第41話 『カフェテリア・カルテット』
今でも耳に残っている。
あの台詞が、今もこの耳に残っている。
『——これからもよろしくお願いしますね。せんぱいっ♡』
耳元で囁かれたあの蠱惑的な声が、甘ったるい砂糖のような魔性の吐息が、脳の奥の奥にこびりついて、抱きついて絡まって重なって離れない——離せない。
夜も、朝も、授業中も、今現在だって、あの声がふとした瞬間にリフレインし、身体中を蹂躙する。
それはまさに、言の葉による熱い抱擁。
何度も、何度でも、深く、重ね、求め、まぐわい。
これからもよろしくお願いしますね。せんぱいっ♡
これからもよろしくお願いしますね。せんぱいっ♡
それは、そう。
こうして出会ったのも、あるいは再会したのも、はたまたいつも顔を合わせるのも、何かの縁。
だから学校で、この狭い世間で、もし仮に、万が一、また会うようなことがあったら——その時は、『妹のお友達』として、どうぞよろしくお願いします。
そんな、今後二度と会うことのないフラグめいた社交辞令——なんて、あまりにも牧歌的な考えが過ぎた。
——これから『も』よろしくお願いしますね。せんぱいっ♡
彼女はちゃんと、はっきりと、明言していたというのに。
「——まさか、昨日の今日で再会することになろうとは。奇縁もここに極まれりって感じだな」
「先輩、今ぴえんって言いました?」
「言ってねえよ。心情的には絶賛そんな感じだけど」
高校近くの喫茶店にて。
四人がけのテーブル席に腰掛けるは、智悠とハナ、そしてハナの向かい側へと移動した真綾。
それに何より——樋渡楓。
智悠の目の前でニコニコと微笑む、記憶に新しい後輩少女。
「で、お兄ちゃんたちは何でここにいるの?」
口火を切ったのは真綾だった。
智悠の方に顔を向けて、こてりと首を傾げている。
そんなことを訊かれても、喫茶店にいる理由などお茶をするため以外の答なんてない。
けれど彼女がそんな意図で尋ねたわけではないことは明白なので、智悠は素直に口にした。
揚げてもいない足を取るほど嫌味な行いはない。
「ああ、実はかくかくしかじかで……」
「かくかくしかじかって何?」
「そこは伝われよ。ハナにここのパフェが食いたいってせがまれたんだよ」
「あー、そういうことねー」
真綾が納得した様子で頷いたと同時、
「お待たせしました〜」
店員のお姉さんの高い声とともに、そのパフェがテーブルへと運ばれてきた。
「——わあ」
目的のパフェを目の前にして、ハナが大きな瞳を輝かせる。
その時々の旬のフルーツがふんだんに使われる『季節のパフェ』。
六月の今のメニューは、世界三大果実の一つ——煌めく黄金色が眩しいマンゴーパフェだ。
マンゴーアイスとクリームを下敷きに、瑞々しいマンゴーの果肉たちがこれでもかと上乗せされ、ダイナミックな花を咲かせている。
最上段からはたっぷりマンゴーソースがかけられており、まさにトロピカルワールドを体現した贅沢な逸品である。
「いただきますっ!」
気合の入った面持ちでスプーンを構える女神。
ソースのかかったソフトクリームを掬い、その小さな口へと入れた途端、
「ん〜っ」
と、それはそれは幸せそうに頬を緩ませた。
「とっても美味しいです!」
「それは良かった」
一口目の興奮もそのままに、ハナは二口目、三口目と一心不乱にパフェを食べ進めていく。
その様子を横目にしながら、智悠は差額970円のアイスコーヒーを口にした。苦い。おかしい、ガムシロは入れたはずなのに。
「ねえねえ先輩、この可愛くて小さくておっぱいが大きい女の子はどちら様ですか?」
と、向かいの楓が、ハナに聞こえないように顔を寄せ、そんなことを訊いてきた。
