第46話 『お馬鹿が大渋滞』
その後の彼の行動は迅速だった。
「——とりあえず、先輩は二人の勉強を見てやってください。……おいハナ、ちょっとこっちへ」
頼れる先輩にその場は任せることにして、智悠はハナから詳しい事情を訊くべく学習室をあとにした。
別に室内で話しても良かったのだが、目標が決まってやる気も上がっている後輩たちの邪魔になっては申し訳ない。
後ろ手にドアを閉め、すぐ右手側にある階段へと移動する。
後ろをてこてことついて来る彼女の気配を感じながら、開けた踊り場まで降りたところで智悠は振り返った。
「……で、急に来てどうしたんだよ。ていうか、今の今までどこに行ってたんだ?」
まず確認すべきはそこからだろう。
今回の二人からの依頼、引き受けた場面にはハナも居合わせていた。
というか、最終的な意思決定をしたのは智悠だけれど、その過程には直截的に彼女も関わっているのだ。
だからと言って彼女にもこの件に関与する義務があるなんてことはないが、彼女が自負する役割上——そしてそれ以上に、他でもない『慈愛』を司るこの見習い女神の性格上、真白ハナがこの場に同席しないなどありえない。
「だってのに、ホームルームが終わったらすぐにどっか行っちゃったじゃないか。一体何してたんだ?」
尋ねると、ハナは瞳に浮かべた涙を拭いながら言った。
「……そのあたりのことも含めて、まずは見ていただきたいものがあるんです」
「見ていただきたいもの? 僕に?」
「はい」
そして、彼女はブラウスの胸ポケットから何かを取り出す。
それは小さく折り畳まれた一枚のプリントだった。
手渡されたA4サイズらしきそれを広げると、そこに印字されていたのは二十個の英単語。
「……英単語?」
唐突に持ち込まれた要素に首を捻る智悠。
だが、よくよく見てみるとある違和感に気づく。
というのも、今初めて渡されたもののはずなのに、その内容に何だか見覚えがあるのだ。
それもそのはず、何故ならこれは——、
「これって……、英語の小テスト?」
既視感のあるプリント、それは毎回の英語の授業で実施される英単語テストの用紙だった。
赤点ラインは八十点、大学受験に必須の重要単語だけを取り上げた『やればできる』簡易的な小テスト。
ついこの間、智悠自身も受けたものである。見覚えがあるのは当然だ。
確かあの時は、『この程度の小テストで落第するような奴は本当に勉強をしていないか、赤点を取ることに快感を覚える等の癖の持ち主としか思えない』なんて、今にして思えば嫌な奴感丸出しのことをつらつらと考えていた。
「どうしてこんなものを僕に……」
見せるのか、と言いかけたところでふと声が止まる。
紙の上に落とした視線は、記名の欄とその隣の採点結果に釘付けになっていた。
——可愛らしい丸文字で記された『真白ハナ』なる記名と、英語教師の無骨な字体で殴り書きされた『0』なる採点結果に。
それらを認識した途端、プリントを握る手が震え出す。
赤点ラインが八十点のテストで零点。
真白ハナ。
そして、数分前の彼女の台詞。
まるで数学の問題を解くかのごとく、瞬時に点と点が繋ぎ合わさっていく。
つまり、その事実が証明することとは。
「……おいおい」
——『彼女たち』は、絶賛お困り中ですよ。
あの時彼女が発した言葉、その真の意味だった。
* * * * *
——その後、事の詳しい経緯を彼女の口から聞いて。
「——つまりはこういうことか。ここのところ二日連続で職員室に呼び出されてたのは毎回の英単語テストの点数があまりに悪いからで、今日もずっとそのことで説教を受けていた、と」
切々と語られたその話を、智悠はそう総括した。
「……はい。そういうことです」
ハナの力ない声が踊り場に零れ落ちる。
『点数があまりに悪い』の部分にビクッと反応したかと思えば、すぐにしゅんと項垂れてしまった。
具体的にどのようなことを言われたのかは聞いていないけれど、どうやら相当な大目玉を食らったようだ。
思い出すのは一昨日のこと——自宅で樋渡楓と出くわした日、その帰り道。
あの時もこの女神は教師の誰かにどやされた直後で、かなり落ち込んだ様子だった。
あの場では疑問に思いつつもその理由までは聞かなかったけれど、何のことはない。
一昨日も昨日も今日も、この少女は三日に渡って教師に成績の悪さを叱責されていたというだけの話である。
何か重大な問題が生じたのかと密かに危惧していたのに、いざ蓋を開けてみれば何とも呆気ない幕引きだった。
