第28話 『ねじれの位置』
ハートキャッチ・アンド・メタモルフォーゼ作戦がものの見事に失敗に終わった、翌々日。
六月八日。月曜日。
二日ぶりの登校日である。
人生初となる女の子とのデート(仮)が何とも後味の悪い結果に終わろうと、そんなことは世間には何の関係もなく。
尖った不良でもない一般生徒は、今日も変わらず学校へ行かなければならない。
そんな戯言を頭の片隅で思いながら、智悠は二年B組の教室で、こっくりこっくりと船を漕いでいた。
瞼がやけに重い。開けていられる気がしない。
今日は、今朝からずっとこんな調子である。
ホームルームでは担任教師のありがたいお言葉を聞き流し、その後の授業もひたすらに居眠りのための時間。
一応ノートを広げてはいるけれど、そのページが文字で埋まることはなく、先生が奏でる無機質なBGMだけが右から左に流れていく。
とは言え、これは退屈な一週間の始まりだからやる気が出ない、なんて今更な理由ではなく。
単純な話、ここ二日間、まともに寝ていないのだ。
ただでさえ同居人ならぬ同居神・真白ハナのロリおっぱいの暴力で日頃から寝不足気味なのに、この土日は輪をかけて眠れていない。
床に就いても、ふとした瞬間に頭をもたげるのは、無論、水卜唯乃莉のことだ。
不遜な態度を崩さず、くどい台詞回しを好む喋々しい中二病を患った少女。
そんな彼女がデート(仮)の最後に見せた、あの表情、あの態度。
それらが、あの日から脳裏にこびりついて離れない。
おそらくだけれど、今回の依頼、単純に唯乃莉の中二病云々だけが問題ではない。
それだけでは、何かが足りないのだ。
何かもっと大事なことを見逃している気がする。
だが、いくら頭を回しても、一向にその答えが導き出せない。
その解が得られない言い知れぬ気持ち悪さが、この二日間もの夜、智悠の脳から睡魔を追い払っていた。
「——はい。じゃあ今日はここまで。次回までにしっかり復習しておくように」
四時限目。
数学担当の教師がそう言うと、程なくして授業終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
その音で、手放しかけていた意識が、半ば無理やりに引き戻される。
先生が教室から出ていくと、クラス内には一気に弛緩した空気が流れ始めた。
「もう、昼休みか……」
結局何一つとして授業の内容を理解しないまま、気がつけば昼休みになってしまった。
周りでは仲の良い連中同士で机をくっつけたり、財布を握り締めて購買へと飛び出して行ったりと、それぞれがそれぞれの昼食の準備を始める。
その様子を後ろから眺めつつ、智悠も真綾お手製の弁当を広げ、いつも通りのぼっち飯と洒落込もうと————、
「……っと、忘れるところだった」
する直前で、ぴたりと動きを止める。
そうだ、こんなことをしている場合ではない。
今日この時間、智悠にはやるべきことがあるのだ。
「……よし」
広げていた弁当を再び仕舞い、眠気覚ましに頬を叩いて立ち上がる。
そして足早に教室を出て行こうとしたところで、
「智悠さん? どうされたのですか?」
ふと、横合いから声をかけられた。
このクラスで智悠に話しかける奴など一人しかいない。
「……ハナ」
真白ハナが、隣の席で不思議そうに智悠を見つめていた。
「どこかに行かれるのですか?」
「ああ、まあ、ちょっと」
「……もしかして、水卜さん関連ですか?」
この女神、意外に鋭い。
とは言え、別に隠すようなことでもないので、
「ああ」
と手短に肯定の返事を返す。
それを聞いたハナは、ふむと一度頷くと、
「そうですか。では、私もお供します」
きっぱりと言って、同じように席を立った。
あまりに自然な流れの同行宣言に、少々面食らう。
「いや、別にハナまで来ることはないぞ。構わずに弁当食べてて大丈夫だ」
ハナの分の弁当も、ちゃんと真綾が作ってある。
朝から三人分の弁当を一気に作る妹には感謝しかないが、その気持ちは家に帰ってから伝えるとして。
