第31話 『いのりごと』
高校二年生に進級した紗織に、衝撃的なニュースが二つ飛び込んできたと言う。
一つは、マコとカナ——新たな舞台に立った彼女に初めてできた友達、ギャル二人組と二年連続で同じクラスに配属されたこと。
この高校では一年生の終わりに文理選択を行う。
そして二年生から、A組からC組の文系クラス、D組からG組の理系クラスにそれぞれ分かれることになっている。
三人が所属するC組は三つしかない文系クラスの一つ。
なので、連続で同じクラスになるのはそれほど珍しいことではない。
そしてもう一つのニュースというのが——、
「——唯乃莉が、いたの」
水卜唯乃莉。
黒髪の奥に燃ゆる紅い瞳を片方だけ隠し、人形のように可愛らしい見た目をしながらも、その身に中二病を患ってしまった少女。
——そして、紗織が語るこの物語のもう一人の主人公。
「何か片目隠してるしぶっかぶかのパーカー着てるし、中学までと雰囲気が違い過ぎてて驚いたけど……、でも、唯乃莉だってすぐにわかった」
当時を懐かしむように、紗織は続ける。
「あの時みたいに、私から声をかけた。『唯乃莉だよね?』って、声をかけた。あの子も最初は驚いてたみたいだけど、名前を言ったらすぐに私だって気づいてくれた」
『……ひょっとして、ひょっとしなくても紗織?』
『う、うん……』
『いやはや、驚いた……。何というか……、変わったね』
『あ、あんたもね……』
と、そんなやり取りがあったと言う。
中学生活の最後、不本意な形で袂を分かつこととなった二人。
そんな彼女たちが一年越しの四月、この高校で運命の再会を果たしたのだ。
「もう会うことなんてないって思ってたから、嬉しかった。その日に連絡先交換して、これから、またあの時みたいに二人でお喋りしようって、思ってたんだけど……」
——そこで、『ある事件』が起きたの。
紗織は言った。これまでのどの時よりも、悲痛の色を滲ませた表情で。
「……事件って?」
「……次の日、クラスで一人一人自己紹介する時間があってさ。で、その時にあの子が……その、ちょっとやっちゃったって言うか」
「やっちゃった?」
「あの子が有志部でした自己紹介、覚えてる?」
「それはまあ……」
もちろん覚えている。
あんな衝撃的な初対面、そうそう忘れられるわけがない。
人の名前は覚えられないけれど、それははっきりと覚えている。
「……って、まさか……」
瞬間、智悠の脳裏を嫌な予感が掠める。
驚きに口を開ける智悠に、紗織は首を縦に振った。
「そう、そのまさか。……あの子、クラスの自己紹介の時もあれと同じことをしたの。……ううん、あれよりもっとヤバかった」
「マジかよ」
「マジよ」
間髪容れずに返されてしまっては頷く他ない。
あれよりヤバい自己紹介。
それが一体どんなものだったのか、部外者の智悠にはわからない。
けれど、それがろくなものじゃなかったことだけは簡単に想像できた。
だって、言われてみればその頃からなのだ。
二年生にちょっと変わった美少女がいると、校内で水卜唯乃莉の名前が囁かれ始めたのは。
学校中で噂になるほどのインパクトを、その時の彼女は残したのだ。
「髪型とか服装とか話し方とか、それまでも何となくおかしいなとは思ってたんだけど、あれは本気で意味がわからなかった」
そして——意味がわからなかったのは彼女だけではなかったらしく。
「全員の自己紹介が終わった後、マコとカナが言ったのよ。『あの子、なんか可笑しくない?』『ウケるんだけど』って。——あの目で、言った」
あの目——彼女たちが数年前に幾度も向けられた、弱者を貶める嘲弄の目。
久方ぶりに、しかも隣でそれを目撃してしまった紗織は——、
「二人に話を振られて……私、咄嗟に言っちゃった。『確かに』『そうだね』って……言っちゃった」
それは他の何よりも彼女の心を抉る、言葉で鍛造された鋭利な刃物だった。
紗織は震える声で訥々と続ける。
「それから二人はちょくちょく唯乃莉をネタにするようになって……。私、怖くて……せっかくできた友達をなくすのが怖くて、知り合いだって言い出せなかった」
『ねえねえ。水卜さん、また一人でいるよ』
『ホントだ、ウケる〜……ねえ、紗織?』
彼女たちがそう言って嗤う度に、肯定も否定もしない曖昧な笑顔を取り繕って。
どうしても『やめなよ』の一言が言えなくて。
