第39話 『陰鬱なる本分』
初対面——おそらく初対面であろうと思われる後輩美少女、樋渡楓との、いろいろな意味で衝撃的な邂逅を果たした日。
その翌日のこと。
智悠は二年B組の教室で、一枚の紙切れと向かい合っていた。
「うーん……」
額に皺を寄せ、何やら真剣な様子で考え込んでいる。
その鋭い眼光が注がれているのは、紙切れ上に羅列された文字群——英単語だ。
彼ら彼女らが通う高校は、県下ではそこそこ名の知れた進学校である。
生徒の大半が入学当初から大学への進学を志して勉学に励み、そして三年後、実際に夢のキャンパスへと旅立っていく。
進路実績の数字の一つと成り果てることで、学び舎への恩返しを果たすのだ。
毎年、現役での合格者も結構な数にのぼると聞く。
種類豊富な部活動や生徒の主体性を重んじる自由な校風に加え、その現役合格率の高さも、毎年この高校への志望者が多い所以だろう。
そして。
そんな進学校ならではの定型句と言えば——、
「……高校二年の夏、か」
英単語が並べられた紙切れを眺めながら、智悠はぽつりと呟く。
それは今年の四月、二年生に進級したタイミングで、担任教師である凛依からもホームルームで言われたことだ。
熾烈な受験競争を勝ち抜くためには、『高校二年の夏が勝負』だと。
大学受験で重要なのは、勉強や進学先のリサーチ、決定は言わずもがな、何よりもそれら全てを包括した『計画性』だ。
去年の一年間を経て高校生活にも慣れてきて、次第に大学へと意識を移していく過渡期。
そんな中途半端な時期にいるからこそ、二年生にとっては自らの指針となる『計画』が欠かせない。
そしてその計画を入念に練るのに格好な機会が、学生諸君には『夏休み』という形で用意されている。
一部の『高二の夏は今しかないんだよ?』『もっと遊ばなきゃ!』『青春しようよ!』の三台詞が口癖のアオハライダーを除き、意識が高い者たちは、この時期から受験へと意識を切り替え、スイカではなく机に齧り付くのだ。
高校二年の夏——それは、来る受験競争へと身を投じるための、いわば準備段階。
教師たちもその重要性を知っているからこそ、展開される授業も徐々に熱を帯びたものとなっていく。
その熱の一つがこの紙切れ——もとい、プリント。
毎回の英語の授業で配られる、英単語が並べられたプリント——通称『英単語テスト』だ。捻りはない。
二年生になってからというもの、英語の授業の最初の十分間を使い、毎回この英単語テストを行うようになった。
問題数は全部で二十問。
各五点で百点満点。
赤点追試ラインは八十点となかなかにシビアだが、難易度的にはきちんと高校英語を勉強していれば問題なく解けるレベル。
根性論でも精神論でもなく、そのままの意味で『やればできる』テストだ。
正直、この程度の小テストで落第するような奴は、本当に勉強をしていないか、赤点を取ることに快感を覚える等の癖の持ち主としか思えない。
——と、そんなことを智悠は考えた。
赤文字で『八十点』と記された、前回分の自分のテスト用紙を眺めながら。
「不合格だった奴は明日の昼休みに追試。あと、その単語テストは考査にも出すつもりだから、合格した奴もしっかり復習しとけよー」
「えー」
英語の担当教師がそう告げると、クラスの何人かからブーイングが上がる。
追試組だろうか。
それとも後者の発言へのブーイングだろうか。
「どっちでもいいし、どうでもいい……」
気怠げに呟き、いつも通り八十点のプリントを机へと仕舞う。
そのままぼぉーっと窓の外を眺めていると、程なくしてブーイングは止み、授業が始まった。
先生の流暢な英語が響き渡る傍らで、
「ねえ、単テスどーだった?」
「追試だわー。マジ最悪」
「あたしも。あんなの解けんくない?」
「むず過ぎだよねー」
すぐ側の席からそんな小さな会話が耳に届いた。
それを右から左に聞き流しながら、この小テストをやる意味はあるのかと、チート主人公じみたことを呆れ混じりに思う。
しかし——この時の智悠には知る由もなかった。
この一見何の意味もなさそうな英単語テストが、後にあんな波乱を巻き起こすことになろうなど。
* * * * *
特別棟へと向かう廊下は、どこかから漏れ聴こえる雨音に支配されていた。
不用心にもどこかの窓が開いているのだろうか。
音につられて窓の外に目を向けると、昨日の梅雨入晴れから打って変わり、暗雲立ち込める梅天が広がっている。
どことなく気分が削がれる空模様、今日は今朝からずっとこの調子だ。
しかも雨脚は徐々に強くなっていて、この分だと、今日は雨の中帰ることになりそうである。
「めんどくさ……」
陰鬱な顔を隠そうともせず、智悠は一人ため息を吐く。