転入当初から着々と友達の輪を広げつつあるハナは、昼休みはとりわけ仲の良いクラスの女子グループとランチタイムを謳歌している。
今日も今日とて同じ面子が集まってくるはずなので、それをこちらの都合で邪魔するのは忍びない。
そう思って断ったのだが、ハナはゆるゆると首を振った。
それから優しい微笑みを浮かべると、
「そうはいきません。あなたが誰かのために動くのなら、私にはそれを見届ける義務があります。呑気にお弁当を食べている場合ではありません」
「いや、別にそんな大層なことじゃあ……」
「ありません」
「……わかったよ」
にこやかに毅然と言われては、そう答えるしかない。
仕方なく、ハナを連れて教室を後にする。
「それで、どこに行くんですか?」
「すぐ隣」
「なるほど、隣ですね……え? 隣?」
ハナの素っ頓狂な声とともに、ものの数秒で目的地に到着。
二人がやって来たのは、二年B組のすぐ隣、C組の教室である。
二年C組。
唯乃莉と紗織、そして、本屋で出会ったあのギャルたちが所属するクラス。
「どうして急にC組の教室に……?」
ハナは目的がわからないようで、訝しげな視線を向けてくる。
「一昨日、ハナも、僕たちが本屋で派手めな女子に絡まれてたところ、見てたんだろ?」
「それは、まあ、はい。見てましたけれど」
「あれを見て、どう思った?」
「……あまり、見ていて心地の良い光景とは思えませんでした」
それは『慈愛』を司る女神らしい、少しばかりの気遣いを含んだ控えめな表現だった。
とは言え智悠は女神ではないので、直截的な表現をあえて使わせてもらうが。
「だよな。僕も胸糞悪いって思った」
あのギャル二人組は明らかに、蔑みの目で唯乃莉を見ていた。
唯乃莉の服装や智悠の存在など、イレギュラーな要因が絡んでいた可能性は否定できない。
でも、あの時、彼女は確かに言っていた。
——『慣れてるものだと思っていたけれど』と。
確かに言っていたのだ。
つまるところ、その言葉が意味するのは————、
「水卜さんは、日常的にあのような扱いを受けている……?」
「可能性はある」
とにかく今は情報が欲しい。
この鬱然とした気味の悪い思考を前に進めるための、ヒントとなる情報が。
「何にせよ、実際に見て色々と確かめる必要があるってわけだ」
「……なるほど。わかりました」
智悠の説明を聞き、ハナは納得した様子で頷いてくれた。
意思の疎通が為されたところで、二人揃って教室後方のドアからC組を覗き込む。
昼休み。
それは、高校で過ごす一日の中で、一番如実にクラス内の人間関係が表れる時間。
机を合わせて談笑する者、スマホを弄る者、普段の智悠と同じくぼっち飯に興じる者。
思い思いの休み時間を過ごす生徒たちの中に、目的の人物の姿を探して————、
「…………は?」
そこに広がっていた、目を疑う光景に。
教室を行き来する生徒の不審げな視線も顧みず、智悠は間の抜けた声を漏らした。
* * * * *
——スマホのホーム画面のデジタル時計には、十六時三十分と表示されていた。
どこかから聴こえてくる吹奏楽団の重層な音色、運動部の荒々しい掛け声、どこかの教室から響いてくる談笑。
日中、全生徒入り乱れての喧騒とは少し違う、放課後独特の賑やかさが学校にはある。
そんな放課後の音楽とは隔離された特別棟の四階、その片隅。
もはやお馴染みとなった有志部の部室で、智悠は一人、とある人物を待ち続けていた。
六月に入り、日も長くなっている。
この時間では、窓から見える空の色も、昼時とあまり変わらない。
暇潰しがてら、窓からグラウンドを見下ろした。
サッカー部がシュート練習をしている。
キャプテンと思しき三年生が、特大ホームランを放った。
ゴールを大きく外れ、明後日の方向に飛んでいくボール。
それを見て、部員たちが揃って爆笑している。
皆、顧問がいないひと時を楽しんでいるようだ。
しばらくそんなキラキラした光景を無心で眺めていると、コンコンとドアをノックする音がした。
「……どうぞ」
振り返り、ドアの向こうに呼びかける。
スマホをポケットに仕舞い込んだと同時、ガラリと音を立てて戸が開かれた。