「……同調圧力ってやつか」
当時の彼女の心情を端的に言い表す単語を吐き出す。
集団の仲間意識を維持するために、共通の文化は欠かせない。
同じ物事を共有することで、集団力はより一層強固なものとなる。
一緒にご飯を食べるとか、遊びに行くとか、これまではそうやって結束を強めていた三人。
しかしマコとカナの何気ない一言で、そこに『水卜唯乃莉をネタにする』という項目が追加されてしまった。
「……そうか。だからあの時……」
紗織に聞こえないように、口の中だけで呟く。
依頼を受けた後、作戦を練るためにハナと雪菜を含めた四人で集まった時。
会話の流れで紗織が見せたスマホ、その唯乃莉とのLINEのトーク画面が、数分もしないうちに刷新されていた。
マメな性格なのだろうとこれまで気にも留めていなかったけれど——今ならわかる。
あれが、ギャルたちに唯乃莉との繋がりを悟られないための隠蔽工作だったのだと。
友達同士なら、日常的にスマホを見せ合うことだってあるだろうから。
この二ヶ月間、そうやってこのJKは中二病少女となるべく関わらないように過ごしてきたのだ。
あの時と同じように。
否、あの時よりもさらに歪んだ形で。
「私、最低だ……」
「……」
自嘲的に吐き捨て、腕を抱く紗織。
今にも泣き出しそうなその姿に、智悠は無言のままに思う。
——果たして彼女は最低なのだろうか。
きっと最低なのだろう。
同調圧力なんて大層な言葉を使ったけれど、つまるところ、そんなものは本人の思い込みでしかないのだから。
彼女を非難するのは容易い。
お前に勇気があれば。
お前に度胸があれば。
——お前に強さがあれば。
けれど智悠は、彼女を責める気にはどうしてもなれないのだ。
だって——そんな行為に何の意味がある。
そんな義務も、権利も、資格も、何もかも智悠は持ち合わせていない。
それに——彼女の物語を知って尚、誰が彼女を責められると言うのだ。
彼女を叱責できるのは、この世でたった一人だけ。
だから、智悠が今するべきことは一つ。
最初から。ただ一つだった。
「桜井。……お前の本当の願い、聞かせてくれるか?」
大事な大事な一人目のクライアントの目を見て、智悠は告げた。
先送りにされていた質問を、再度投げかけた。
「……」
目を伏せた紗織は言い淀むような素振りを見せたけれど、やがて意を決して、
「……私は、唯乃莉と仲直りがしたい」
胸の前で手を握り、ずっと抱えていたであろう願いを口にした。
祈るように、口にした。
それは幼子が抱くような、シンプルで、単純で、だからこそ純粋で尊い願望だった。
「酷いことをしたって思ってる。今更どの面下げてって思われるのもわかってる」
自己を卑下する言葉が、彼女の口から止めどなく溢れ出す。
「けど、それでも……私はあの子と、もう一度あの頃の関係に戻りたい」
けれどその根っこにあるのは、この二ヶ月でどうしようもないくらい膨れ上がった想いだ。
堰を切ったように——鎖から解き放たれたように、新友の前で封じ込めていた親友への想いが、次々と湧き上がる。
「これまでのこと、謝って……許してもらえないかもしれないけれど、許してもらえるまで、何回でも謝って」
そして——、
「——唯乃莉と、また友達になりたい」
強い決意とともに、紗織は言った。
そこに先程までの迷いや躊躇いはない。
人助けの使命を負った男子高校生は、己の胸をトンと叩くと、
「——しかと聞き届けた」
精一杯口角を吊り上げ、笑みを浮かべてみせた。
それを見た紗織は嫌そうに顔をしかめて、
「……あんたの手を借りるのは癪だけど」
「一言余計だ」
ここまで密な会話をしても好感度には一切変化がないらしく、辛辣なお言葉に苦笑してしまう。
とは言え、これで大方のことは明らかになった。
唯乃莉と紗織の過去と今。
教室での二人の距離感の正体。
そして——彼女の本当の依頼。
「結局、最初の段階で間違ってたんだな……」
口の中だけで独りごちる。
つまるところ、そういうことなのだろう。
篠宮雪菜も真白ハナも小日向智悠も、最初から根本的な思い違いをしていた。
水卜唯乃莉が問題なのではなく——問題は別にあった。
もっと、これが『桜井紗織からの依頼である』ことをちゃんと吟味するべきだったのだ。
待ちに待った初めての依頼で舞い上がっていたなんて、何の言い訳にもならない。
