第50話 『新米講師と女神と後輩と その2』
中二病少女の意味深長な置き土産にどれだけ頭を悩ませようと、時というのは無情にも——無常にも皆平等に過ぎ去っていく。
土日休みを跨いだ、週明けの月曜日。放課後。
中間テストまで残すところ、あと二日。
本日も図書室には智悠たち勉強会メンバーの姿があった。
テスト本番が着々と近づいているにもかかわらず、先週と比較しても利用者の数はあまり増えていない。今日も今日とて、放課後の知的活動に耽る文学青年然とした生徒が数人いるくらい。
よくよく考えてみれば、この高校には勉強にお誂え向きの自習施設が他にあるのだ。わざわざ特別棟最奥の図書室の門、もといドアを叩く輩は少数派なのかもしれない。
そうでなくとも、常日頃からこの場所にはあまり人が寄り付かないのである。
この前配布された図書だよりにも、年々図書室の利用者が減少している云々、図書委員会や司書の先生の嘆きの言葉が記載されていた。
学年別、クラス別の図書貸出数も一緒に載っていたのだが、目にした智悠は我が校の図書室の過疎化具合に愕然としたものだ。
もちろんそれだけで読書量の低下に直結するわけではないけれど、知的空間が敬遠される現状は悲しくもある。
あるいは、ただ単に存在が認知されていないだけかもしれないが。彼のように。
「……ふっ。教科書の知識だけが全てじゃあないんだぜ、優等生どもよ」
「あの、そろそろ勉強会の方を始めませんか?」
ニヒルを気取った薄寒い声を一刀両断したのは、金髪幼女の可愛らしい声だった。
真白ハナはいつも通り斜向かいの椅子に座り、こちらを半眼で睨めつけている。
どこぞの愚妹と一緒に暮らしている影響だろうか、近頃のハナはこうして容赦のない視線や台詞を容赦なくぶつけてくるようになった。
基本的に折り目正しく純真可憐なところは変わらないのだけれど、時折毒を含ませた切り返しを披露する。
智悠も真綾も——もっと言うと雪菜をはじめ、これまで出会った人たちは皆言いたい放題言うタイプだったので、流石の女神も変わらざるを得ないということか——、
「……いや、割と序盤からそういう場面はあったな」
「? 何の話ですか?」
「素直な素質は素敵だなって話。でも、そうだな。そろそろ始めようか……って言いたいところなんだけれど」
怪訝な顔のハナを適当にいなし、智悠はそこで視線を彼女の隣に移動させる。
——そこにいたのは『陰』だった。否、楓だった。
陰の者と成り果てた樋渡楓だった。
常の溌剌とした雰囲気はどこにいってしまったのか、近くにいるだけで気がおかしくなりそうな瘴気が身体中からダダ漏れている。
しなやかな腕は卓上にだらしなく伸ばされ、生気のない虚ろな瞳はさながら空洞のように何も映していない。
酔い潰れた深夜の会社員を彷彿とさせる惨状。
かろうじて呼吸はしているようで、小さく背が上下する度に赤茶色の尾がかすかに揺れていた。
もっとも、そのサイドテールにも常のハリは感じられないが——今日は図書室に来た時からずっとこの調子である。
「どうしたんだよ樋渡。今日はやけに元気がないじゃないか」
この場に集合した時から数えて、都合十回目となる問いかけを繰り返す。
これまでその全てを見事に無視されてきた智悠だったが、今回は果たしてこんな変動が、もとい返答があった。
「どうしたんだ、ですと……?」
地獄の底から這いずるような、それは怨嗟と怨恨と怨念とがぐつぐつと煮込まれた声だった。カレーではないが酷である。
およそ華の女子高生が発していい声ではない。
楓は続ける。
「わたしがどうしてこんなことになっているのか……先輩は本当に心当たりがないんですか?」
「ど、どうだろう。心当に本当たりがあるような、ないような……」
噛みまくりだった。
このレスポンスだけを切り取ればやましい心当たりがあるのは自明の理だけれど(現にハナも訝しげに目を細めている)、しかし実際問題、智悠の側に心当たりがないのは真実である。