現れたのは一人の女子生徒。
毛先を緩く遊ばせた明るい茶髪に、薄らと施された化粧。
着崩したブラウスに短いスカートは、まさに『JK』を体現したような、垢抜けた印象を抱かせる。
——今回の依頼人、桜井紗織が、ドアの前に立っていた。
紗織は部室に足を踏み入れると、開口一番、
「急に呼び出して、何?」
やや不満げに言いながら、持っていたスマホの画面を見せてきた。
そこに表示されているのは、LINEのトーク画面。
ただし、その相手は『水卜唯乃莉』ではなく、『小日向智悠』である。
白い吹き出しに、『水卜のことで大事な話があるから、放課後部室に来てくれ』と書かれている。
間違いなく、智悠が送ったメッセージだ。
「何であんたが私の連絡先知ってんの?」
「一昨日、水卜と交換した時に、ついでに教えてもらった……、いや、教えられた」
一応、映画を観た後に流れで交換していたのだ。
「あの馬鹿……」
忌々しそうに愚痴る紗織。
智悠としても驚きだ。
家族と雪菜の連絡先しかなかった『友だち』欄に、まさかこの短期間で二人の女子の連絡先が追加されるなんて。
「……はぁ、まあいいや。で、大事な話って何? というかあの二人は?」
後でブロックすれば良いとでも思ったのだろうか、紗織は諦めたようにそう言って、切れ長な瞳をこちらに向けてきた。
「ハナと雪菜先輩なら、頼んで先に帰ってもらった。今、ここには僕しかいない」
事情を説明すると、雪菜は「あなたに任せるわ」と快諾してくれた。
ハナの方は「私には使命が……」と渋っていたけれど、説得の末に何とか帰宅してもらえた。
あの二人にここにいてもらうわけにはいかない。
多分、これは智悠が一人でやるべきことだろうから。
紗織はつまらなさそうに毛先を指に巻きつけながら、
「ふーん……、じゃあ、話って何? もしかして、あの子を治す方法でも思いついたの? デート作戦、駄目だったもんね」
最後の発言には、チクリと刺すような、微量の棘が含まれているような気がした。
あれを考案したのは雪菜だったはずだが。
「……いや。期待を裏切るようで悪いが、有効的な方法は思いついてない。と言うか……」
そこで智悠は一拍置くと。
「——多分、あいつのアレは治せない」
「……はあ?」
試合放棄とも取れる智悠の唐突な発言に、紗織が目を剥いた。
それから睨むように眉を寄せて、
「ちょっと待ってよ。何それ?」
「あいつのアレは筋金入りだよ。外部からちょっと介入しただけじゃあ、治しようがない。そもそも中二病自体、自然治癒するのが一般的だ。ほっとけばその内治る」
「勝手なこと言わないでよ。あんたたち、生徒の悩みを解決してくれるんじゃないの?」
「そうだけど、だからって別に僕たちは何でも屋ってわけじゃない。出来ないことだってある」
「な……、あ、あんたがやってくれるって言ったんじゃん! だから私は信用して」
「それについては本当に申し訳ないと思ってる。だけど……」
そこで一度、言葉を区切ると。
「桜井、一つ訊きたい。——お前さ、何でそんなに水卜の中二病を治したいんだ?」
「……は?」
紗織は間の抜けた声を漏らした。
その表情は、何を言われたのかわからないとでも言いたげだ。
それもそのはず。智悠の質問はあまりにも今更で、これまでの文脈を盛大に外している。
でも、構わない。
他でもない彼女が、それを知らないはずがないのだから。
「お前が依頼を持ち込んだ時から、どこかでずっと引っかかっていたんだ。何でこいつは、こうまでして水卜の中二病を治したいんだろうって」
「何でって……、それは、あの子が病気だから……」
「それはあいつの都合であって、お前には関係ないことだろ」
二人が部室にやって来てからこっち、頭の片隅に蟠っていた、得体の知れない違和感の正体。
——桜井紗織の願い事には、肝心な『動機』が抜けていた。抜け落ちていた。
「水卜がああなったのは、高校からなんだよな?」
「そう、だけど……」
紗織は声を震わせながら答える。
彼女自身が言っていたことだ。