全く、この体たらくで何が『困っている人に手を差し伸べる』だ。
こんなんじゃあ、これから先の任務が思いやられる。
死んでも死に切れない。
「……だから、今度は間違えないようにしないとな」
「……小日向?」
訝しげな視線を向ける紗織に首を振り、智悠は問いかけた。
「桜井、最終確認だ。お前の依頼は水卜と仲直りしたいってことでいいんだな?」
「う、うん」
「水卜ともう一度友達になりたいってことでいいんだな?」
「うん」
「これまでのことを謝って、許してくれなくても謝って、土下座でも何でもするってことでいいんだな?」
「うん……って、え? 土下座?」
聞き慣れない単語に狼狽える紗織を尻目に、智悠は一言。
「——だってよ、水卜」
その視線は紗織の背後——部室のドアに向いていて。
「——ッ!」
視線を辿って後ろを振り返った紗織が、驚愕に目を見開く。
そこに立っていたのは、前髪で片方の目を隠した紅眼の少女。
「……流石に土下座を要求したりはしないよ。人聞きが悪いなあ」
——水卜唯乃莉は、そう言って苦笑を漏らしたのだった。
* * * * *
「い、唯乃莉……あんた、どうして……?」
突然の唯乃莉の登場に、紗織は明らかに混乱していた。
目を白黒させて、智悠と唯乃莉へと交互に忙しなく視線を向ける。
唯乃莉はゆっくり部室に入ってくると、
「彼に呼び出されてね」
そう言って、数十分前の紗織と同じようにスマホの画面を見せてきた。
『桜井のことで大事な話がある。これから部室に来てくれ』
細部は微妙に変わっているものの、それは紗織に送ったものとほとんど同じメッセージ。
——ただし、送信した時間に明確な差異がある。
唯乃莉へのメッセージを送ったのは、紗織がこの部室にやって来た瞬間——十六時半過ぎ。
意図的に、ずらしたのだ。
「一体全体何のことかと思って来てみたら、中から二人の声が聞こえてきて驚いたよ。だから咄嗟に隠れてしまった。……まんまと君にしてやられたようだね、小日向君」
その意図をいち早く見抜いた唯乃莉が、紅の瞳に智悠を映す。
首謀者は肩を竦めて、
「はてさて、何のことやら」
「とぼけちゃって。流石、『賢者』の異名を持つだけのことはある」
「お前が勝手に言っただけだからな、それ。大して定着もしてないし」
挨拶がわりの軽口の応酬。
これがここ数週間で培われた二人のコミュニケーションだ。
「……てことは、あんた、ずっと聞いてたの?」
と、完全に置いてけぼりを食らっていた紗織が、二人の間に割って入った。
唯乃莉はこくりと小さく頷く。
「うん、聞いてたよ」
「……いつから?」
「君が恥ずかしい暴露話を披露し出したあたりから」
「ほとんど全部じゃないっ!」
羞恥に顔を赤くして、紗織は顔を覆う。
唯乃莉はそれを微笑み交じりに見つめると、
「うん、全部聞いてた。だから知っている。……いや、知った、かな。そう、ボクは知った。今、知った。これまで君に何があったのか。——そして、これから君が何をしたいのかも」
「……っ」
意地が悪く優しい唯乃莉の言葉に、紗織が息を呑む。
戸惑うように彷徨わせた視線が、傍らに立つ智悠を捉えた。
「——桜井」
静かに名を呼び、ただ頷きかける。
智悠にできるのはそれだけ。
ここから先は、彼女の時間だ。
誰かさんのせいで知られてしまった心根を、逃げ道を塞がれた本心を、真っ直ぐに伝えるための時間。
智悠の意図が伝わったようで、紗織も小さく頷きを返す。
それから一度深く息を吐いて、切り出した。
「……あのね、唯乃莉……」
「……」
唯乃莉は口を挟まない。
黙って言葉の続きを待っている。
「その……ごめん」
逡巡した後、紗織はバッと頭を下げて、
「今まで酷い態度とって、ごめん。勝手なことして、ごめん。……ごめんなさい。全部、謝る。——本当に、ごめんなさい」
最大限の誠意を持って、二ヶ月分の謝罪の言葉を口にした。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちる。
唯乃莉は何も言わない。
対する紗織は、まるで判決を待つ被告人のように、ギュッと唇を引き結んでいた。
一秒、二秒、三秒。
時計が針を刻む音が、静まり返った部室に響き渡る。
「……ずっと」
痛いくらいの静寂は、唯乃莉の呟きによって破られた。
紗織が顔を上げる。
二人の視線が、真正面から交錯する。