後輩女子の迫力に気圧されて、変な反応をしてしまっただけだ。こと樋渡楓に関するあらゆる事項について、智悠に心当たりなど存在しない。
ただ、中二病少女が言うところの『得意分野』——考えることなら出来なくはない。
心当たりはなくとも、当たりをつけることは出来る。
見当をつけよう。勉強会前の頭の体操だ。
「ふむ……」
頬杖をつき、智悠は眉根を寄せて思案する。
しかしそうして悩む素振りを見せたものの、この問題、そう答は難しくあるまい。
これでもこの小日向智悠、第二次成長期真っ只中の妹がいる身だ。
この時期の女の子が不機嫌になる理由など、理解ある兄は知り尽くしている。
そう——つまり正解は。
「……いや、この答は言えないな。たとえ今の僕が講師であったとしても」
「今の発言でわかっちゃいましたよ、先輩が何を考えているのか……。先輩はもっとリテラシーを学んだ方がいいと思います」
「自分で言うのもなんだけど、それを言うならデリカシーじゃないか?」
「似たようなもんでしょ。女の子の扱い方なんだから」
「無駄に上手いな……それで、当たってたのか?」
「ハズレです。大外れ」
べーっと舌を出して、楓は脇に置いていた鞄からあるものを取り出す。
テーブルの上にドンと置かれたそれは——キャンパスノートの山だった。
上から順に、世界史、現代社会、物理基礎、生物基礎。一年生で扱う社会系科目と理科系科目のノート全てがそこには積み上げられている。
楓はその山の頂をバンッと勢いよく叩くと、
「……これですよ、先輩。これが正解であり——全ての元凶です」
「……何ですか、これは?」
智悠が反応するより先に、ハナがノートへと手を伸ばす。
一番上の世界史のページをパラパラとめくったハナは、その中身に目を瞠った。
——そこに書かれていたのは、ただひたすらに『文字』だった。
年表に載っている最重要用語を筆頭に、その周辺情報が上から下まで、所狭しと並べられている。
他の三冊を見ても似たようなものだ。
どの科目も、覚えておくべきテスト頻出用語が何ページにも渡って羅列、羅列、羅列。
狭いA4サイズのノートの中で、まさしく知識の山が膨大に積み上げられていた。
ここまでの話の流れから考えて、この、傍目にもわかる重労働をやってのけたのが——、
「……やりましたよ、先輩。先輩に言われた通りに、わたし、やりました」
楓は低い声で言った——遡ること三日前。
水卜唯乃莉と、久しぶりに他愛もないやりとりを交わした金曜日。
放課後の勉強会が終わった後、帰宅して早々に智悠は真綾を経由して楓にとあるメッセージを送った。
『土日休み用。これから送るページの用語をノートにまとめておくように。智悠』
『業務連絡ですか!?』という彼女からの即レスを完全スルーして、四科目分の教科書、その重要箇所をまとめて送りつけた。
無論、全ては依頼達成のため。
全教科赤点回避を成し遂げるには、休日だろうが休んでなどいられないのだ。
むしろこちらが直接教えられない分、綿密かつ濃密なプランを練る必要がある。
「とはいえ、まさかここまでやるとは思ってなかったけど……」
ハナと同じようにノートを手に取り、パラパラとめくる。
どの科目も智悠が想定していたところが満遍なくまとめられており、これらを一読するだけで十分テスト対策が出来るレベルにまで達している。
もちろん、肝心の内容を覚えていなければ効果は期待できないけれど——そこは問題あるまい。
それを見込んだ上での、あの指示なのだから。
「まあ何にせよ、ご苦労だった。これでこの四科目に関しては何とかなるだろう」
智悠は続けて、
「よし、じゃあ勉強会を始めるか。今日は現国を攻めようと思うんだけれど……」
「ちょちょちょ、えええぇぇぇぇえええええっ!?」
ノートを元に戻してパンと手を打つと、楓が聞いたことがないくらい奇天烈な叫び声を上げた。
離れたところで読書に興じていた何人かの生徒が、何事かとこちらを振り向く。
それはそうだろう。突然の大声、迷惑行為もいいところだ。
カウンターに座る図書委員の瞳が、スッと細められたのがここからでもわかった。