「どう見ても中学生……いや、下手したら小学生に見えますけれど、何故にそんな幼女が先輩と?」
「幼女って言うな。お前と同じ高校生……ていうか、お前よりも年上の二年生だよ。ほら、同じ制服着てるだろうが」
「てっきり先輩の趣味なのかと」
「小さい女の子に制服着せて連れ歩く趣味なんかねえよ」
未だ納得がいっていない様子で眉を寄せる楓に、智悠は仕方なく、『真白ハナ』についてのあれこれを話すことにした。
正体はもちろん、同居していること等は伏せて。
「実はかくかくしかじかで……」
「かくかくしかじかって何ですか?」
「お前にも伝わらんのかい」
数分かけて手短に説明したところで、
「はぇー、なるほどぉ。つまり、あの可愛くて小さくておっぱいが大きい女の子が噂に聞く転入生さんと」
「そういうことだ」
「んで、先輩はあの可愛くておっぱいが大きくておっぱいが大きい女の子のお世話係ってわけですか」
「そういうことだ」
「その一環として、この喫茶店にあのおっぱいが大きくておっぱいが大きくておっぱいが大きい女の子を連れてきたと」
「そういう……いや、おっぱい大き過ぎるだろ。どんどん侵食されてんじゃねえか」
「でもでも、ぶっちゃけめっちゃおっきくないですか? わたしのとどっちが上か、非常に興味があります」
「初対面の女子に胸の大きさで張り合うなよ」
「張り合う。なるほど。おっぱいは大きさよりもハリが大事だと、先輩はそう言いたいわけですね?」
「そう言いたいわけじゃない。やめろ、先輩の発言をおっぱいトークに繋げるな」
「ちなみに先輩が触った感じだと、どっちが大きいと思います?」
「どっちも触ってねえよ!?」
「まったまたぁ。昨日、わたしのモノはその身をもって体感してくれちゃったじゃないですかぁ」
そう言うと、楓はあの時と同じようにぎゅむっと豊満な胸を寄せる。
途端、昨日の出来事があれやこれやとリフレイン。
「おいやめろ、思い出させるな……。ただでさえお前のせいで今日は身体が怠いんだから……」
精神的な疲労に加え、普段から運動をしない身体にあのプロレス(?)はかなり堪えた。
今も全身の節々が悲鳴を上げている。
これ以上おっぱいネタを続けるといよいよぶっ倒れそうだったので、智悠は話題の転換を図ることに。
「そういえば、お前らはこんなとこで何してんだ?」
「わたしたちはテス勉ですよ、テス勉」
「テス勉? テスト勉強?」
「——っ!」
一瞬。
智悠の言葉を聞いたほんの一瞬、それまでぱくぱくと嬉しそうにパフェを頬張っていたハナの手が、ぴたりと止まった。
しかしその場の誰も彼女の変化には気づかず、智悠が視線を斜向かいにスライドさせると、会話を聞きつけた真綾が首を縦に振る。
「そうそう。定期テストまでもう一週間だからね。流石にノー勉で受けるわけにもいかないし、喫茶店で絶賛勉強会中だったんだよ」
言って、これ見よがしに卓上にノートを広げ始めた。
「真綾、お前……」
智悠は思わず涙が出そうになるのを必死に堪えた。
まさかあの阿呆な妹が、こうして自主的に、しかも一週間も前から勉強会を開いてまで勉強するほどに成長しようとは。
中学までは『私の短期記憶——舐めないでよね』なんて舐め腐ったドヤ顔で毎回一夜漬けをぶちかましていた、あの妹が。
そして『職人芸』と称されるほど鮮やかにフラグを回収し、毎回ビリから数えた方が早い成績に身を沈めていた、あの妹が。
この進学校に入学できたことは学問の神様が起こしてくれた奇跡だと、あの淡白な両親ですら滂沱の涙を流して喜び、北野天満宮の方角へ向けて菅原道真に礼拝を繰り返した、あの妹が。