「ずっと、裏切られたんだって思ってた。見た目が変わって、あんな子たちと付き合って、普通の女子高生に成り下がった——成り上がった君を見て、裏切られたんだって思ってた」
唯乃莉はそこで一度言葉を切ると。
「……偽物のくせにって、思ってた」
「……っ」
唯乃莉の冷たい台詞に、紗織の顔が悲痛に歪む。
それは、いつぞやも言っていた。
桜井紗織はギャルではない、ただの偽物なのだと。
紛れもなく、紛い物なのだと。
でも、と彼女は続ける。
「それはボクも同じなんだよ。……本当、つくづく同じ穴の狢だ」
「……どういうこと?」
首を捻った紗織に、唯乃莉は苦笑する。
「中学であんな目に遭って、このままじゃ駄目なんだって……内気で引っ込み思案な自分じゃ駄目なんだって思った」
それはついさっき聞いた話と、寸分違わず同じ独白だった。
目の前で口をポカンと開ける少女と同じ道筋を辿る物語だった。
「だから、ボクも変わろうと——強くなろうとしたんだ。二度とあんな思いをしないように……舐められないようにって」
そうしたら、いつの間にかこうなっていた。
両手を広げて、唯乃莉は苦笑しながら言う。
——何のことはない。
結局この二人は、どこまでもどこまでも、似た者同士だった。
中学生活の最後に憂き目に遭い、これまでの自分を顧みて。
変わろうと——強くなろうと思ったのだ。
ただ、二人ではそのベクトルが違っただけ。
周囲に順応できるように『可愛い』を手に入れた桜井紗織。
周囲から舐められないように『カッコいい』を追い求めた水卜唯乃莉。
努力の方向性を違えた昔馴染は、それゆえにすれ違ってしまった。
一人は見せかけのギャルに染まり、一人は遅まきながら中二病を患った。
「……じゃあ、あんたのその病気って……」
声を震わせる紗織に、唯乃莉が小さく首肯する。
「君を許せなかったけれど……でも同時に、心のどこかで、ボクは間違えたんじゃないかって思ってもいたんだよ。君の話を聞いたら尚更ね」
唯乃莉は微笑みに自嘲の色を滲ませて、
「だって、そうだろう? 君には友達ができて、ボクには友達ができなかった。君はいつも三人で、ボクはいつも一人。それは紛れもない事実だ。……だから多分、君の選択の方が正しかったんだろう」
「そ、そんなこと……」
紗織は咄嗟に否定しようとしたが、唯乃莉は静かに首を振ってそれを押し止める。
「……だから」
そして、こう続けた。
「——ボクの方こそ、悪かった」
それは思いがけない、被害者だと思っていた相手からの謝罪の言葉。
紗織が目を見開く。
「気づいていたのに、それを認めたくなくて、つまらない意地を張ってしまった。この場を借りて謝ろうと思う。——本当に、ごめんなさい」
「……っ」
それを聞いた瞬間——紗織の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
そう思ったのも束の間、ぽろぽろと、大粒の涙が次々に生まれては頬を伝っていく。
「そ、そんなこと……ないっ!」
「……紗織」
「唯乃莉は何も悪くない! わ、私、がっ……私が……っ!」
止めどなく溢れる感情の雫。
化粧も気にせずそれを必死に拭って、けれど全然止まってくれなくて。
「私、なのっ……全部、私が……っ!」
紗織は必死に自分を糾弾し続ける。
悪いのは自分だ。酷いのは自分だ。
空気に呑まれて親友を売ってしまった、ビビりで臆病で腰抜けな自分なのだ。
責められるべきは桜井紗織ただ一人。
そうやって自分を貶めながら、嗚咽を漏らしてむせび泣く彼女に——、
「——紗織」
唯乃莉は、柔らかく微笑みかけた。
それはこれまで見てきた中で一番魅力的な、極上の笑顔だった。
そのまま彼女は、自分よりも背の高い紗織の頭に手を乗せて——胸にそっと抱き寄せる。
「……っ、……」
小さな胸の中で泣き続ける紗織。
さめざめと、形容できない感情のうねりのままに。
ずっと、抱え続けていたのだろう。
悩んで、自責して、何とかしたいと思って、けれどどうすることもできなかった。
そんな弱くて不器用な親友を、唯乃莉は片方の瞳で見つめて。
——少しだけ世界を映せるようになった、真紅の瞳で見つめて。
「紗織。——強くなろう。一緒にね」
「……うん」
——こんな風に、紆余曲折を経て。
水卜唯乃莉と桜井紗織は、温かな涙とともに、和解したのだった。