第35話 『姫ちゃん先生』
「ちょっと先生、聞いてくださいよ!」
「あら、そんなに大声を出してどうしたのですか、小日向君?」
「どうしたもこうしたもありませんよ。さっきから雪菜先輩が僕の前でこれ見よがしにエロ本を読むんです! 信じられますか!?」
「え、エロ本?」
「そうですよエロ本ですよ! あの『エッチが好きで何が悪いっ!!』第二十二巻ですよ!」
「え、えっち……!?」
「先生まさか知らないんですか? エッチが大好きな主人公とヒロインが学校を舞台にあっちで打ってこっちで撃ちまくるライトノベルです!」
「うちまくるって……!?」
「そんなドエロ小説を純真無垢な後輩男子高校生がいる前で白昼堂々と読み耽り、あろうことか猛プッシュしてくるんですよこの先輩は! 先生はこの蛮行をどう思いますか!?」
「ど、どうと言われても……!」
「はっきり言ってやってくださいよ! 教師らしく威厳たっぷりにこの痴女に言ってやってくださいよ!『学校にエッチな本を持ってきちゃダメだぞ♡』って!」
「それは教師らしからぬ発言じゃないですか!?」
——なんてやり取りが発生するはずもなく。
姫川凛依は、一般に人が教室に入るのと同じように教室に入って来て、一般に人が椅子に座るのと同じように椅子に座った。
「よいしょっと……それで、さっきの大声は何だったのですか? 聞いたところ、小日向君の声のようでしたが」
手近な椅子に腰掛けた凛依は、そう尋ねながら智悠に怪訝そうな顔を向けた。
——姫川凛依。年齢不詳の女教師。
愛くるしく清らか、女子大生を思わせる若々しい容姿に、生徒第一主義で知られるおおどかな性格。
誰もが一度は思い描く理想の教師像を見事に体現した美人教師は、男女問わず、圧倒的な生徒人気を誇っている。
担任を務める智悠のクラスでは、苗字の一字を取り、『姫ちゃん先生』『凛依姫』なんて呼ばれ方で親しまれている。
前者はともかくとして、後者は教師の呼び名としてはかなり際どいラインだが。
とはいえ、どうしたものだろうか。
流石に二人仲良くエロ本トークをしていましたなどと言えるわけもないだろう。
ちらと横目に雪菜を見遣ると、彼女もゆるゆると首を振っている。
「まあ、そうだよな……」
仕方なく、智悠は舌先三寸口八丁手八丁、頭を働かせて誤魔化しにかかった。
「いえ、別に大したことでは。ちょっと窓から大きな虫が入って来たので、びっくりしただけです」
「窓から虫がっ!? それは大変です、大したことです! 私、すぐにスプレー持って来ます!」
咄嗟についた智悠の嘘を真に受け、急いで部室を出て行こうとする凛依。
このままではさらに面倒なことになると思い、智悠は慌てて彼女を制して矢継ぎ早に続けた。
「いや、その、も、もう追っ払ったんで大丈夫ですよ。心配いりません。今頃は元気にあの広大な空を飛んでいると思います」
言って、窓の外を指差す。
「——何だ、そうだったんですか。それなら良かったです」
凛依は再び椅子に腰掛け、ほっと胸を撫で下ろした。
それから智悠の方を見つめると、
「それにしても、そんなに大きい虫をやっつけるなんて、小日向君も男の子なんですね」
「いやー、厳しい闘いでしたよ。あれは死闘と表現した方がいいかもしれませんね。まさに生きるか死ぬか、ギリギリの闘いでした。あんなに血で血を洗う熾烈で激烈な経験をしたのは、酸いも甘いも噛み分けたこの小日向智悠と言えど、初めてかもしれません」
「そんなに激しかったのですかっ!?」
智悠の畳み掛ける状況説明に、凛依が再び素っ頓狂な声を上げる。
なるべく事細かに説明しようと焦るあまり、要らぬ墓穴を掘ってしまった。
「ちょっと、どこか怪我をしているんじゃないですか!?」
と、存在しない虫と死闘を繰り広げた教え子の身を案じ、凛依がペタペタと身体中を触診し始める。
顔、胸、腕、お腹、脚。
先生とはいえ、美人なお姉さんに至近距離で身体中を弄られるこそばゆい感触に、思わず変な声が出そうになった。
「ちょ、せ、先生……」