「ちょっとお兄ちゃん、それはいくら何でも大袈裟だって〜」
「馬鹿、これが大袈裟なもんか。偉いぞ真綾、成長したな」
「えっへへ〜」
はにかんだ笑みを浮かべる妹。
「そうかそうか——お前ももう高校生だもんな。そりゃあちゃんと勉強するようにもなるよな」
「あったりまえじゃん!」
誇らしげに薄い胸を張る妹。
「そうだよな。当たり前だよな。だからそのノートが最初の数行しか埋まってないのも、お前らがここに来たのがついさっきだからだよな。間違っても勉強会そっちのけでずっとお喋りしてたわけじゃないよな」
「……しらー……」
気まずげな顔で視線を逸らす妹だった。
ずばり図星。
兄としての勘は今日も冴え渡っているようだ。いらない才能である。
「やっぱりそうか……おかしいと思ったんだよ、お前が急に勉強なんて……。ちょっとでも期待した僕が馬鹿だった……」
「で、でも、最初はちゃんと勉強しようと思ってたんだよ? ほんとだよ? ただ、勉強前に糖分補給しようと思ってパフェ食べたら、なーんか勉強とかどーでもよくなっちゃって……」
しおらしく言って、ちょいちょいと卓上を指差す真綾。
視線を向けると、そこにはハナが現在進行形で食べているものと同じパフェの容器が、空になって二つ、置かれていた。
「やっぱここのパフェは最高ですよねぇ〜」
楓はむふふーと満足げに頬を緩ませていた。
真綾と一緒にこの場にいる以上、彼女もその勉強会の参加者のはずなのだが、サボりを反省する気はさらさらないらしい。
「ったく……そんな心意気で大丈夫なのかよ」
真綾の阿呆は今更だけれど、この変に余裕ぶった態度、おそらく楓の方も大概の成績と見受けられる。
あるいは優秀ゆえの余裕という線もあるが——外見よりも中身、なんて言葉もある。
楓は変わらず気楽な調子で、
「まあ、大丈夫じゃないですか? 言っても高校入って最初のテストですし、そんなに難易度高くありませんって」
「甘いな。甘過ぎる。そこのパフェより甘い」
「先輩の顔よりもですか?」
「そうそう、僕の甘いマスクよりも……って馬鹿。いいか? 確かに初っ端のテストは一年最初の内容だから、比較的簡単ではある」
人差し指を立てて先輩らしく講釈し始めると、真綾と楓がぐいっと身を乗り出してきた。
「でも、それはあくまで相対的な話だ」
「お兄ちゃん、『相対的』ってどういう意味?」
「今日帰ったら一緒に辞書引こうな。とにかく、絶対的に、肝心要の一年の内容——この二ヶ月半の内容がちゃんと理解できてなきゃ話にならん。要は『簡単』のステージにすら立てないってことだ」
そこで智悠は一拍置くと。
「——さて。そこのところ、お前たちは、どうなんだ?」
「……」
「……」
先輩男子の言葉に、後輩女子二人は一様に黙ってしまった。
ちょっと脅し過ぎたかな……と少しばかり申し訳なく思っていると、
「……なら、先輩がわたしたちに勉強を教えてくださいっ!」
楓が、唐突に、これぞ名案とばかりに、ぱちんと両の手を鳴らして、言った。
「これから一週間——わたしとまーやちゃんの先生になってください、智悠先輩! 一緒に勉強会しましょう!」
楓に追従するように真綾も手を叩き、
「そうだよお兄ちゃん! 私たちに勉強教えてよ!」
「え、嫌だけど」
「「えぇーっ!?」」
何を当然のことを、という顔で断った智悠に、二人揃って素っ頓狂な声を上げる。
店内に他の客がいなくて助かった。
「な、なんでですかっ! 今思いっきり引き受ける流れだったじゃないですか、フラグビンビンだったじゃないですか!」
「いや、僕にも自分の勉強があるし……」
先ほど、適当に頑張ると黒髪の上級生に宣言したばかりだ。