湿気と結露で滑りそうになる廊下を慎重に歩いていると、目的の部室が見えてきた。
ガラリと戸を引く。
室内には、既に雪菜の姿があった。
「あら。智悠君、こんにちは」
「ども」
いつも通りの軽い挨拶を交わし、定位置の椅子に腰掛ける。
「真白さんは、今日も一緒じゃないの?」
「……あー、何か職員室に呼び出されてるみたいです」
部室に行こうと声をかけたところ、今日も同じ先生から呼び出しを食らったと言っていた。
二日連続で職員室に呼ばれるとは、あの女神は一体何をしでかしたのだろうか。
詳しい要件は聞いていないけれど、また何かしらのお叱りを受けているのかもしれない。ご愁傷様である。
胸中で慈愛の女神に同情していると、
「そう。……何だか今日の智悠君、少し元気がなさそうね」
雪菜が唐突にそんなことを言ってきた。
「え? そうですか?」
すっとぼける智悠。
しかし流石の観察眼と言うべきか、実は彼女の指摘は的を射ていた。
というのも、今朝から続く曇天に呼応するように、ベッドを起きた時からずっと全身が重たいのだ。
まるで鉛を身体中に括り付けられたような倦怠感が、今日の智悠を蝕んでいる。
身体の怠さは頭の鈍さに繋がる。
いつもは睡眠用バックグラウンドミュージックとしてしっかり機能してくれている授業も、今日一日に限って言えば、何の意味もない無機質な音声でしかなかった。
流行りの夏風邪——などではない。
原因など、これ以上ないほどにはっきりしている。
「大丈夫? 具合が悪いのなら今日は帰ってもらっても構わないわよ?」
「いやいや、怠いだけなんでそんなに心配いりませんよ。低気圧のせいじゃないですか?」
「梅雨だものね。まあ、それならいいのだけれど」
嘯いた智悠に、雪菜がほっと安堵の息を零す。
「私はてっきり、賢者タイムなのかと思ったわ」
「だとしたら気狂い過ぎるでしょ、僕」
「気が狂ったように擦った後なのかと」
「先輩の推測が一番擦っていませんよ」
神聖な学び舎で自家発電をする奴がどこにいると言うのか。
「賢者どころか愚者ですよ、そんな奴。むしろそっちの方が何かの病気だと思います」
「患者タイム」
「やかましいわ。大して上手くもないし」
「そのツッコミを聞くに、どうやら本当に問題はなさそうね」
「斬新な健康診断だ!?」
小日向智悠。ツッコミ——異常なし。
いつも通りの中身のない雑談を交わしているうちに、惚けていた脳味噌も徐々に本調子を取り戻してきた。
そして、脳が覚醒すればいろいろなものが見えてくるというもの。
「……そう言えば、雪菜先輩、勉強してたんですね」
そう言う智悠の視線は、彼女の眼前に広げられた数学の問題集を捉えていた。
隣のキャンパスノートにはえらく達筆な文字で数式が並べられている。
見たことのない数式——おそらく三年生で習う内容だろう。
それらは全て、智悠が部室に来るまで彼女が勉強をしていた証拠だ。
「流石にテストまで一週間だからね。依頼者も来ないし、暇な時間を有効的に使おうと思って」
こちらを見ずに言いながら、雪菜はノートに新たな数式を書き加えていく。
「テストかぁ……」
耳が痛いワードに、知らず遠くを眺め出す智悠。
この高校では、六月、八月、十一月、二月の末に、俗に『考査』と呼ばれる定期テストが計四回行われる。
今は六月の中旬。
彼女の言う通り、あと一週間もすれば進級して一回目の中間テストだ。
「その憂鬱そうな感じを見るに、ひょっとして智悠君はテストが嫌いなの?」
「逆にテストが好きな学生なんているんですか?」
「テストステロンなら好きだけれど」
「性欲じゃなくて知識欲の話をしてるんですが」
「生物のお勉強よ」
「男性ホルモンって高校生物で教わるんですか?」
それも三年生の内容だろうか。
それはともかくとして、今の問題は中間テストである。
「このテスト前の憂鬱さ、どうにかならないもんですかね。まあ学生の本分は勉強って言うし、黙って受け入れるしかないんでしょうけれど」
「それも大分使い古された文句だと思うけどね……。私としては、勉強の本分が学生って気もするし」
「卵が先か鶏が先か、ですか」
この場合はどちらが先になるのだろうか。
「確かに、社会に出てからこうやって参考書やらノートやらを広げる機会が何回あるのかって話ですよね」
「そういう意味では、勉強は人生の本分って言えるのかもしれないわね」
何やら名言っぽい良い台詞を放ったところで、ふと、雪菜は数式を書き連ねていた手を止めた。
それから持っているシャーペンをフリフリすると、
「……でも、そう言う割には智悠君、成績は良かったはずよね? 確か二十位以内には入っていたような」
「それはそうなんですけど……って、ちょっと待て。何で先輩が僕の成績を知ってるんですか」