「うーん……、見たところ異常はありませんね……」
見るだけじゃなく、がっつりお触りしているのだが。
念入りに触診を繰り返し、形の良い眉を寄せる女教師。
大人の女性の甘い匂いが漂ってきて頭がクラクラする。
助けを求めて雪菜に視線を向けると、頼みの上級生は我関せずという顔で、事の元凶である文庫本を読み始めていた。
凛依の位置からは見えないように、器用に机の下に隠しながら。
人間とは、あれほどまでに涼しげな顔でエロ本を読めるものなのだろうか。
……いっそ全部バラしてやろうか。
「ちょっと先生、さっきのは冗談、冗談ですから。どこも怪我していませんよ。この通りピンピンしてます」
そんな邪な衝動に駆られながらも、智悠は何とか凛依の手から逃れようと口を開く。
それを聞いた凛依は、「そ、そうですか」と呟き、やっとのことで身体を解放してくれた。
それから少し頬を赤らめ、
「もう、大人をからかうもんじゃありませんよ……、でも、何もなかったのなら良かったです」
そう言って心底安堵したような表情を浮かべる。
この先生は——姫川凛依は、こういう人なのだ。
物腰柔らかなのにどこか抜けていて、穏やかなのにそそっかしくて。
そして、何よりもまず生徒を慮る。
だからこそ生徒たちは彼女を慕い、ついて行こうと思えるのだ。
「でも、今度もし虫が入って来たら、すぐに私を呼んでくださいね? 今日は大丈夫でしたが、次は何があるかわかりませんから」
「いやいやそんな、大袈裟ですよ」
「大袈裟じゃありません。怪我をしてからでは遅いんです。生徒にそんな危ない橋は渡らせてあげません」
自らの発言にうんうんと頷きながら、毅然と言い放つ凛依。
その何も疑っていない顔にそこはかとなく罪悪感が募るが——いやしかし、愛する生徒が部室でエロ本を読んでいることの方が遥かにショックが大きいだろう。
今一度、真実を告げるべきではないと、智悠は固く心に誓ったのだった。
* * * * *
「——それで、先生は何の用でここに?」
「しれっと入り込んできましたね、先輩」
ついさっきまで素知らぬ顔でエロ小説を読んでいた雪菜が、ここで満を持して会話に参加してきた。
その横顔はさながら致した後のような多幸感に満ちており、どうやらちょうどワンシーンが終わったところのようだった。
どんなワンシーンなのかは敢えて語るまい。
とはいえ、彼女の疑問は智悠も抱いていたものでもある。
何故に姫川凛依が有志部にいるのだろうか。
何か依頼をしに来たのだろうか。それとも——、
「まさか……、この教室のエアコンを差し押さえに来たとか? そんな、設定温度はちゃんと守っていますよ」
「この部活の顧問だからですよ」
生徒思いのこの先生にしては珍しく、「何言ってんの?」とでも言いたげな顔をされてしまった。
「え、この部活って顧問いたんですか?」
「部活動なのだから当たり前でしょう」
有志部の部長は「何言ってんの?」とでも言いたげな——否、言っている顔をした。
美女二人にそんな顔をされては、しがない男子には立つ瀬がない。
仕方なく「いや知らんし……」と思う気持ちを心底に押し込めて、智悠は話題の転換を図ることにした。
「この部の顧問って、姫川先生だったんですね」
間違っても『姫ちゃん先生』だったり『凛依姫』だったり、ファンシーでキャッチーでシリーな呼び名は使わない。
凛依は別段気にした様子もなく、「はい」と首を縦に振った。
「では、改めまして。有志部の顧問を務めています、姫川凛依です。よろしくお願いしますね、新入部員さん」
微笑みながら自己紹介。さらにウィンクのおまけ付き。
「小日向君のことは篠宮さんから色々と聞いていますよ」
「嫌な予感しかしない……」
雪菜の方をちらと見るも、彼女はわずかに微笑むだけで何も言わない。
その反応が一番怖いのだが。
無言で見つめ合う二人の様子に凛依は苦笑し、
「いえ、何も変なことは言っていませんよ。むしろ将来有望な新入部員だと聞かされています。つい先日も二人の生徒からの依頼を見事に完遂したとか」
