第25話 『エンドロールのその後は』
智悠と唯乃莉が二階に上がったタイミングを見計らい、雪菜たちストーカー三姉妹はチケットカウンターの列に並び始めた。
「ここまでくれば、智悠君たちに見つかることはまずないでしょう」
ほっと安堵の息を吐き、雪菜が帽子にサングラス、そしてマスクと、自前の変装グッズをパージした。
ハナと紗織もそれに倣い、隠されていた美少女たちの素顔が露わになる。
そして、二人も同じように深々と息を吐き出した。
「何だかすごく疲れました……」
「私も……」
ハナが疲労を口にすれば、紗織もつられて重苦しい息を落とす。
智悠に気づかれそうになってからというもの、三人の尾行には緊張感が増すようになった。
バレないようにバレないようにと、智悠たちの一挙手一投足に気を配り、後ろを向きそうになる度にそそくさと隠れる。
口で言うのは簡単だが、実際にやるとなると結構神経と体力を使う所業だ。
知らず、心と身体に疲労が溜まる。
特に、率先して二人を先導していた長女の疲労感は一入だろう。
雪菜は緊張で凝り固まった肩を揉み揉みほぐしながら、
「さて。私たちも早くチケットを買ってしまいましょうか」
そう言って、肩越しに二人に振り返る。
本日公開となる新作映画の影響もあり、チケットカウンターの列はそこそこの長さの蛇となっていた。
だが、チケット購入にさしたる時間はかからない。
程なくして、雪菜たちの番がやってきた。
「お次にお待ちのお客様ー」
手を挙げるスタッフに導かれ、三人はレジへと進む。
その途中で———、
「……桜井さん?」
ふと足を止めた紗織に、雪菜が訝しげな視線を向ける。
「———」
雪菜の呼びかけに応えることなく、紗織の意識はあるものに集中していた。
視線を辿る。
彼女が見ていたのは、レジ横に設置されている、とあるホラー映画のポスターだった。
不穏な暗闇を背景にして、中央では青白い顔をした幼い少女がニタリとおぞましい嗤笑を浮かべている。
『シリーズ史上最恐』と血塗りの文字が踊り、ポスターだけでも、一度見たら忘れられないインパクトがあった。
現に、紗織の横で同じようにポスターに視線を向けたハナは、少し涙目になって必死に目を逸らしている。
感受性が豊かなのだろうか。
「桜井さん」
もう一度、雪菜が声をかける。
「———あ、はい。すいません」
今度はちゃんと聞こえたようで、紗織はポスターから意識を外し、パタパタとレジまでやって来た。
ハナも遅れて、ポスターの怨霊から逃げるようについてくる。
「急にどうしたの?」
「いえ、何でもないです。すいません」
尋ねるも、紗織から返ってきたのは、そんな素っ気ない返事だった。
その様子を不審に思いながらも、雪菜は三人分のチケットを購入した。
各種メディアに引っ張りだこ、今をときめく俳優と女優がダブルで主演を務める、話題の恋愛映画だ。
様々な番組で宣伝しており、ここしばらくSNSでもトレンドに上がっている。
今日は、紗織のアドバイスに従い、この映画を智悠たちは観ることになっているのだ。
上映開始の時刻はもうまもなく。
どうでもいいことだが、さっき紗織が眺めていたポスターのホラー映画も同じ時刻に上映するようだった。
売店でポップコーンとドリンクを買い、エスカレーターで二階に上がる。
と、エスカレーターが中間くらいに差し掛かったところで、
「……あの子が好きそうな映画だって、ちょっと思ったんです」
ぽつりと、内緒話をするくらいの細やかな声で、紗織が呟いた。
「え?」
唐突な発言に、雪菜は訊き返す。
ちなみにハナはエスカレーターに夢中で、全く聞いちゃいなかった。
「じ、地面が動いています! 動いていますよ!」
まるで初めてエスカレーターに乗った子どものように、瞳を輝かせて興奮している。
どこにでもあるものなのに、何がそんなに面白いのだろうか。
そんなハナに構わず、紗織は眼下、小さくなっていく館内ロビーを見遣り、
「さっきの、あの、ポスターのやつ」
それで雪菜はようやく、彼女がいつ、何のことを言っているのかがわかった。
彼女が言う『あの子』が、誰のことを指しているのかも。
「……そう」
