第49話 『かかずらう患い』
——図書室にて通算二回目、実質一回目となる勉強会が開かれた翌日。金曜日。
中間テストまで残すところ、あと五日となったその日。
四限終了のチャイムが鳴り、教師の号令もそこそこに昼休みに突入したタイミングで、智悠は財布を片手に二年B組の教室を飛び出した。
その足が向かう先は一階、生徒用の昇降口脇に設けられた購買部。
昼食用のパンをいち早く確保するためである。
普段であれば妹の真綾が兄と居候女神と自分の計三人分の弁当を手ずから作ってくれるのだが、あに図らんや、今朝の台所に三つの弁当箱が並ぶことはなかった。
高校生にもなって何とも情けない話だけれど、今朝は小日向家三人揃って寝坊してしまったのだ。
放課後の勉強会だけでは足りないということで、智悠は夜深くまでハナに勉強を指南していたのだが、いつのまにか二人仲良く寝落ちしていた。
慣れない複数人での勉強会、あとはあの厚かましく喧しい後輩少女の煽りを受け、気がつかないうちに心身に疲労が蓄積していたのだろう。
そして、これは雪菜の計らいだろうか、真綾の方も昨夜は遅くまでテスト勉強に励んでいたようだ。
寝坊した智悠が急いで向かいの部屋を開け放つと、ローテーブルに突っ伏した姿勢でぐーすかと寝息を立てる妹の姿があった。
と——そんな経緯があり、本日は購買部のパンを余儀なくされたというわけである。
「私の学力の向上とお兄ちゃんの餓死を天秤にかけた結果、後者はやむなしと判断させていただきました」
とは、今朝の真綾の台詞だ。
事実を知らないとはいえ、一度は死んでいる兄に対して随分な物言いである。あの日流してくれた涙は嘘だったのか。
「おかしい。確か僕はあいつのために生き返ったはずなのに……」
それだけ、彼女の中であの事故が過去のことになってくれたということだろうか。だとしたら、ここは兄として喜ぶべきところなのかもしれない。
なんてことを考えながら歩いていると、やがて目的の購買部が見えてきた。
早めに教室を出たのが功を奏したようで、他に生徒の姿は見当たらない。これなら選び放題だ。
陳列された多種多様なパンの前で少しだけ悩んだ末、
「すいません。焼きそばパンと……あと、メロンパンをひとつずつ」
「はいよー」
注文を告げて料金を渡すと、三角頭巾を被った恰幅のいいおばちゃんが威勢よく応じてくれる。
男子高校生の食欲を考慮してか、渡されたメロンパンの方は他と比べて少しばかり大きかった。
……そっちはハナの昼食用なのだが。
ついでに買ってくると請け負っていたのだ。
だからと言って、今更「こっちを焼きそば多めのやつに交換してください」なんて言えるわけもない。仕方なくその場をあとにする。
すぐ近くに設置された自動販売機でパックのお茶を二本買ったところで、横合いから声をかけられた。
「——おやおや。これは奇妙な遭遇、略して奇遇だね」
唐突に聞こえてきた奇妙な言い回しに振り返る。
そこにいたのは、見るも痛々しい小柄な少女だった。
短めに切り揃えられた黒髪のボブカット。
お人形を思わせる、あどけなさを残した愛らしい顔立ち。
長めの前髪に隠されて片側だけ覗く大きな瞳は、真紅の輝きを放っている。
相も変わらずサイズの合っていない黒いパーカーを身に纏った目の前の少女は、ズビシッと智悠を指差すと、
「そこにいるのは何を隠そう、小日向智悠君じゃあないか」
「衝撃の事実みたいに僕の名前を呼ぶなよ……水卜」
残念さも極まった表現に辟易としながら、その名を呼んだ——水卜唯乃莉。
それが、この半端なく中二臭が漂う美少女の名前である。
彼女、水卜唯乃莉と知り合ったのは有志部の活動の一環だった。