小学生、中学生の時の水卜唯乃莉は、どちらかと言うと大人しめの子どもだったと。
「多分、僕は無意識に納得していたんだ。高校に入って変わってしまった、小学生来の仲の良い同級生に、元に戻って欲しい。そう思うのは自然なことだって、勝手に動機をこじつけていた」
それはおそらく、篠宮雪菜も、真白ハナも。
唯乃莉の中二病にばかり気を取られて、それを暗黙の前提としてしまっていた。
彼女たちの会話の節々から感じる印象だけで、二人の関係性を勝手に曲解していた。
「そして、この依頼は正当なものだって思い込んでいた」
「……」
紗織は何も言わない。
黙って、智悠の話を聞いている。
「でも、それだとおかしい。おかしいんだ。辻褄が合わない。だって——」
だって。
「桜井————お前は、あのギャルたちと同じグループなんだろ?」
「——ッ」
ゴクリと。
二人しかいないこの教室で、この距離で、紗織の息を飲む音が聴こえた気がした。
今日の昼休み。
ハナと二人で覗き見た、C組の光景————C組の内情。
水卜唯乃莉は一人で昼飯を食べていた。
廊下側前方の自分の席で、一人。
それ自体は何の問題もない。智悠も常日頃からやっていることだ。
だがしかし、そんな中で。
唯乃莉の席とは対角線上、窓側後方の席。
——そこで、本屋で唯乃莉にちょっかいをかけてきたギャル二人組と紗織が、一緒に弁当を広げていたのだ。
あの目をして。あの笑い声を上げ。
華やかな雰囲気を周囲に撒き散らし、自分たちだけの世界を作っていた。
「まさかお前があいつらとつるんでるなんて、予想してなかった。水卜を馬鹿にしていた、あいつらと」
「……」
「今日も盛り上がってたな。『一昨日、駅で冴えない彼氏連れてる水卜さんに会ってちょーウケた』とか何とかって。遠くからでも聞こえたよ」
「……」
「お前ら、いつもクラスではあんな風にお互いに距離をとってるのか? それとも僕が見たアレは、今日限りの偶然か?」
クラス内の人間関係が如実に表れる時間。
唯乃莉と紗織の間には、確かに見えない壁が存在していた——隔絶と表現してもいいほどに。
物理的な距離だけではない。
心理的な距離もまた、側から見てもわかるくらい、遠く、遠く感じられて。
「……」
紗織は尚も口を閉ざしたままだ。
だけれど、それで構わない。
その沈黙が、何よりも答えを雄弁に語っている。
紗織も、そして唯乃莉もちゃんと言っていたではないか————『あの子は友達じゃない』と。
頑なに。認めようとしなかった。
あるいは——認める必要すらなかった。
「僕にはわからないんだよ」
考えた。思考した。熟考した。
考えて、考えて、考えたけれど————、
「あいつをああやって嗤うような奴らとクラスで一緒にいるお前が、どうしてあんなことを僕たちに頼んできたのか、僕にはさっぱりわからない」
わからない。わからないことだらけだ。
小学校からの同級生。
高校でのクラスメート。
水卜唯乃莉と桜井紗織。
この二人の歪な関係が、その背後にある物語が。
おそらく、全ての答えはそこにある。
「……もう一度訊くぞ、桜井。お前は、何で水卜の中二病を治したいんだ? あいつの問題を解決したいんだ? ————お前の本当の願いは、何だ?」
夕方の部室に、静寂が訪れる。
時計が秒針を刻む音だけが、耳鳴りのように響いてくる。
一秒、二秒、三秒。
果たして、どれくらいの時間が経っただろうか。
待ち望んだ桜井紗織の第一声は、おもむろに吐いた深いため息だった。
「はぁ……、もう、仕方ないか」
そして、まるで全てを諦めたような表情で、唇を震わせる。
「ねぇ。……あ、えっと……こ……こ……」
「小日向」
「そう、小日向」
「まだ覚えてないのかよ」
「仕方ないでしょ。あんたが覚えにくい奴なのが悪いのよ」
「否定はしない」
「で、小日向。その質問に答える前に、ちょっとだけあんたに聞いてもらいたい話があるんだけど、いい?」
「……何の話だよ?」
彼女は薄く、儚い微笑を浮かべて。
「昔の話。私と————そして、あの子の」
こうして、語られる。
彼女たちの物語が。