「それに、何か面倒くさいし」
「そっちが本音ですね!」
「お兄ちゃんらしいって言えばらしい……」
後輩はぷんすかと憤慨し、妹は呆れた吐息を漏らした。
ギャーギャー喚き始める二人をよそに——智悠は思案する。
面倒くさい——そう、面倒くさいのだ。
それはその場しのぎの方便でも何でもなく——確信を持って、そう言える。
圧倒的に面倒な予感がしてならない。
智悠としても、妹である真綾の勉強を見てあげるだけなら吝かではない。むしろ常日頃からやっていることだ。
だけれど、彼女——樋渡楓。
真綾の友達にして智悠の後輩、ただそれだけの関係——らしき、女の子。
彼女は危険だ。
昨日の件といい今日の件といい、あまりにも彼女の存在は——突然過ぎる。
夕立のように。
間違いなく、彼女と出会ったのは昨日が初めてのはずだ。こんな強烈な個性、そうそう忘れられるとは思えない。
——なのに。
彼女は、樋渡楓は、こうして目の前に、当たり前に存在している。
まるで旧知の仲のように。
以前から出会っていたかのごとく。
これは——異常だ。危険だ。窮地の中だ。
妹の友達。友達の兄。
たったそれだけで、何の変哲もない関係性で、こんな物語が生まれることが、果たしてあるだろうか。
——これからもよろしくお願いしますね。せんぱいっ♡
「まあ、それがこいつなりの距離のとり方ってんなら、それまでの話だけれど……」
何にせよ、そんなよくわからない存在からは距離を置いた方がいい。
頭の中で結論付けたその時、ふと、袖を引かれる感触があった。
見れば、事の成り行きを隣で見守っていたハナが、ちまっと服の端を摘んでいる。
パフェはもう食べ終わっていた。
おかわりだろうか。そんなことを言われても、手持ちのお金はもうないけれど。
「どうした、ハナ?」
訊くと、ハナはやけに真剣な瞳でこちらを見つめてきて、
「智悠さん。私は、真白ハナは——ハナ=エンジェライトは、悪魔で……あ、いや、女神で……いやいや違う、あくまで——あなたのお目付け役です。それ以外の役割は——請け負っていません」
「は?」
「ですので、あなたの行いに口を出したり、ましてや強制するつもりなどありません。それではこうしている意味がありませんからね。……全ては、あなたの自由意志でなければならない」
「は、はぁ……」
一体——何を言い出したのだろう、この娘は。
この女神は。
「あなたに纏わるあれやこれやに対して、私は傍観に徹するつもりでいました。……ただ」
「……ただ?」
「パフェ、とっても美味しかったです」
「——」
「あなたにいただいた、このパフェのお礼ということで——僭越ながら、私から助言を一つ」
そして、ハナは、そっと口を寄せて。
「——彼女たちは、絶賛『お困り』中ですよ」
「——あ」
そうか——そうだ。
ようやく理解できた。
彼女が何を言っているのか、何を言わんとしているのか、ようやく。
むしろどうして気づかなかったのだろう。
テスト期間だとか部活が休みだとか面倒そうだとか彼女の存在だとか、そんなものは全てが御託。
身勝手極まりない。
命の前には、何もかもが無意味だ。
彼女の言う通り、これは好機——わかりやすいくらいに。
誰にでも、それこそ馬鹿でもわかる、ご都合主義の物語。
「ったく……、これじゃあどっちが阿呆だかわからないじゃないか」
独りごち、そして智悠は改めて悟る——自分に、選択権などないのだと。
「真綾。それと……樋渡」
妹を呼び、後輩を何と呼べばいいか逡巡した末、無難に苗字呼び捨てを選択した智悠は。
目の前で未だ騒いでいる年下の女の子たちに、努めて真面目な表情で、告げた。
「——前言を、撤回させてください」