輩に助けられる形となった。
「……まあ、と言っても、あの二人に関してはぶっちゃけあんまり心配はしてないんですけどね」
「? というと?」
「まだ具体的な点数とかは知らないんですけど……試験日程が終わった後、既に二人から聞いているんですよ。——『びっくりするほど解けた』『手応えしかない』って」
連絡先を知らない楓に関しては、真綾を介した情報だ。しかし、そこでわざわざ嘘をつく道理もない。
雪菜もふむと頷いて、
「ああ、それなら私も真綾さんから聞いた記憶があるわ……っと、そうだ。思い出した」
そこで、記憶を探るように宙を泳いでいた彼女の視線が、おもむろに眼前へと戻される。
その瞳に映っているのは言うまでもなく——、
「その話を聞いた時、私、どうしても腑に落ちないことがあったのよ。今日はそのことを訊こうと思っていたの」
そう前置きをしてから、
「ねえ、智悠君」
彼女は言った。
「あなた——いったい、あの子たちに何をしたの?」