だから、雪菜も言葉少なに応じるにとどめる。
そのまま三人はスクリーン2に移動。
まだ公開して何日かしか経っておらず、劇場内は結構な混雑具合を見せていた。
さらに言えば———、
「……カップルだらけね」
「そ、そうですね……」
雪菜の重い呟きに、紗織が曖昧な笑顔で応じる。
流石はカップル御用達の恋愛映画と言うべきか、劇場内にいるほとんどの客がカップルだった。
どの列を見ても、並んでいるのは男女男女女男女男男女女男————。
このカップルたちの巣窟のどこかに智悠たちがいるのだろうが、如何せん人が多過ぎてわからない。
「まあ、裏を返せば、二人にもこちらの姿がバレにくいと言うことだから、これはこれで良しとしましょう」
スクリーンは広い上に薄暗い。
この分なら、わざわざ変装グッズを装着し直す必要もないだろう。
「私たちも座りましょうか」
「ですね」
そこかしこで繰り広げられるカップルの甘ったるい光景を尻目に、スクリーン後方、ぽっかり空いた三席に腰を落ち着ける。
「ここが映画館ですか! 智悠さんから聞いてはいましたけれど、すごいですねー」
ふかふかの椅子をペシペシ叩くハナが、館内を見回して感嘆の息を吐く。
天界から地上を覗いていたので映画館なる施設の存在とその役割は知っていたのだが、実際に目にすると、そのスケールに圧倒されてしまう。
「真白さん、もしかして映画館は初めて?」
「はい! てんか……じゃなかった、前にいたところでは、このような施設はありませんでしたから」
「あら、そうなの。なら、今日は真白さんも楽しめるといいわね」
「はい!」
やがて、ゆっくりと照明が落ちていき、恋愛映画が始まる。
ターゲットが隣のスクリーンにいるとも知らずに。
カップルだらけの劇場内で、場違いな少女三人組は、無意味で甘味な恋物語の世界に浸るのだった。
* * * * *
———場面は切り替わり、スクリーン1にて。
気がつけば、ホラー映画は終盤に差し掛かっていた。
ということは、映画が始まってから、もう二時間も経っていることになる。
楽しい時間はあっという間に過ぎると言うが、それは怖い時間にも当てはまるのだろうか。
あるいは———、
「…………ッ」
右隣から、またもや小さく息を飲む音が聴こえる。
ぷるぷると小刻みに震える唯乃莉の小さな手は、未だ智悠の服を掴んで離さない。
もう物語は終わりに近づいている。
そうそうここからさらなる恐怖体験は起こらないと思うが、それでも唯乃莉は、スクリーンを固唾を飲んで見守っていた。
彼女の震えが伝わる度に感じるこの胸のざわつきが、時間の感覚に関係しているのだろうか。
別段楽しくもなければ怖くもない。
だとしたら、これは———。
そんなことをつらつらと考えている内に、二時間に及ぶ恐怖の物語は終焉を迎えた。
主題歌とともに、エンドロールが流れ始める。
しっかりと最後までテロップを見てから、智悠と唯乃莉はどちらともなく長い息を吐き出した。
映画を観終わった後特有の余韻と満足感に浸っていると、徐々に劇場内に明かりが戻り始める———と。
「あ……」
唯乃莉は、そこで初めて、自分の手が智悠の服をずっと握っていたことに気づいたようだった。
「……」
呆然と見つめること、数秒。
「———ッ!」
そして、我に返ったようにバッと勢いよくその手を離した。
そのまま明後日の方向を向き、素知らぬ顔を貫こうとする。
しかし、薄明かりが灯る館内では、その横顔が朱に染まっているのがありありとわかった。
どういうわけか———とは言うまい。
こういうわけだと、わかりきっている。
「……お前、ホラー映画、別に平気ってわけじゃないんだな。てっきり、こういうの慣れてるんだと思ってた」
別に意地悪をしてやろうなどという魂胆はないけれど、口にせずにはいられなかった。
ポスターを観ていた時の、あの表情。
えらく熱望していたようだったから、てっきり日常的にホラー映画を観慣れていて、智悠よりもホラー耐性があるものだとばかり思っていたのだが。