「まあ、でも、この点数だもんな……」
改めて手元のプリントに目を落とす。
零点の英単語テスト。
聞いたところによると、ハナはこれまでに一度もこれ以外の点数を取ったことはないと言う。
つまりは五月にこの世界に降臨して高校に通い出して以来、彼女は常に最低点を取り続けてきたということ。
追試を嘆いていたクラスメートでさえ、流石にここまでの成績ではないだろう。
それに何より、こういう暗記系の小テストで点が取れない奴は、総じて勉強をしていない=不真面目なのだと見なされるのがオチだ。
「そりゃあ先生もご立腹だわな」
「うぐぅ……」
さもありなんとばかりに頷いた智悠に、ハナの愛らしい顔が盛大に歪んだ。
押し黙った彼女は、それから絞り出すように、
「……私、智悠さんに言われた『見極め』を実践してみたんです」
見極め。
怒られているのか、叱られているのか。
然るべき叱りか。
自覚——成長の一歩。
抽象的で観念的に過ぎる、その場限りで一度寝れば忘れるレベルのどうでもいいお話。
「先生が話されている間、頭の中でずっと考えていました。この方は私に何を伝えようとしているんだろうって」
「いやそんなシリアス口調で言われても、一言『勉強しろ』ってことだろ。学生時代を経た先生からのありがたいお叱りだよ」
「……うぐぅ」
深く考察するまでもない、自明の理である。
良い成績を収めるために勉強しましょう。
そんなのはピッカピカの小学生時代から言われ続けていることだ——況んや進学校をや。
しかしそれは裏を返せば、『学校に通っていた者』にだけ適用可能な理でもあって。
ハナもそのことに思い至ったのか、途端に早口で捲し立て始める。
「そ、そうですよね、学校に通ったことのない身分であれば勉強が出来なくても仕方ないですよね。例えば女神とかっ!」
「……君、初めてここに来た時、学校が一番の楽しみだって言ってなかった?」
「……ぎくっ」
「制服着て、遊んだり『勉強したり』してみたいって言ってなかった?」
「……あう」
「言ってなかった?」
「……だ、だって、こんなに難しいことだなんて思ってなかったからぁ……!」
ついには涙目で袖を引っ張られてしまった。
可愛すぎるし可哀想すぎる。
理想と現実のギャップに苦しむのはどの世界でも共通らしい。
「『子どもの心』。まあ、憧れだけで生きられるほどこの世は甘くないってことだ。良かったな、一つ賢くなれて」
「そんな賢さはいりませんよ……。英語だけじゃなくて他の授業も何を言っているのか全然わからないし……」
安易な慰めは逆効果だったようで、ハナは頭を抱えてその場に蹲ってしまった。
女神の高潔さなどかけらもない、そこにあるのはテスト前に自分の阿呆さを呪う女子高生の図。
「もう駄目です、私はやっぱり駄目な子なんです……。きっとこの世界でも大人に怒鳴られる毎日を送ることになるのでしょう……天界にいた頃のように……」
「いや、そんな大袈裟な」
「ああ、誰かこんな私に勉強を教えてくださる心優しい方はいないでしょうか!」
「……それが狙いかよ。いやまあ、何となく予想はしてたけどさ」
だからこその『私を助けてください』。
顔を覆った手の隙間からちらちらっと瞳を覗かせる彼女に苦笑を返し、智悠は思案する。
その特殊すぎる出自に引っ張られてクラスメートとの関係ばかりに気を取られていたけれど、確かに彼女の学力不足は問題だ。
読み書きと計算が多少できるだけの小学生が、いきなり高校レベルの勉強についていけるわけがない。
このままだと人間・真白ハナは学校きっての問題児として教師陣にマークされるのは確実。
流石にそれだけで正体がバレることはないだろうが、あまり悪目立ちするのはよろしくない。間違いなく今後の学園生活に支障をきたす。
そうなればボロが出るのは時間の問題だろう。結果、関係者である智悠の進退も危ぶまれ、下手したら一年の期限を待たずして——死。
「……よし。その役目、僕が引き受けよう」
およそ十秒に渡る脳内会議の結論を述べると、ハナはぱあっと笑顔の花を咲かせた。
「ありがとうございます! 智悠さんならそう言ってくれると信じていました!」
「白々しいな……」
真白だけに。
とはいえ、この状況は見様によっては渡りに船、それにその船には乗りかかっているときた。そう厄介なことではあるまい。
雪菜に習って勉強しているであろう真綾と楓に混ざれば、三人一斉に対応は可能だろう。
