第40話 『女神様はカフェがお好き』
「喫茶店に行ってみたいです」
「——は?」
真白ハナの口からそんな台詞が飛び出すなんて、一体どこの誰が想像できただろうか。
時刻は十九時を少しばかり過ぎたところ。
威風堂々と清々しい自慰宣言をした部長と部室で別れた後、智悠は昨日と寸分違わず同じように校門前で手持ち無沙汰に立っていた彼女に出くわした。
ただし昨日の彼女とは違い、瞳の浅葱は腐っていない。想像とは裏腹に、本日の職員室訪問は恙なく終わりを迎えたようだ。
外は予想通りに未だ雨が降っていたけれど、予想していたよりは幾分小雨模様に変わっている。
真綾から譲り受けた花柄の折り畳み傘をさしながら、慈愛の女神は興奮した様子で宣ったのだ。
「喫茶店に行ってみたいんです」
同じように傘をさして彼女と向かい合う智悠は、その脈絡もへったくれもない第一声に、困惑顔でこう答える。
「……ごめん、もう一回言ってくれるかな? よく聞こえなかったみたいだ。雨が降ってるからかな。小降りとはいえ、やっぱり雨ってのは声とか足跡とか匂いとかをかき消すものだからね」
あるいは、今かき消されているのは文脈かもしれないが。
ハナは言う。
「喫茶店に行ってみたいんです」
「騎馬戦?」
「喫茶店です」
「キャサリン?」
「喫茶店です」
「ああ、喫茶店ね……」
併せて五回も言われれば流石に理解できる。
しかし単語の意味は理解できても、台詞の意図の方はさっぱりわからなかった。
出し抜けにも限度がある。
軽くキャッチボールをしようと球をパスしたら、次の瞬間にいきなり百六十キロ超えの豪速球を投げられたような気分だ。
この意思疎通の困難さ、おそらく彼女とバッテリーを組む未来は期待できそうにない。
二人が高校球児じゃなくて、甲子園を目指していなくて良かったとホッとする智悠だった。
「私、喫茶店に行ってみたいです」
まるで自動返信機能のように、あるいはRPGに登場するNPCモブのように、ハナはしきりに同じ台詞を繰り返す。
「わかった。いやわからないけど、まあ、わかった。とりあえず歩きながら詳しい話を聞こうじゃあないか」
こうして校門の前で男女が話し込む様子は、当たり前の光景のようでいて、存外人目を引くものだ。
それもハナほどの美少女となれば尚のこと。
目撃されて変な噂を立てられても面倒だと思い、二人はとりあえず最寄りのバス停がある方角へ歩くことにした。
下校する高校生たちの姿が見えなくなる場所まで歩いたところで、
「——で。何だっけ。喫茶店に行きたい?」
先の唐突な発言の真意を質すべく、智悠はハナに向き直った。
「はい」
ハナは至極真面目な様子でコクリと頷く。
その顔はどう見てもこれから喫茶店に赴かんとする女の子のそれではない。
戦地に飛び込む前の戦士ような、確固たる意志が宿っている。
「何でまた急にそんなことを……」
訝しげに顔をしかめる智悠に、
「あなたは忘れていませんか、智悠さん。私が何のためにこの人間界にやって来たのかを」
直接質問には答えず、ハナは神妙な面持ちのまま、某中二病を思わせる大仰な言い回しをもって返事とした。
真白ハナ——否、『慈愛の女神』ハナ=エンジェライトが、人間界へと舞い降りた目的。
「忘れていませんかって言われたって……だから、それは僕の任務のお目付け役だろ?」
「人間の世界を満喫するためですよ」
「……そう言えばそうでしたね」
転入してきた初日、確かにそんなようなことを言っていた。
監督としての役割はお題目に過ぎず、その真の目的は退屈しのぎの下界謳歌なのだと。
天界に住まう女神の戯れなのだと。
興奮に顔を赤らめて喋っていた。
ハナはもっともらしく腕を組み、身長に反して大きめに育った胸を持ち上げる。
「ここに来て一ヶ月が経ちますけれど、私はこの世界をまだまだ堪能できていないと思うんです」
「学校じゃあ不満なのか?」
記憶を辿れば、確か彼女は学校こそが一番の楽しみだったと言っていたような気がするが。
「……もちろん学校は楽しいですよ。クラスの皆さんは優しいですし、話すのは面白いです」
答えるまでに妙な間があったことが気になったが、それを問い質す前に「でも」とハナは続ける。
「それ以外にもまだまだ楽しい道楽が満ち溢れているのが、この世界でしょう? 私はその全てを余すところなくお腹いっぱいに愉しみたいんです」
「その一つが喫茶店、と」
「クラスの人が言っていたんです。何でも、この近くに旬のフルーツをふんだんに使ったパフェで有名な喫茶店があるそうですね」
「パフェ……ああ、あそこか」
カフェなどのお洒落な向きにはてんで疎い智悠だが、それでもその店の名前は知っていた。
その昔、オープンしてすぐの頃に、妹にせがまれて無理やり連れて行かれた記憶がある。
「確かその時も、旬の果物を使ったパフェがどうのこうのって言ってたな、あいつ……」
だとしたら目の前の少女が求めている店も、その店で間違いはないだろう。