それらの視線に平謝りを返しつつ、智悠は正面に向き直る。
そこには信じられない目でこちらを見る後輩女子の姿が。
彼女は周囲を気にするように智悠に顔を近づけ、
「『ご苦労だった』って、それだけですか!?」
「え……何が?」
「先輩の指示に忠実に従ってこんな重労働を二日でこなしたわたしに対する労いの言葉が、ですよ!」
説明的に言って、再びノートの山をぶっ叩く楓。
これまでに彼女が見せたことのない種の剣幕に、女の子リテラシー落第の智悠も若干たじろぐ。
「い、いや、言って一年の中間だし、そこまで範囲が広いわけじゃあ……」
「量の問題じゃあありません。質の問題なんです!」
何だか至極真っ当なことを言われた。
「先輩にはわからないんですか? ただひたすらに教科書を書き写すのがどれだけ苦痛な作業なのか……」
苦汁を滲ませた表情で拳を震わせる後輩、彼女の言葉はわからなくもない。
問題を解くわけでもなく、まして考えるでもない——ただ『覚えるため』だけの単純作業は、見かけ以上に神経をすり減らされる苦行だ。
しかも、肝心要の張本人は勉強する習慣を失ったお馬鹿さんときている。そう思えば、今日の彼女のらしからぬ惨状にも納得がいくというもの。
「ほんと最悪でしたよ。せっかくの土日なのに全然休めないし、日課の犬の散歩には出かけられないし、『ちひろとかえでのイチャ♡ラブ日記』の更新は滞ってるし……」
「最後にめちゃめちゃ不穏な単語が聞こえたんだが」
生まれてこの方、彼女とイチャ♡ラブした記憶はない。
「先輩のせいでわたしの脳のリソースが勉強三割、先輩の性癖十割になっちゃいました」
「僕の性癖で限界を超えるな。もっと健全、じゃなくて建設的なことに脳を使え」
「いや、そこじゃなくて勉強が三割になった方に注目してもらいたいんですけど」
「そこにツッコまなくてどうする……。まあ、うまい具合に海馬が活性化されてるってことだろ。いい傾向だよ」
「海馬? 何ですかそれ、新しいニチアサ?」
「『仮面ライダーカイバ』じゃねえよ」
先輩からのありがたいツッコミもそこそこに「海馬海馬……」と検索エンジンを稼働させていた楓は、程なくしてハッと我に返り、
「って、違あああぁぁぁぁあああうっ!」
再び素っ頓狂な声を上げた。
離れたところで読書に興じていた何人かの生徒が(以下略)。
「おいおい、今日のお前はやけにエキセントリックだな。そろそろ図書委員の子が視線で殺してきそうだから、そういうのは控えて欲しいんだけれど」
「海馬なんてどうだっていいんです! わたしが言いたいのは、先輩には責任があるってこと!」
「せ、責任?」
その単語が図書室に響いた途端、二人を見る周囲の目の色が変わった気がした。気がしただけなので、おそらく見間違いだろう。見間違いであって欲しい。
小日向智悠は静かに暮らしたい。
挙動不審に周囲を気にしつつ、声を潜めて問う。
「な、何だよ、責任って?」
「それはもちろん、一方的に無理難題を押し付けたことと、二日間の勉強を頑張った楓ちゃんに、『誠意』を見せる責任です」
我が意を得たりとばかりに豊かな胸を張る楓。
そこに先ほどまでの沈鬱な様子は一切感じられず、まるで全てがこの展開にもっていくための演技であったかのようだ。
「そんな、誠意と言われてもな……」
確かにたった二日で四科目の暗記は酷かもしれないと思わなくはなかったけれど、それもこれも全ては彼女からの依頼に応えるために必要だったことだ。
それに、そもそもこういう地道で地味な努力こそが『勉強』というものであり——、
「……いや、駄目だ。この考え方は駄目だ」
陥りかけた思考に手動でストップをかける。
努力が実を結ぶとは限らない。ただし成功者は皆努力している——なるほど、耽美で甘美な名言だ。
思わず身を委ねてしまいたくなる。
しかし——では、『努力』とは一体何なのか。
地道にコツコツと、忙しなく手を動かすことか。
地味な作業を繰り返し繰り返すことか。
No pain, no gain.