「そうと決まれば善は急げだ。早く教室に戻ろう」
「はい!」
希望と元気を取り戻したハナに連れ立って、階段を上へと戻る道すがら。
ふと、智悠の脳裏にとある疑問が降って湧いた。
「……そういえば」
前を行く彼女に問いかける。
半身で振り返ったハナは小首を傾げて、
「? どうかしました?」
「ずっと曖昧になっていたことだけれど……というか、あまりにその後の展開が自然過ぎてうっかり忘れそうになっていたけれど、ハナはどうやってこの学校に入り込んだんだ?」
「どうやって、とは?」
「一応は転入って名目だったけど、それだって試験があるはずだろ? うち進学校だし。その頭の出来でどうやって試験を突破したんだろうって」
多少言い方が酷いのは言葉の綾として、まさかこの展開で中学レベルであれば出来るなんてことは考えにくい。
しかし、現実に彼女は高校生・真白ハナとして目の前に存在しているわけで。
智悠の問いに、しかしハナの首の角度はさらに傾いていく。
「突破も何も……私、そんな試験なんて受けていませんけど」
「いやいや、そんなはずはないだろ。まさか校長が『可愛いからOK』って許可したわけでもあるまいし」
「か、可愛いだなんて、そんな……」
「照れないで。これネタだから」
しかし、だとすると、一体どういうことだろうか。
クエスチョンマークが乱舞する智悠の思考を、上から降りかかる咳払いが遮った。
「……こほん。その様子を見るに、どうやら私とあなたとでは認識の違いがあるみたいですね」
「認識?」
「そう、認識です。察するに、この学校に入るためにはその試験とやらに合格しなければならないのですよね? それがこの世界の規則だと」
「そうだけど……」
「しかし私はその試験を受けていない。けれど学校にいる。ならば答えは一つしかないでしょう。——つまり、学校にいる皆が、私が『試験を受けて合格した』と思っている」
「——」
「だから『認識』なんですよ。当事者であるあなた以外の皆が思っているんです。思い込んでいるんです。人間・真白ハナがこの学校に……、いえ、『真白ハナがこの世界に存在することは不自然なことではない』と」
真白ハナがこの世界に存在することは不自然なことではない。
それは当たり前の摂理であって、守られるべき不文律であって——超自然。
自然を超えた神秘こそが何よりの自然。
だと、皆が、否、世界が認識している。
皆が正しいと思っていれば——それが真実。
この世界が愛してやまない、多数決の原理。
「だから私がここに存在しているんです。より正確に言うのであれば、存在を認められているんです」
二重の意味で。
なるほど、もしそれが本当なら、戸籍等その他諸々の問題も難なくクリアできる。
そもそも存在する必要すらないのだから。
存在しないから、存在できる。
「……そんなことが可能なのか? そんな、その……マインドコントロールみたいな真似が」
「可能ですよ。神ですから」
ふふん、とどこか得意げに豊かな胸を張るハナ……と思ったら、次の瞬間にはガクリと肩を落としていた。
「……まあ、私は見習いなのでそんな力は使えないんですけど。というか、ただ一人……ただ一神を除いては、天界にいる誰も使えないと思います。かなり強大な力ですから」
「じゃあ、その唯一神ってのが……」
「全知全能の最高神・ルーナ=エンジェライト。つまりは私のお母様です」
幾度も聞いたその名前に、智悠は気が遠くなる感覚を味わった。
全知にして全能を誇る最上位の女神。
今この瞬間も遥か遠くからこちらを視ているであろう、マインドコントロールまで出来てしまうような存在。
そんな規格外が、彼の行く末を決める裁判官であるという事実に。
「こっわ……」
冷や汗を浮かべる智悠に、ハナは安心しろとばかりに柔らかい微笑みを返した。
「あまり心配しなくても大丈夫ですよ。認識改変もそうですが、本来女神が人間界に干渉するのは御法度ですし。今回は非常時ゆえの仕方のない処置だと思いますから」
「それって要するに、娘のためだったらトンデモ能力の行使も厭わないってことだろ? やっぱり怖……」
どちらかと言うとスパルタタイプの母親ではなかったのか。
こちらの世界で言うところの『学費は払ってあげるからあとのことは自分で何とかしなさい』みたいなものだとは思うけれど、それにしたってスケールが違い過ぎる。
改めて実感する非日常に戦々恐々としながら、二人は学習室へと帰還するのだった。