「是非ともそのお店に行ってみたいんです。……いや、行きましょう!」
ハナは瞳をキラキラと輝かせている。
まるでお菓子を買ってあげると言われた子どものような純粋な笑顔。
空一面が重たく暗い雲に覆われる中、彼女の頭上だけは晴れ間が差し込んでいるように思われた。
それは——、
「……天使の梯子、か。まあ、この子は女神だけど」
「智悠さん?」
「何でもない、ただの戯言。——うん、いいよ。行こうか、パフェ」
智悠に断る理由はない。
訳さえわかればそれで良いのだ。
「——はいっ!」
歩みを再開した智悠の背中を、元気良くハナが追いかけて行く。
こうして二人はバス停へと続く道を折れ、件の喫茶店へと足を向けた。
* * * * *
「——つかぬことを訊くが、ハナは人間界に来るにあたって、何か持ってきた物はあるのか?」
「持ってきた物ですか? この身と心と『セイフク』くらいですけれど」
「その制服、自前だったのかよ。割と衝撃的な事実なんだけど」
「智悠さんの通う学校に合わせて創ったんですよ」
「え? わざわざ作ったのか? そりゃまた随分手が込んでるな」
「物を創るのが上手な方がいるんです。その方に依頼しました」
「ふーん……まあいいや。その他に持ってきた物は? 具体的にはお金とかマネーとか日本円とか」
「いいえ全く」
「……本当にパフェ食いたいんだよな?」
なんて微妙に絶妙に神妙に噛み合っていない会話を交わしているうちに、目的の喫茶店へと辿り着いた。
カランコロンカランコロン。
軽妙なベルの音とともに店内に足を踏み入れる。
今日一日の授業もかくやという静かな曲調のバックグラウンドミュージックが控えめに流れる、落ち着いた雰囲気のカフェテリアだ。
店全体を包み込むような暖かく柔らかい照明も手伝って、どこか隠れ家的な空気感を演出している。
こうして体感する限りにおいて、どうやらこのカフェの人気を支えているのは例のパフェだけの功績ではないらしかった。
「さあ行きましょうっ!」
ハナは興奮冷めやらぬ様子でぐいぐいと智悠の袖を引く。
「わ、わかったから、ちょっと落ち着け」
言いながら、智悠は人知れずこっそりと財布を取り出し、その中に野口英世が二人だけ入っていることを確認した後で、
「すいません。えーっと、この『季節のパフェ』と……あと、アイスコーヒーを一つ」
と、レジに居たお姉さんに注文した。
季節のパフェ——千四百円。
アイスコーヒー——四百三十円。
なかなかギリギリの金額だったが、致し方あるまい。
お金のない奴がお金を払うという行為をするなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないのだから。
「出来上がったらお持ちしますので、空いているお席へどうぞ〜」
お姉さんの案内に従い、空席を求めて店内を見回す。
夜と呼んで差し支えない時間帯、それも雨模様となるとカフェを訪れる客足は遠のくようで、智悠とハナを除けば、店内にいる客は奥の四人がけのテーブル席を陣取っている女子二人組だけだった。
遠いので顔は拝めないが、彼女たちの服装はハナの着ている制服と同じ。
智悠たちと同じく、学校帰りに立ち寄った口だろうか。
と——その女子高生たちをぼぉーっと眺めていて、ふと思い出すことがあった。
「……っと、そうだ。忘れるところだった」
独りごち、智悠は制服のポケットからスマホを取り出した。
すぐさまLINEアプリを起動させ、数少ない友達リストから目的の人物——妹のアカウントを探す。
「帰り遅くなるって連絡しなくちゃな……」
別に小日向兄妹はホウレンソウが義務化されているわけではない。
けれどあの妹のことだ、今ごろ手ずから作った夕食を前に、兄の帰りを今か今かと待ちわびているかもしれない。
だがしかし——智悠のそんな気遣いは、結果的に杞憂に終わることとなる。
「およ? そこにいるのはお兄ちゃんとハナさん?」
ちょうど送信ボタンをタップしようとしたタイミングで、二人の名を呼ぶ声がかけられた。
聞き覚えのあり過ぎる声に視線を上げると——その先にいるのは、先の女子高生二人組。
「……え? 真綾?」
何とも数奇なことに。
二人組のうちの一人、奥側のこちらが見える位置に腰掛けていたのは、今しがた連絡しようと思っていた妹——小日向真綾その人だった。
「こんなとこで何してるの?」
「いや、お前の方こそ何やって……」
足早に近づいていく智悠は、そこではたと気づく。
真綾の対面——こちらからでは顔が見えない位置に座る、もう一人の女の子。
彼女の後ろ姿——その、猛烈な既視感に。
赤みを含んだ茶色のセミロング、控えめに遊ばせた毛先——高めに結えたサイドテール。
一度見れば忘れない、というより忘れさせてもらえない、ひどく特徴的なヘアスタイルを誇る少女は、ゆっくりと勢いよく、静かに激しくこちらを、智悠を振り向いて——、
「——また会いましたね、先輩っ♡」
樋渡楓は、とびっきりの笑顔でもって、早過ぎる再会を悦んだのだった。