否——そんなものは所詮は共同幻想だ。
自分の価値観こそが全てだと信じて疑わず、他人にもそれを強要する、唾棄すべき愚行に他ならない。
やはり野に置け蓮華草。テスト問題のように、人にもそれぞれの最適解がある。
世間一般と樋渡楓はイコールじゃない。況んや小日向智悠をや。
人の心は、文型や時制のように単純じゃあないのだ。
「いやまあ、女神のあのトンデモ能力を聞くと、大分皮肉な感じではあるけど……」
けれど、小日向智悠は人間だ。
それも、その幻想——否、『現実』を『知っている』唯一の人間。
であれば、ここは彼女の言う通り、誠意を見せるべきだろう。
人間らしく——先輩らしく。責任を取ろう。
「……よしわかった、僕に出来ることなら何でもしよう。一方的に無理難題を押し付けたことと、二日間の勉強を頑張った楓ちゃんに、僕に出来ることなら、何でも」
智悠は言った。
『僕に出来ることなら』と前置きすることを忘れない、小心者の鬼軍曹だった。
「土下座か? それとも靴舐め? 流石に切腹は勘弁して欲しいんだけれど」
「むしろ土下座と靴舐めは出来るんですか……」
傍らでやり取りを聞いていた女神様が、ドン引きの表情でこちらを見ていた。
彼女の好感度がぐんと下がった気がするが、しかし、彼の捨て身のボケは不発に終わることとなる。
樋渡楓が要求してきたのは土下座でも靴舐めでもなく、ましてや切腹でもなく、誰にでも出来ることで、智悠にしか出来ないことだった。
「わたしの頭を撫でてください」
彼女は言った。その顔を、髪のように赤らめて。
「……頭を撫でる? そんなことでいいのか?」
「はい。あっ、何なら『胸を揉む』でもいいですけれど」
「頭を撫でたいです。撫でさせてください」
頭を下げて懇願した。撫でてくれと言わんばかりに。
ものの見事にドア・イン・ザ・フェース・テクニックに嵌った気がするけれど、おそらく気のせいだろう。彼女がそんな交渉術を心得ているとは思えない。
とまれ、そんな要望であればお安い御用だ。
想定していた『誠意』とは少々毛色が違ったけれど、伊達に十数年も兄貴をやってきていない。この手のスキンシップは幼少期の妹で慣れている。
「じゃあ……」
「——ん」
そっと瞳を閉じた楓、そんな彼女の頭へゆっくりと手を伸ばし——、
「……いや、ちょっと待て」
その髪に触れる寸前、伸ばしていた手がピタリと動きを止めた。
「……先輩?」
楓がゆっくりと目を開き、固まったまま動かない智悠に怪訝な顔を向ける。しかし、眼前の先輩男子の意識はもっと別のところにあった。
——これ、もしかすると物凄く恥ずかしいことをしようとしているんじゃないのか。
女の子の頭を撫でる。それも、神聖なる知的空間で。
先は勢いで「そんなことでいいのか」なんてキザな台詞を吐いてしまったけれど、図書室でこんな行い、そんなことどころか不遜なことだろう。
それに、そうだ。樋渡楓はただの後輩、突き詰めてしまえば他人なのだ。今更ながら、幼い妹を相手にするのとはわけが違う。
それこそ、存在不明の日記の一ページ目が綴られてしまう。
ここはやはり土下座か靴舐めか、いやもうこの際切腹も致し方あるまい、いや、そういえば彼女は「胸を揉んで欲しい」とも言っていなかったか、とすればここはあえて狙いを外してむしろ大胆におっぱいに特攻してグッバイすべきか——。
などと頭の悪い考えが脳内を駆け巡っていた思春期男子を、横合いから凛とした声が捉えた。
「——智悠さん」
向くと、声の主は『慈愛』を司る女神様。
真白ハナが、毅然とした面持ちでこちらを見つめていた。
交錯する視線。
その浅葱色の瞳に宿る真摯な光に、あの日あの時あの場所で言われた言葉がフラッシュバックした。
——ああ、わかったよ、ハナ。これも『そう』だと言うんだろう?
それが智悠に与えられた唯一にして絶対の使命。
後輩少女のお願いに、成就という名の救済を。
「……よし」
深呼吸をひとつ、意を決して智悠は再び手を伸ばしていく。そして——やんわりと、楓の頭に手を乗せた。
「——」
途端、掌を伝い、彼女の髪の感触が智悠の全神経を蹂躙する。
「ん……」
敏感な部分に触れられたように浅く喘ぐ楓。その妙に色っぽい声にも注意を向ける余裕がない。
真綿のように柔らかく、絹糸のごとく繊細な触れ心地。ハリがないなどとんでもない。丁寧な手入れが行き届いた『女の子』の髪だ。
少し揺らすと香る甘い匂いはヘアフレグランスだろうか。鼻先を掠める度、脳が痺れてくらくらする。
湧き上がる羞恥心と情欲とを必死に押し殺しながら、しばらくそうして赤髪を撫で続けた。
やがて体感で一時間、実質三十秒の時が経過したところで、
「あ、ありがとうございます……」
されるがままに身を任せていた楓が、俯きながら蚊の鳴くような声で呟いた。奥に覗く顔にはほんのりと朱が差している。
常の智悠であれば『お前がやれって言ったくせに恥ずかしがるなよ』とツッコんでいるところだが——そんな気持ちはついぞ湧いてこない。
彼の心を支配していたのはただひとつ。
「『忠犬プレイ』が冗談じゃなくなってる……」
我が部長、篠宮雪菜の勘の鋭さへの畏敬の念であった。
やはりあの黒髪美女は、相当に優秀らしい。




