第37話 『後輩襲来』
突然だが、ここで地学——地球科学のお勉強をしよう。
健全な高校生らしく、お勉強をしよう。
教科書の記述に従うのならば、この地球に生命が誕生したのは、およそ三十八億年前と言われている。
例えば——そう、例えばの話である。
三十八億年前から数えたとして、果たして、この現実世界においてこんな経験をした人類がどれほど存在するだろうか。
小日向智悠。現代日本出身の男子高校生。今年で十七歳になる青少年。
ノスタルジックでセンチメンタルな気分に浸りつつ、帰宅して妹の部屋を開けた途端、突如として『何か』が自分の身体めがけて飛び込んできた。
思い浮かぶのは、あの日あの場所で、トラックに轢かれて死んだ時のこと。
ついさっき、名状し難い感傷とともに想起した記憶だ。
しかしあの時と違うのは、その『何か』が何も言葉を喋らない無機物ではなく、女の子のものと思われる甲高い声を伴っていたことであり——、
「ちっひろせんぱぁーいっ!!」
「ぐえぇっ!?」
——心窩部を的確に貫く衝撃を受け、智悠は身体ごと向かい側、自室の扉へと吹っ飛ばされた。
ドンッと扉にぶつかる鈍い音とともに、自分の口から出たとは思えないほど無様な苦鳴が漏れ出る。
もしこれが異能力バトルの世界観なら、間違いなく今をもって再起不能に陥っていたであろう。
自らの悪霊を出す機会すら得られず、活躍の場もなく血だらけになってトゥービーコンティニュード。
だがしかし、彼らの日常にバトルはない。
何秒経ってもバトルは起こらないのだ。
だからこれは殺傷目的の攻撃ではなく——、
「い、一体、何が……?」
扉にぶつけてズキズキと痛む頭を押さえながら、この身に何が起こったのか、その正体を求めて視線を彷徨わせる。
——と、その視線が、自分の腰にガシッとしがみつく少女の姿を捉えた。
そしてそれと同時に、この身を吹っ飛ばした衝撃、その正体を理解する。
なるほど、『それ』が女の子の声を伴っていたのも当然だ。
何せ、体当たりしてきた『それ』自体が、女の子の貌を成していたのだから。
真綾——ではない。
あの事故以降、少々ブラコンの気が増したとはいえ、あの妹はこんなエキセントリックな行動をとったりしない。
「え……、だ、誰……?」
恐る恐る、目の前の少女に向けて尋ねる。
すると、腰をがっちりホールドしたまま顔をうずめていた少女が、ガバッと勢いよくその面を上げた。
「——」
えらく可愛らしい顔立ちをした少女だ。
ぱっちりとした大きな瞳、ふっくらした薄桃色の唇、艶のあるきめ細やかな肌、卵形の整った輪郭。
赤みがかった明るい茶色のセミロングは先端で緩やかなウェーブを描き、高めのサイドにちょこんと結えた尻尾が良いアクセントになっている。
美少女。
そう呼んで差し支えない容姿をした女の子は、頬が触れるほどの至近距離で智悠の顔をじぃーっと見つめ——、
そして、見る見るうちに、その可憐な顔に喜色の花を咲かせていって。
「——智悠せぇーんぱぁーいっ!!」
「ちょっ!?」
再び智悠の名を叫びながら、思いっきり抱きついてきた。
「会いたかった、いや愛したかった! せんぱぁーい!」
呆気にとられたのも束の間、少女は感極まった様子でそんなことを叫び、智悠の身体を床に押し倒す。
「あだっ!」
受け身も取れずに背中を強打する智悠。
しかし少女はそんなことなどお構いなしに、全身全霊で智悠の胸に顔を押し付け、縋りついてきた。
「せんぱいだ、智悠せんぱいだぁ! せんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいせんぱいっ!」
「は、はぁっ!?」
横に生えた短い尻尾を振り乱し、少女は何度も何度も『先輩』と、そう口にした。
「はぁ〜、これが先輩の顔、先輩の声、先輩の匂い、先輩の味、先輩の感触! わたしは今、先輩の全てに包まれてますっ!」
発情した獣のように顔を赤く染め、少女は鼻息荒く叫ぶ。
「ちょっ、おま、お前……!」
恐い。とにかく恐い。悪霊より恐い。
その狂気じみた言動に恐れをなした智悠は、少女の身体を引き剥がそうと必死にもがく。
けれど彼女は一向に離れようとせず、どころか抱き締める力はどんどんどんどん強くなっていく。
「な、何だこいつ、めちゃくちゃ力強ぇ……!」
「ちょっと先輩、何するんですかっ! 引き剥がそうとしないでくださいよ、そんなことをされたらわたしが抱きつけないじゃないですかっ!」
「抱きついて欲しくないから引き剥がそうとしてんだよ! いいからとっとと離れろ!」
「嫌だ嫌だ、離れません、絶対に離れませんよ! 誰が離してあげるもんですかっ!」
ホールド力はさらに加速していく。
密着度は既に百パーセントを超え、二人はもはや一心同体と表現して差し支えなかった。
何とかして抱擁から逃れようとする智悠と、決して逃すまいとしがみついてくる少女。