「……別に、得手不得手と好き不好きはイコールじゃないだろう。人間、趣味嗜好と能力が噛み合わないことなんて往々にある。スポーツ観戦が趣味の人が皆そのスポーツが得意なわけじゃないし、ロックな音楽が好きな人が皆ギターやベースをジャカジャカ弾けるわけじゃない。そう考えれば、同じようにホラーが得意ではないけれど、いや、むしろ得意じゃないからこそ、退屈な日常では味わえない恐怖というか、驚怖を体感することを好むことだってあり得ない話じゃあないだろうし、大体……」
「よしわかった。僕が悪かったから、落ち着け」
どうどうと、一息で早口にまくし立てた唯乃莉に待ったをかける。
そこで唯乃莉は我に返り、興奮して上気した頬を隠すように、長く伸ばした片方の前髪を弄び出した。
その、どこか幼い様子に、思わず苦笑が漏れる。
この分だと、ホラー耐性の有無を『能力』と位置付けたことに対して物申したい本音は引っ込めるべきだろう。
それを言ったら藪蛇だ。
霊に続いて蛇なんて笑えない。
恐怖体験は一日に一度で良い。
「さて、そろそろ僕らも出るか」
軽くなったトレイを持って立ち上がる。
出口に向けて歩き出すと、遅れて唯乃莉もトコトコと足早についてきた。
「それと、これも言っておくけれど……君の認識を正しておくけれど、ボクが君の服を握っていたのは確かにホラー映画への恐怖心からの行為だ。それは甘んじて受け入れよう。でもね、それはあくまで恐怖という心理ゆえの結果であって、そのはけ口としてちょうど良い物体が側にあったから有効活用しただけであって、別の心理は決して関係ない。そこはゆめゆめ勘違いしないで欲しい。ボクは別に、全然、まったく、これっぽっちも君のことを……」
「わかったわかった。勘違いなんてしてないから、安心しろ。そんな簡単にいくなんて端から思ってない」
吊り橋効果など最初から期待していない。
もしそうなら、作戦立案の段階で真っ先にホラー映画をセレクトしている。
怖いドキドキは怖いドキドキ、恋のドキドキは恋のドキドキだ。
背中越しに聞こえてくる饒舌な弁明になおざりに返し、人の流れに沿ってスクリーンを出る。
ホラー映画の客数にしては一階ロビーへと向かう人の数が多いと思ったら、どうやら隣のスクリーンで上映していた、当初の目的の恋愛映画も同じ時刻に終了したらしい。
スクリーンを出てからもやいやい噛みついてくる唯乃莉だったが、智悠が本気で気にしていないとわかると、それ以上は何も言ってこなかった。
そのままの流れで映画館を後にし、二人は入口を挟んだ向かい側にあるコーヒーショップに入った。
度重なる驚きと長時間の緊張で、二人とも喉が渇いていたのだ。
あとはシリーズ史上最恐の洗礼を浴び、疲れた心身を休めたいという思いもあった。
レジに並び、手早く注文を済ませる。
「えっと、アイスコーヒーで」
「ボクも同じものを少々」
「塩胡椒みたいに言うな。一つでいいだろ」
「ボクも同じものを一つ」
続いて、店員にサイズ選びを促される。
メニュー表を見てみると、それぞれのドリンクに『ショート』『トール』『グランデ』と表記されていた。
それを見るなり、唯乃莉が首を傾げながら小難しげな顔をする。
「水卜?」
「いやね、『ショート』と『トール』は何となく察しがつくけれど、『グランデ』っていうのがいまいちピンとこなくてね。どうやらボクの辞書には載っていない言葉のようだ。何だろう、アリ?」
「多分おそらく絶対に関係ないと思うぞ。えーと、何だったかな……確か、イタリア語で『偉大な』って意味だったような気がするけれど。要はLサイズってことだな」
随分前にカフェ好きの真綾と訪れた際、同じように戸惑っていた智悠にそう解説してくれた記憶がある。
それにしても、カフェ好きとは、妹のリアルが充実し過ぎていて、兄心としては少々複雑だ。
そんな智悠の心中をよそに、唯乃莉は反対方向に首を曲げ、
「偉大な…………アリ?」
「だから関係ないと思うぞ」
「アリーヴェデルチ?」
「帰るな」
「それにしても、イタリア語、か……」
「多分飲み切れないから、頼むなよ? 頼むから頼むなよ?」
「ややこしいな」
イタリア語のカッコよさに瞳を輝かせる中二病に、一応釘を刺しておく。
結局購入したのは、一番小さい『ショート』サイズ。
アイスコーヒーを受け取り、ガラス張りになった壁を横に、二人掛けの席に腰掛ける。