「いや、別にそんな大したことじゃあ……」
「それに、それ以前にもウチのクラスの真白さんをこの部に引き入れてくれたそうで。転入生なのでちゃんと学内に居場所を作れるか心配していたのですが、どうやら杞憂だったようです」
「それもあの子が自分から入るって言っただけなんですが……」
それに、ハナの件については彼ら二人しか知らない複雑な事情がある。
忘れることは許されない——小日向智悠は一度、この世から姿を消している。
今この場にいる彼は、女神によって一時的に姿形を与えられた仮の存在。
一年後、完全な形でこの世に舞い戻るために、智悠は迷える人々を助け続けなければならない。
この有志部に入ったのは、それを成し遂げるために必要だと思ったからだ。
そして真白ハナ——慈愛の女神はそのお目付け役。
行き掛かり上行動をともにすることになったという経緯はあれど、結果的にこの部への所属を決めたのは彼女自身。
だから凛依の言っていることは荒唐無稽で的外れもいいところ。
いや——逆か。
事情を知らないからこそ、外部の人間からはそう見えるのかもしれない。
件の女神様に口止めされているので詳しい背景を明かすわけにはいかず、さてどうしたものかと智悠が葛藤していると、
「私の心配事は、何も真白さんのことだけではありません」
そう言って、おもむろに凛依が立ち上がった。
「——?」
そして、首を傾げる智悠の元にカツカツとやって来て、
「——私は、小日向君のことも心配していたんですよ?」
そっと、掌を頭に乗せてきた。
柔らかくこそばゆい感触が、優しく智悠の頭を撫でる。
「ちょっ、先生、何を……」
急なスキンシップにドギマギし出す男子高校生をよそに、彼女は柔らかく微笑み、
「小日向君、クラスではいつも一人でいるから……正直私としては、真白さんよりもあなたの方が不安だったんです。でも、それも私の考え過ぎだったようですね」
「——あ」
「こうして、ちゃんと頑張っているんですから」
私の生徒を見る目もまだまだです。
最後にそう言って、凛依は智悠の頭から手を離した。
「——」
そっと、今度は自分の掌をそこに持っていく。
心を丸ごと包み込むような温もりが、まだ残っている気がした。
「……さてさて。挨拶も済んだことですし、私はそろそろ行きますね」
後はよろしくお願いしますと雪菜に一声かけ、凛依はこの場を立ち去ろうとする。
どうやら今日はそれだけのために部室を訪ねて来たらしい。
つくづく律儀な人である。
「時々こうして様子を見に来たり、たまに依頼を持ち込んだりもすると思うので、その時はよろしくお願いします。篠宮さんに小日向君……今はいないようですが、真白さん。三人とも、しっかり活動に励むように」
「はい」
「わかりました」
最後に教師らしい言葉を残して、姫川凛依は部室を去って行った。
「……私たちも、そろそろ帰りましょうか」
「そうですね」
残された雪菜と智悠は、どちらからともなく帰り支度を始める。
時刻はそろそろ下校時だ。
依頼者も来る気配はないし、今日はこれにて店じまいだろう。
「——と、そうだ。雪菜先輩」
ふと思い出したことがあって声をかけると、雪菜はちょうど例の文庫本を鞄に仕舞っているところだった。
そう——あの魔書を。
「どうしたの?」
怪訝な顔をする雪菜に、智悠は告げた。
「先輩が読んでたあのラノベなんですが……その、僕にも貸してもらっていいですか? ……とりあえずは、一巻から」
「……」
「……」
「……あのね、智悠君」
「はい」
「私が言えた義理ではないし、おそらく『お前が言うな』ってツッコミがくるとは思うけれど、ここは敢えて言わせてもらうわ」
「……はい」
「智悠君、あなた……この雰囲気で、最後の最後に、よくそんなことが言えたわね」
「……」
ご期待に添えず申し訳ない限りだが、お前が言うな、とは言えなかった。
だって、仕方ないだろう。
どれだけ否定しようとも——気になるものは気になる。
人間の悲しい性だった。