遡ること数週間前、彼女は級友にして旧友——桜井紗織との間にあった蟠りのようなものを解消した。
その一連の出来事には智悠も一枚噛んでいたのだが、それが何かの役に立ったかと言われれば微妙なところである。
一応は女神のお墨付きをもらっているとはいえ——人助け。
それはさておき、あの一件以来、二人は学校で会えば挨拶をするくらいの間柄になったのだ。
智悠は二本のお茶を取り出しながら、
「こんなところで何してるんだ? 屋上は逆方向だぞ」
「君、ボクみたいな奴はあまねく屋上が好きだって失礼な勘違いをしていないかい?」
「違うのか?」
「違わない。でも残念。この学校、屋上はしっかり施錠されてて入れないんだ」
「ちゃんと行こうとはしたんだな」
「事実は小説より凡なり。何事もフィクションのようにはいかないってことさ」
相変わらず、当たり前のことをさも名台詞っぽく言う唯乃莉だった。息災のようで何よりである。
「ここに来たのは他でもない。目的は君と同じだよ」
そう言うと唯乃莉は智悠の脇を通り抜けて、先ほどまで智悠がいた購買部へと向かう。
どうやら普通に昼食を買いに来ただけらしい。
おばちゃんと二、三言話してから戻ってくると、彼女の小さい手にはフードパックに入れられたハムカツサンドが握られていた。
「……何か、懐かしいな」
パック一杯に詰められたミニサイズのサンドイッチを見て、自然とそんな言葉が漏れ出る。彼女と二人っきりで肉厚のそれを食べたのは記憶に新しい。
唯乃莉は手元に視線を落とし、
「いやー、あの時食べたやつが中々美味しくてね。以来、すっかりハムカツサンドの魅力に取り憑かれてしまったよ」
「ほーん」
智悠の方は当時の胃の容量的に割とキツく、彼女のように旨味を堪能できた記憶がないので、そんな生返事を返すことしかできない。
「今では三食ハムカツサンドさ」
「太るぞ女子高生」
「もはやハムカツ界のプロだよ、ボクは。これからは水卜・ハムカツ・唯乃莉と呼んで欲しい」
「ダサいミドルネーム」
「最近ブログも始めたんだ。タイトルは『ハムカツ・セイカツ』」
「しっかり韻を踏みつつダサい」
これまた懐かしい、カツはあっても中身のない軽口を応酬しているうちに、昼食目当ての生徒が続々とこちらに向かってくる。
唯乃莉が同じくパックのお茶を購入するのを待ち、二人は生徒の流れに逆らって歩き出した。
「……そういえば、あれから桜井とはどうなんだ?」
職員室を過ぎて中央階段に差し掛かったあたりで、ふと気になったことを尋ねた。
水卜唯乃莉と桜井紗織。
なし崩し的に和解したはいいが、その後の友人関係は上手く続いているのだろうか。
「どうもこうも、普通だよ」
あっけらかんと言ったかと思えば、唯乃莉の眉間には次第に皺が寄せられた。
「……まあ、やれ『パーカーを脱げ』とか『前髪を揃えろ』とか『口調を直せ』とか、顔を合わせる度に小言を言ってくるのは鬱陶しいけれど」
「あいつも苦労してるんだな……」
何とか矯正しようと躍起になっている彼女の赤ら顔が思い浮かぶ。どうやら仲直りしたはいいものの、病の方は容認するには至らなかったらしい。
未だ特効薬が開発されていない奇病だ。それもこの少女の場合、下手に空想の類でない分余計にタチが悪い。こればかりは自然治癒を期待するしかないだろう。
心中でイマドキJKに合掌していると、悩みの種である中二病患者が下からこちらを覗き込んできた。
その顔には何やら意味ありげな笑みが滲んでいる。
「それはそうと……君の方はどうなんだい?」
「? 何のことだ?」
「とぼけちゃって。ここ最近、女の子たちと随分面白そうなことをやっているそうじゃないか」
「……何故知っている」
「クラスの男子が騒いでいたよ。『学習室に四人の美少女に囲まれてるハーレム野郎がいた』って」