窓からは駅のペデストリアンデッキが見渡せた。
時刻はお昼時よりも少し前。
往来を歩く人々の姿は、さらにその数を増やしつつある。
太陽も高度を上げ、その眩しさに智悠は目を細めた。
ブラックのアイスコーヒーを口の中で転がし、コーヒー本来の香りと風味を楽しむ。
心が落ち着くほろ苦さに、二人してふっと短い吐息を漏らした。
「して、小日向君」
そうして人心地ついたところで、ガムシロップを二つ程投入しながら、唯乃莉が口を開いた。
ポップコーンの一件と言い、甘党なのは本当らしい。
「ん? 何だ?」
「君があの映画をどう観たのか、訊いてもいいかい?」
「それって、感想ってことか?」
「そう言ってもいい。ここは是非、円卓シネマと洒落込もうじゃないか」
「またどっかで聞き齧ったような用語を……」
円卓シネマとは、異なる文化的・社会的背景を持つ人々が一緒に同じ映画を観て、その後、それぞれの感想を伝え合うというものだ。
異文化理解に繋がる方法の一つとして、大学の講義などで取り入れられたりしているらしい。
つまるところ、ただの感想会である。
「映画館がデートの定番になっているのも、そういう面からかもしれないね」
「どういうことだ?」
「映画を観れば感想が生まれる。感想が生まれれば会話が始まる。カップルの交流にはうってつけってわけだ」
「あー、なるほどな……」
これまでデートスポットなるものについて考えたことがなかったので思いつきもしなかったが、確かに、これは半ば強制的に共通の話題が生まれるシステムと言えよう。
共通の話題があるからといって、人が仲良くなれるとは限らないけれど———心まで通じ合うとは限らないけれど。
カップルにとっては、話の接ぎ穂は重要なのだろう。
「桜井の奴、だから映画館を選んだんだな」
「だろうね。もっとも、あの子は恋愛映画を観て欲しかったようだけれど……あの子らしいよ、まったく」
そう呟く唯乃莉の声には、呆れの色が混じっている。
でも、それ以上に———寂しさのようなものが感じられたことが、智悠の胸には引っ掛かった。
「で、君はどう観たんだい?」
だが、それを追及するより早く、唯乃莉が先の質問を繰り返してしまう。
「どう観たって言われたら……まあ、普通に怖かったんじゃねえの。あの幽霊が急に出てくるところとか、ちょっとビビったし」
実際は結構驚いていたのだが、そこはご愛嬌。
小日向智悠、男の子である。
「ふむ……それで、ストーリーの方は?」
「そっちも、なかなか凝ってたよな。まさかアプリを流行らせたのがアイツだったとは、最後までわからなかった」
観客の恐怖を煽る演出もさることながら、ストーリーの方も緻密に組み立てられていて、最後の伏線回収には素直に驚かされた。
正直、ホラー映画は客をビビらせることだけに特化しているものだと思っていたので、良い意味で期待を裏切られたと、密かに満足感を感じていたりもする。
そんな感慨に耽っていると、対面に座る唯乃莉はやけに神妙な面持ちで、
「じゃあ、総括して、君はあの映画に満足したってことでいいんだね?」
「まあ、そうだな。割と面白かった」
何の気なしに、思ったままを口にすると、
「そうか…………なら、良かった」
唯乃莉は、ほっと安堵の息を吐く。
それから、これまでに見たことのない柔らかな笑みを浮かべた。
「良かったって、何が?」
「いいや、何でもない。こっちの話だ」
問い返すも、唯乃莉はすぐにまたいつもの表情に戻ってしまった。
素気無くそう言って、くるくるとストローを回す。
ほろ苦いコーヒーと甘いガムシロが、ゆっくりと混ざり合っていく。
「ストロー、噛む?」
「そんな特殊な間接キスは嫌だ……」
悪戯っぽく問う唯乃莉にコーヒーを飲んだ時とは違う苦い顔をしつつ、頭の中では別のことを考えていた。
先の彼女の言葉の裏、その真意を。
だが、いくら考えても答えには辿りつかない。
自分のわがままに付き合ってもらった、彼女の小さな罪悪感を。
自分の好きなものを楽しんでくれた、彼女の密かな喜びを。
そんなふんわりとした彼女だけの気持ちを、彼が悟ることはない。
小日向智悠———主人公である。