この進学校、テスト結果を貼り出すなんて野暮な真似はしない。
点数も順位も、担任から生徒個人に通知が行くだけである。
だから本人が口外しない限りは結果が外部に漏れることはないし、智悠に自身の成績を吹聴して回る趣味はないはず……なのだが。
訝る智悠に、雪菜は一般常識を説くように至って涼しげな顔で髪を払い、
「智悠君に関することで私が知らないことはないわ」
「怖い怖い怖い怖い」
「この前資格も取得したし」
「何の資格ですか!?」
「何でもは知らないわよ。智悠君のことだけ」
「名言が一瞬でストーカーの台詞に!」
恐ろしい会話だった。
恐ろしく馬鹿な会話だった。
「冗談はさておくとして」
雪菜は気を取り直したようにコホンと咳払い、仕切り直す。
「成績がいいのだから、そんなにテストで憂鬱になる必要はないと思うけれど」
「苦手じゃないことは嫌いにならない理由にはなりませんよ」
雪菜の提言に、智悠は実感を持って答えた。
得手不得手と好き不好きはイコールではない——あの中二病少女が言っていた台詞だ。
「結果が良かったところで、それは結果的に上手くいったってことでしかない。僕はテストを目前に控えたこの空気感というか、緊張感みたいなものが嫌なんです」
「ふぅん。本番よりも順番が苦手、みたいなものかしら」
「あー、当たらずとも遠からずって感じですね」
「あるいは本番よりも前戯が苦手」
「それは当たらずも近からず」
とはいえ、後者は論外でも前者の方は言い得て妙である。
結果が良いから過程が好きなのか——過程が好きだから結果が良いのか。
卵が先か鶏が先か。
「ていうか成績で言うなら、僕なんかよりも先輩の方がずっといいじゃないですか。確か学年二位でしたっけ」
ノートを覗き込みながら言う智悠に、雪菜は我が意を得たりとばかりに勝気な笑みを浮かべた。
「あら、何で智悠君が私の成績を知っているのかしら。もしかして智悠君も有資格者?」
「だから何の資格ですか。二十位以内とかならまだしも、学年二位レベルになれば噂にもなるでしょ」
篠宮雪菜は校内指折りの有名人である。
黒髪ロングに彩られた美貌と女子高生とは思えないほど熟れたスタイル——それら男子の理想を体現した外見的な女性らしさに、『頭脳明晰』の四文字が加わることで、篠宮雪菜は初めて完成する。
普段の下ネタまみれの言動からは想像もつかないが、彼女は入学以来、学年二位という地位を譲ったことがない秀才なのである。
「ここで首位じゃないところが、また微妙な気もするのよね」
自嘲的な苦笑を浮かべる雪菜。
「それでも十分凄いことですよ。……まあ、一部からは『無冠の女帝』なんて言われてるみたいですが」
「別に気にしていないけれど、順位が一つ下がっただけで『無冠』って言われるのはどうかと思うわね。御冠だわ」
「めちゃめちゃ気にしてるじゃないですか」
それにいちいち上手い。
下ネタの陰に隠れて、時には下ネタでさえも、言葉の節々に知性を感じさせてくれる。
これも彼女が噂通りの秀才たる所以だろう。
と、上級生の優秀ぶりを垣間見たところで、
「……よし。今日はこれくらいにしておきましょうか」
雪菜は問題集とノートを閉じ、脇にかかっていた鞄に仕舞い出した。
どうやら切りがいいところまで終わったらしい。
それから凝り固まった身体をほぐすように、彼女はんーっと大きく伸びをする。
サマーベストに包まれた豊かな胸元が強調されて、智悠は目のやり場に困ってしまう。
「っと、そうだ、智悠君」
その視線に気づいたのだろうか、雪菜が思い出したように口を開いた。
「何ですか? 胸なんて全然全くこれっぽっちも見てませんが」
「それはむしろ望むところだけれど、そうじゃないの。連絡事項よ。テスト期間で明日からしばらく部活はお休みになるから、気をつけてね」
「そうなんですか。わかりました、後でハナにも伝えときます」
「ええ、お願いね」
「それにしても、テスト期間か……。部活も休みとなると、流石に本格的に勉強するしかないか……」
テスト嫌いの智悠だが、だからと言って勉強自体を放棄するほどアウトローぶっているわけではない。
切迫する緊張感に耐えつつ、これから一週間はちゃんと勉強しなければ。
「めんどくさ……」
現時点で既に疲れたため息を漏らす智悠に、学年二位の上級生は優しく微笑みかけてくれた。
「頑張ってね、智悠君」
「……まあ、適当に頑張ります。先輩も頑張ってください」
「ええ。しばらく智悠君に会えなくて寂しいけれど、その分自慰が捗ると思うわ」
「思春期の本分の方じゃなくて!」
訂正。
こんな上級生が学年二位だなんて、きっと何かの間違いに違いない。