「見られてたのか……」
どうやら先生以外にも目撃者がいたらしい。あの日、他の利用者が一向に現れなかったのはそれが原因だったのかもしれない。
唯乃莉は尚もニヤニヤと嫌らしい笑みを湛えて、
「ボクと紗織の件があったばかりだというのに、君って奴は忙しないね。ラブコメ主人公の素質があるんじゃないかい?」
「そんな素質はいらない」
「やーい。アオハライダーやーい」
「茶化すなよ……そんな甘いもんじゃない」
「ふーん、というと?」
「実は——」
クラスメイトの証言だけでよからぬ勘違いをしている唯乃莉、そんな彼女に事の真相を説明する。
甘くて尊い青春劇などではない。あの場所で繰り広げられていたのは健全な高校生らしい勉強会と、健全な高校生らしくない下世話な会話劇だったのだと。
「——な? これでわかっただろ?」
確認の意図を込めて問う。
ふんふんと話に聞き入っていた唯乃莉は、やがて大仰に頷いたかと思えば、
「うん、よくわかったよ。ボクのクラスの何とか君が正しい証言をしていたってことがね」
「お前がクラスメイトの名前を覚えていない事実は空気を読んでスルーするとして、何でだよ?」
一体今の話のどこに、名も知らぬ彼の言う要素があったのだろうか。
「いやいや。いやいやいや。いやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいやいや」
「言い過ぎだろ。二歳児かよ」
「美少女たちと……いや違う、ちょっとエッチな美少女たちとお勉強だなんて、これがハーレムラブコメでなくて何だって言うんだい。もはやボクには君の声が『彼』の声に聴こえてきたよ」
「僕のキャラクターボイスは僕だよ。小日向智悠(CV.小日向智悠)だよ」
それに、軽々とハーレムと呼称されるのは心外である。特に構成員に異議を申し立てたいところだ。
一人は実妹だから論外として、残るはそもそも人ではない女神と甘酸っぱさのかけらもない黒髪痴女の先輩。
それに何よりも——未だに得体の知れない彼女。
樋渡楓。
美少女。
高校一年生。
妹の友達。
馬鹿。
そして——『自称』智悠の智悠による智悠のための後輩。
身に覚えのない酔狂な肩書きを名乗るあの軽薄な少女が、目下最大の不確定要素だ。
「ふむ。『何故かは知らんが俺に懐いてる後輩女子』か……。ははっ、これまたド定番な怪奇現象だね。君の場合に限り、さっきの言葉は訂正してお詫びしよう」
そして唯乃莉はカラカラと笑う——事実は小説より奇なり。
その意地の悪い態度に自然、憎まれ口がまろび出る。
「……ったく、他人事だと思って馬鹿にしやがって」
「だって他人事だもん」
「覚えのない奴に急にゼロ距離で詰められる気持ちがお前にわかるか?」
「出会って間もない同級生の女子をデートに引っ張り出した人に言われたくないな」
正論だった。クリティカルヒット。
程なくして、三階の中央吹き抜けが見えてきた。ここを右に曲がれば、二人が所属するB組とC組の教室がある。
他愛のない雑談タイムもこれにてお開きだ。
「……まあ、あれだね」
と、C組のドア前に差し掛かったところで、唯乃莉がおもむろに口を開いた。
「他人のよしみでひとつだけ言わせてもらうと——そうだな。出会うことと会うことは何もイコールじゃあないってことだ。案外、そのあたりに見落としがあるのかもしれないね」
「いや、どういうことだよ」
「それは自分で考えなよ。考えるのは君の得意分野だろう?」
挑発的な笑みを浮かべた中二病は、ガラリと戸を開いて。
「——何にでも理由はつくものだよ、小日向智悠君」
理由のないことしか言わない口から出たとは思えないほど、それは含蓄のある台詞だった。