くんずほぐれつする度、彼女から漂ってくるシトラス系の爽やかで甘酸っぱい香りが鼻腔をくすぐる。
それに何よりも、先程から腹部のあたりに、決して小さいとは言えない豊かで柔らかな二つの膨らみが押し付けられていて——、
「ちょっ、おま、当たってる! 当たってるから!」
その地獄のような天国の感触の正体に思い当たり、智悠は声高に叫ぶ。
それを聞いた少女は、口元にニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて。
「何言ってるんですか先輩〜。もち、当ててるんですよ。どうですか、わたしのおっぱい! この大きさで天然モノなんです〜」
「知らねぇよ!」
「そうですか知りませんか、なら今から存分に知ってくださいっ♡」
シンプルなツッコミに勢いづいた少女が、実りに実ったそれをさらに押し付けてくる。
役得だとかラッキースケベだとか、そんな暢気なことを言っている場合ではない。
こうして経験して初めてわかる——得体の知れない女子に急に巨大な胸を押し付けられるなど、恐怖体験以外の何物でもないのだと。
「ほらほら〜。先輩、わたしの身体の感触はどうですか〜? 気持ちいいですか〜? これでもまだ『離せ』なんて言いますか〜?」
胸板に頬をスリスリ、お腹に胸をズリズリ。
腕を回し、脚を絡め、全身を舐られるような感触が智悠の身体を蹂躙する。
艶かしく、女の子のあらゆる柔らかい部分を惜しげも恥ずかしげもなく擦り寄せてくる。
「こ、これは本気でヤバい……!」
シャツ越しの柔い感触、お互いの衣擦れの音、女の子の甘い匂い、扇情的で官能的な光景。
ありとあらゆる刺激が智悠の理性をドロドロに溶かし、眼前の少女と混ざり合っていく。
本能が訴えている——これ以上は危険だと。
「は、早く脱出しないと……」
脳から発せられた危険信号に従い、拘束から逃れようと身を捩る。
そして——それがいけなかった。
「先輩、そんなに暴れないでくださいよ〜」
「無茶言うな、これが暴れずにいられるか……!」
「……んもう。言うことが聞けない困った先輩は、こうしてあげますっ♡」
そう言うと彼女は、その巨大な乳房を腹部からスライドさせて——、
「んぐぅっ!?」
次の瞬間、智悠の視界を白い生地が覆った。
いや、覆われたのは視界だけではない。
鼻も口も、否、顔面全てが、とてつもない重量に押し潰されている。
「よいしょっと。これでもう逃げられませんね、先輩っ♡」
少女は——智悠の顔面に胸を強引に押し当てた少女は、勝ち誇った笑みを浮かべた。
智悠の悪あがきが、彼女の嗜虐心に火をつけてしまったのだ。
「ん——、んん——ッ!」
呼吸器官を両方とも塞がれ、智悠は声にならない声を漏らした。
しかし、まるでそれを期待と受け取ったがごとく、かかる圧力はどんどん大きくなっていく。
シャツ越しとはいえ、五感全てが集まる顔面へのバストプレスの威力は凄まじい。
柔らかさや弾力はもちろん、梅雨時の蒸れた汗の匂いが、智悠に残った最後の理性を破壊しにかかる。
「——ッ!」
「ふふふっ、どうですか先輩、わたしのおっぱいの破壊力は。形変わっちゃうくらいむぎゅって押し当ててあげますからね〜」
言葉通り、少女は智悠の後頭部へと腕を回し、より強く、激しく乳圧をかけていく。
息が苦しい。このままだと身体だけじゃなく意識までぶっ飛んでしまう。
——この状況で気を失うことだけは、何としても避けなければ。
「——ッ、——ッッ!」
「ちょっ、先輩、暴れないでって言ってるじゃないですか! そんなに暴れられると……、あっ、い、息が当たって……っ!」
何とか酸素を取り込もうともがく智悠、その荒々しい息遣いに呼応するように、上に乗る少女の頬がわずかに紅潮した。
(不味い不味い不味い不味い……!)
早急に対応策を考えなくては、このままでは身が持たない。
押し倒された体勢で揉みくちゃにされながら、智悠の脳味噌はかつてなくフル回転。
この柔肌地獄を抜け出すために、今の彼がとれる窮余の一策とは——、
「——ッッ!」
「あっ……やっ、だ、だめっ、そこは……、んっ、くうぅ……っ!」
胸に触れる吐息に反応し、少女の声が徐々に甘い熱を孕んだものへと変化していく。
「——ッ、——ッッ!」
「しぇ、しぇんぱぁい……、やっ……、ふっ、ん……」
切ない吐息とともに、ビクビクッと少女の身体が痙攣する。
そして——、
「んっ……、はぁっ……ッ!」
一際艶っぽい声が漏れたその時——ずっと押し当てられていた彼女の胸が、わずかに仰け反った。
「——ぶはっ」
時間にして数秒、乳の呪縛から解放された智悠は。
「——真綾! ハナ! た、助けてくれ! 知らん痴女に犯されるぅ——!!」
家中に聞こえるような涙声で、妹と同居神に、文字通り必死に助けを求めたのだった。




